ラストオーダー

小町紗良

ラストオーダー

 絶え間なく打ち上がる花火や爆竹の音、バカ騒ぎに興じる人々の歓声。締め作業のためハンバーガーショップに居残る私は、押し寄せてくる騒音をぼんやり聞いていた。


 市制記念日だった。


 昼間には、絶妙にかわいくない薄汚れた着ぐるみと、サテン地の粗末な衣装を着たオネーチャンを山車に乗せたパレードや、アマチュア管楽隊の行進が店の前を行き過ぎた。ホットドッグや焼き栗やくじ引きの屋台が立ち並び、暇を持て余した市民たちがあたりを見回しながら練り歩くのだ。朝十時に市役所前で行われる、毎年恒例の市長のスピーチなんて誰も聞いちゃいない。


 友達も恋人もいないし、同僚たちと特別仲が良いわけでもない。だからこういうお祭り騒ぎに乗じる仲間はおらず、市制記念日を祝おうという気概を抱くほどこの町を愛しているわけでもない。ひとりだけ遅番シフトにされたって、何も惜しくはなかった。


 閉店時間まで三十分を切ろうとしていた。時刻は二十三時二十五分、良い子は寝るべき時間だが、窓越しの人ごみの中にはローティーンの子供たちはおろか、親に肩車されてはしゃぐ幼児の姿も見える。花火が上がり、音が響くたび、人々の肌に輸入菓子みたいな炎の色が反射する。日付が変わるその瞬間まで、市民が一丸となりはしゃぎ続けるのが習わしのようだ。


 いつもは放課後の学生や頭の悪そうな若者がたむろしているこの店も、今日はガラ空きで暇だった。夕刊片手に毎日うっすいアメリカンを飲みに来る常連のおじいちゃんも来ず、人件費と売り上げが釣り合ってない気がする。


 ラストオーダーまであと五分あるが、もうお客が来るとは思えない。座席の清掃も簡単に済ませたし、作り置きのうっすいアメリカンも廃棄した。売り上げの処理をはじめてしまおうと思い、レジを操作しようと人差し指を持ち上げたその時……人ごみを掻き分けて、ひとりの男が店の扉を押し開けた。


 鮮明な打ち上げ音が、私の耳に穿たれる。


「失礼、まだ注文できるかな」

「あと三十分で閉店しますが、それでもよろしければ」


 その男は、およそこんな店に来ないであろう身なりをしていた。見るからに上等なストライプ柄のスリーピーススーツを着て、見るからに上等な革靴を履いた壮年の紳士だ。しかしくたびれた様子で、オールバックに整えられていたであろう整髪料まみれの黒髪は乱れ、彫りの深い顔には疲労の色が浮かぶ。観衆に紛れようと、この男の顔にだけ花火の色は映らなかったようだ。


「それじゃあ、アメリカンとチョコレートドーナツ」

「すみません、コーヒーはさっき廃棄しました」

「……じゃあ、コーラとフライドポテト」

「かしこまりました」


 男はジャケットを脱ぎ、レジ横のカウンター席であるコカ・コーラの瓶の王冠を模したスツールをまじまじと見つめ、拳でコツコツと二度叩いてから座った。大ぶりの氷で嵩増ししたコーラと、ケチャップをぶちまけたフライドポテトを彼の前に差し出し、やはりこの店に似合う男ではないなと思う。


「ご注文は以上でよろしいでしょうか」

「ああ、うん。悪いね。レジ締めの時間なんだろ」


 男から預かった金を売上金に放り込み、レジジャーナルの印字を待っていると、何の気なし、というかんじの彼に声をかけられた。


「こんな日のこんな時間に君みたいな女の子がひとりで働いてるなんて、気の毒だよ」

「いえ、もとよりイベントには興味が無いので。この時間は割増賃金ですし」

「そう。なら良かった」


 男はプラスチックのフォークで、しなしなのフライドポテトを束にして突き刺す。それを口に運んでもぐもぐやるアンニュイな面差しを眺め、ここが薄暗くてラグジュアリーで、アルコールボトルがオシャレなかんじで飾ってあるバーじゃないことに腹立たしささえ感じた。コーラとポテトじゃなくて、キール・ロワイヤルとチーズの盛り合わせのほうが断然似合うのに。


「つかぬことをお伺いしますが」

「なに」

「お客様こそ、なぜこんな時に、こんな店に」


 ストローを外したコップからコーラをあおり、男は苦笑いを浮かべる。

「俺はシュデストのほうで骨董雑貨店をやってるんだけど」

「遠くから来たんですね」

「なんてことはない、特急列車で一時間だ。そこの通りに、アンティーク家具の専門店があるだろ? 老店主が亡くなって、継ぐ身内もいないから、商品の引き取り手を探してると聞いて交渉に来たんだよ。そうしたら、たまたま市制記念日でどんちゃん騒ぎだった」


 シガレットケースから煙草を取り出したのを見計らい、灰皿をカウンターに滑らせる。男のマッチ箱が空のようなので、エプロンのポケットに突っ込んであったジッポライターを差し出した。彼は外の花火や爆竹とは比べ物にならないほどささやかに閃く灯に煙草の先を寄せ、火をうつす。


