ⅩⅤ 智慧比べ(2)

 その日の夕刻、ヘリオポリスより少しナイルを南に溯上した河川敷に、州都ヘリオポリスと第13ノモス内にある村々の捜索を終えたアメン神官団の兵達が終結していた。


 一面に張られたテントの白い布は傾きかけた太陽の光に赤く染められ、あちこちから夕食の用意のための煙が空に向かって立ち上っている。


 その中で一際大きなテントの内に、本来はテーベのカルナク神殿にいるはずの大司祭アレクエンアメンの姿も見られた。


 数日前、レオントポリスを訪れた彼は一旦、テーベに帰還はしたものの、下エジプトにある王朝の首都・サイスを訪れる用事ができたので、そのついでにイレト・ラー捜索の進捗状況を確認しようと、ここへも立ち寄ったのである。


「どうじゃ? 例の小娘の行方の方は?」


 急に用意した粗末な椅子に、どこか不満そうに座りながら大司祭は尋ねる。


「ハッ。現在、懸命に捜索しておりますが、いまだ捕えるまでには至っておりません。それらしき者がナイルの分岐点からダミエッタ支流を北に下り、ヘリオポリスの付近まで逃げて来たことは掴んだのですが……本日、辺り一帯を捜索したものの、そのような者は発見できませんでした」


 威圧的な大司祭の前で膝を突き、ラーの眼イレト・ラー・セクメトと、それを持ち出したであろう女性神官の捜索を任されている捜索隊の隊長ウセルエンが答える。


「さらに北へ向かったのやもしれません。すぐ北にはセクメト女神とも関係の深い、バステト女神所縁ゆかりのブバスティスの町もありますし……なお、セクメトと思しき黄金のライオン像を見たというような証言はまったくありませんでした。人目につかぬ夜の内にでも移動させているのか……あるいは、どこかへ隠して逃亡したということもありえるかと」


「そうか……」


 ウセルエンの報告を受けた大司祭は、頷いてしばし考え込む……それから再び口を開くと、彼を労うこともなく告げた。


「そのまま捜索を続けよ。見つかる危険性を考えれば、セクメトを置いて移動することはまずあるまい。もし仮にどこかへ隠してきたとしても、そうそう遠くへは離れられぬはずだ。いずれにしろ、セクメトも小娘もギザよりこちら側の下エジプト……しかも、この付近にいることは間違いない。必ずや探し出すのだ!」


「ハッ! 偉大なるアメン・ラー神の名にかけましても!」


 大司祭のお言葉に、ウセルエンは気合の籠った返事を高らかに響かせる。


「うむ。だが、この地であまり乱暴なことはするなよ? ヘリオポリス神官団に睨まれるといろいろ面倒だからな。いにしえより太陽神ラーを祀ってきた権威ある神殿だ。一応、敬意は払わねばならん。まあ、サイスに行った折にファラオと宰相にはこちらでの便宜を頼んできたので、ある程度の無理は通るだろうがな」


「ご配慮ありがとうございます。ここの州知事ノマルコスとヘリオポリス市長ハアティも、アメン大司祭様の御名を耳にした途端、こちらの捜索活動をあっさり黙認してくれました。いくらヘリオポリス神官団とて、アメン大司祭アレクエンアメン様のご意向に逆らうような真似はできないでしょう」


「それでは頼むぞ、ウセルエン。テフヌトの方の調整も順調だ。いつでもセクメトを捕える用意はできておるからな……」


 ウセルエンのおべっかを聞きながら、大司祭はおもむろに立ち上がる。


「もうお帰りですか?」


「ああ。もうじき日も暮れる。このような所でアメン大司祭のわしが一晩明かす訳にもいくまい? それに、わしもいろいろと忙しいのでな。確かにイレト・ラーを掌中に収めることは最重要事項ではあるが、このエジプトを守るためにはそればかりにかまけている訳にもいかぬのよ。来たるべきペルシアとの大戦のため、我らアメン神官団のもとに上・下エジプトを一つにまとめなくてはならぬ……」