「まーあ遺族との交渉が長引いて長引いて……こんな時間だよ。何か腹に入れてからホテルに戻ろうと思ったら、どこの店も閉まってる。律儀に開店してるのはここだけだよ」


 この男が言う「ホテル」の響きに、私はふかふかの絨毯が引かれた豪華なロビーがあって、チェックインカウンターには化粧が濃い美女が控えてて、ドアボーイもベルボーイもいて、景色を一望できる最上階にはシェフが目の前で肉を焼いてくれるレストランがある、ハイグレードなホテルを一瞬で思い浮かべた。しかし、この町のホテルといったら小さくて古いビジネスホテルだけである。


「そうだったんですね、お疲れ様です。あなたのような方はめったにいらっしゃらないから不思議で……来るなというわけではなく」言いながら、片手間に売上金の処理を済ませる。

「ああ、わかってるよ」男は口角をわずかに持ち上げる。「君こそ、ジャンクフードの店で働くには勿体ない。気が利くし、ラウンジとかのほうが向いてる。そっちのほうが給金も良いはずだ」

「そんな、恐縮です」

「お世辞じゃない」

「私は私にできることしかしませんし、貰っている賃金以上のことはしません」


 ふうん? とでも言いたげに、男はわざとらしい表情をつくった。日頃、骨董の査定ばかりしているであろう、青灰色の目がこちらを見ている。


「俺が店員だったら、火を持ってない喫煙者にはそれを売る」レジ脇に陳列された安物ライターを指す。

「すすんで売上に貢献したくなるほど、賃金を頂いてないので」応えると、男はさも愉快そうに笑った。たなびく煙が揺れる。

「もっとも、色男にしか貸さないけれど」

「ああ、お嬢さんには参ったよ」


 そう言って、男はシガレットケースをこちらに差し出してきた。遠慮なく一本頂戴し、再びジッポの蓋を開く。


「なおさら君みたいな子が、こんな店、いや、こんな町にいるのは惜しいな。都会に出ていい男を捕まえろよ」

「考えたこともないわ。都会って、毎日こんなんでしょ」


 私も男も一面窓張りの外を見やる。大嵐の日に部屋にこもって外の様子を見るのは好きだけれど、ここから喜色満面の人々を眺めるのは、それと違った。優越感と劣等感が、同じ量だけ胸の内でかき回される。あの人たちに紛れて、ハンバーガーみたいにファストなお楽しみに興じることができたら、私の生活って素敵になるんだろうか。くだらないな、と思ってしまう私が、いちばんくだらないことはよく知っている。


「若者に人生の先輩ヅラして物申すのは、おっさんの証拠だな」

「そうよ。あなたもこんなとこで油売ってないで、奥さんと子供のいる家にさっさと……」


 ごつごつと骨ばった男の左手を見やると、薬指が裸だった。窓の外から視線を外さないまま煙草を咥える彼の横顔は、何も言わない。断続的な打ち上げ音が続く。


「そろそろ閉店かな」

「そうね。でも」呼吸器官のなかを、ラムの香りがする煙が吹き抜けていく。この男と同じ、淀んだ空気を吸っている。「すぐに人混みが引くわけじゃないし、しばらく店から出られないでしょ。落ち着くまで付き合うわ」

「悪いね。ありがとう」


 そう言って、例の控えめな笑みを浮かべると、男はスラックスのポケットに手を突っ込み、掴んだ小銭をじゃらじゃらと私の手の平に落とした。


「好きな曲を流して。君の残業代だ」店の隅に置かれたジュークボックスを指す。

「さすが、色男はやることが違うわ。気障ね」

「お褒めに預かり光栄だよ」


 ジュークボックスに小銭を投下し、何十曲も連なる曲名を指でなぞる。選曲からほどなくして、機械の中でレコードが回転をはじめる気配があった。数秒のイントロで、男は「おお」と声をあげる。


「ゲンズブールだ。好きなの?」

「あなた、ロックンロールってかんじじゃなかったから」

「相違ない」溶けた氷に希釈されたコーラのグラスを口につける。


 シャンソンの軽快でありながら物憂げなメロディが、おんぼろのジュークボックスから健気に響く。それを掻き消すかのように、打ち上げ音がいっそう大きく、激しく連なった。


「ご存知かな、この曲が作られたあらましを」


 観衆の口や目が大きく開き、私と男には見えないものに歓声をあげている。ゲンズブールの歌声が、ひしゃげて小さくなる。記念日はクライマックスのようだ。


「ゲンズブールが、地下鉄の切符係に『何か望みはあるか』と訊ねた。その質問に、切符係はこう答えたんだ……」


 何発、もしかしたら何十発、何百発だったかもしれない。なんの面白みもない平凡な町の夜空が、鮮やかでバカでかい花火の散弾によって蜂の巣にされていくのが聞こえる。この祭りの最後は、ボニーとクライドの死にざまと瓜二つに違いない。


 靴底から脳天に突き上げてくる低音が、すべてをさらっていった。この店が、私と男だけが、百年前に撮られた白黒の無声映画に取り残されたようだ。


 ふたりの唇は、鏡写しのように寸分たがわず同じ台詞を口にしたが、なにも聞こえなかった。その台詞を唱えたところで、ゲンズブールでも切符係でもない私たちの間には、ひとつの物語も交わらない。


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