 尋ねるウセルエンにそう語りながら、大団扇を持ったお付きの者二人を従え、大司祭はテントの出入り口へと向かう。


「お帰りの御道中、どうぞお気をつけくださいませ」


 ウセルエンもその後に続き、大司祭を見送りに出ようとする。


 ……だが、彼らがテントの外に広がるオレンジ色の世界へと、一歩足を踏み出したその時のことであった。


「……ん? ちょっと待て……なんだ、この臭いは?」


 大司祭は不意に立ち止まると、クンクン犬が臭いを嗅ぎわけようとするかのようにその鷲鼻を動かす。


「は? ……臭いがどうかなされましたか?」


 突然、奇妙な行動をとる大司祭に、ウセルエンは怪訝な顔をして訊き返す。


「いや、この臭いだ……どこから臭ってくる?」


「臭い……ですか? いえ、私はナイルの川の臭いしか……ああ、これは申し訳ありません。このようにむさ苦しき者どもがたむろしておりますゆえ、だいぶ汗臭かったでしょうか?」


「クンクン……ん⁉ こやつか! この兵士から臭ってきておる!」


 大司祭の言葉を誤解して謝るウセルエンだったが、大司祭はそれを無視してなおも臭いの元を捜し続けると、出入り口の両脇に立つ見張りの兵の一人に鼻を近づけた。右側にいた者だ。


「ひっ…⁉」


 突然、雲の上の人物に詰め寄られたその兵士は、思わず身体と表情を石のレリーフのように強張らせる。


「貴様っ! 大司祭様に不快な思いをさせるとはなんたる無礼をっ!」


「い、いえ、わ、私は別に何も……」


 烈火の如き形相でウセルエンは兵士を叱責する。だが、大司祭はそれを手で制すと、怯える兵の顔を見つめて冷静な口調で言った。


「いや、そうではない。この甘ったるいようなこうの臭いだ。これは、やはり……」


「えっ? ……香…ですか? ……クンクン……ああ、そういえば、微かに……」


 思わぬ大司祭の言葉に、ウセルエンも兵に鼻を近づけると、確かに香のような甘い臭いが微かに漂ってくる。


「ですが、この臭いが何か?」


「フン。これはな、知る者ぞ知る、人の心を自在に操り、記憶を書き変える魔術で使われる特別な香だ。おそらくこの者は今日どこかでその魔術をかけられた……この魔術自体、滅多にお目にかかれるようなことのない代物だが、小娘の捜索の最中、そんな魔術をかけられたとなると……おかしいとは思わぬか?」


「もしそうならば、それは確かに妙ですね……はっ⁉ まさか、セクメトを奪った娘がその魔術を……貴様っ! 本当にそんな魔術をかけられたのか⁉」


「わ、私は何もそんな憶えは……」


 再びウセルエンに強く言われ、怯えた目をした兵士はふるふると首を横に振る。


「まあ、記憶にないのは当然であろう。これはそのような魔術だからな……だが、この者が捜索に行った先を一つ一つ当たっていけば、どこでかけられたのかは絞り込める。かような知る者とて限られた魔術……その小娘自身が使ったのか、それとも誰ぞ協力者でもおるのかは知らぬが、とにかくこれで尻尾は捕えた……フフ……フハハハハハッ! これは神々の御計らいぞ! もしわしがここを訪れておらねば、けしてこのことには気づけなかったろうからな」


 思いがけず重大な手掛かりを掴み、大司祭は高らかに笑い声を夕暮れの空に響かせる。


「ウセルエンよ! この者の案内でもう一度この近辺を探り、その魔術をかけられた場所を特定するのだ! おそらく、そこに小娘はおる!」


「ハッ! 直ちに!」


 大司祭のめいに、ウセルエンは目を猛禽のように鋭く輝かせて返事を返す。


「それからレオントポリスへ遣いをやって、テフヌトの慣性訓練を行っているアルセトにもこちらへ向かわせるのだ。〝待ちに待った〝狩り〟の時間だ〟と言ってな……先程はあまり無茶をするなと言ったが前言撤回だ。ラーの眼イレト・ラーを手に入れるためならば、ヘリオポリスの者どもに遠慮なぞ無用……」


 赤く水面を染めるアトゥム・ラー神たる夕日を眺めながら、その夕日を掴むようにして大司祭は強く拳を握りしめる。


 そして、ウセルエンの方を振り返ると、その手をかざして声高に改めて命じた。


「わしはテーベにて朗報を待つ! 偉大なる国家神アメン・ラーの名において、思う存分働くがいい――」

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