第18話 王女と神竜

 ふいに後方からか細い声が聞こえ、エスティは振り返った。


「あの竜……は」


 いつの間にかミルディンが立ち上がってこちらを見ていた。手を組み、祈るような仕草で、彼女は弱々しく問うた。


「エスティさん。さっきの竜は……消えたのですか」


 その小さな声がエスティまで届くのかシレアは危惧したが、彼はちゃんと聞き取ったようだった。


「……いや」


 否定しながら、再び祠へと向き直る。


「あのエインシェンティアは意思を持つほど強力なものだ……オレの力じゃ消去しきれなかった。だが、姿は維持できなくなったみたいだな」

「エスティさん、わたしを助けてくれたんです。話をさせてください」


 懸命な彼女の訴えに、エスティは少しの間悩んだ。

 消去しきれないほどの力を持つエインシェンティアと出会ったのは初めてだった。消すことができない以上、意思がある相手を逆上させることは得策ではない。


「わかった」


 ひとつうなずき、祠へと手を伸ばす。


 エインシェンティアは危険なものだが、それ自体は邪悪なものではない。


「……聞いてただろ? そういうわけだ。王女が話をしたいらしい。オレの器を使え」


 すると、祠から白銀の光がすっと伸びてエスティへと吸い込まれた。それからややあって、エスティが口を開く。


「……デリートスペルを扱い、そしてこうまで我を制御するか。不思議な少年だ」

「え……エス?」


 シレアが戸惑いの声を漏らす。その声が、エスティのそれとは全く異なっていたからだ。だがミルディンはためらいなく進み出ると、エスティの前に立った。


「あなたは……さきほどの竜ですね?」


 エスティ――否、竜が頷く。


「何故、わたしを助けてくれたのですか。私達があなたを消去するために来たことは、知っていたのでしょう」

「……お前は、何故この聖域がランドエバーの者しか立ち入れないのか知らないのか」


 沈黙するミルディンが、その沈黙で以って彼の言葉を肯定する。


「ランドエバー1世の娘、アイリス。我はかつて、彼女を愛した。故に、我はそれからずっとランドエバーを守護している。こうして、その一族に忘れられても」


 ミルディンは息を呑んだ。

 確かにそのような伝承を、昔母から聞いた覚えがある。だが、お伽噺だと思っていたのだ。少しの間ミルディンは目を伏せていたが、意を決したように目を開けた。


「教えてください。エインシェンティアとは何なのですか。私は今までずっと、恐ろしい力だと思ってきました。だけど貴方を見ているとそうは思えない。人を愛する心を持ち、私を助けてくれた」

「……恐ろしい力だ」


 そんな彼女を見下ろし、竜は告げる。


「お前達がエインシェンティアと呼ぶものは、形を持った古代の力だ。古代人は魔道を極めた……極めすぎた。その力は、彼らが滅んでも滅ぶことなく残っている。……だが、如何に強大な力でも永劫続くものなど無い。長い年月を経て、それに綻びが生じている」


 竜が――外見はエスティだが――顔を歪める。自嘲とも、こちらを哀れむともとれぬ表情だった。


「我とて同じだ。制御を失えば暴走する。彼らが制御しきれぬ力を生み出し、一つの時代に終わりを告げたようにな。だから我はこの地に居る。我が暴発すればこの地一体は死の荒地となるだろう。だが、ランドエバーを滅ぼすには至らない」


 ミルディンが悲痛な面持ちになる。竜はその彼女の頬に優しく触れ――だが厳しい声で続けた。


「勘違いはするな、ランドエバーの者よ。古代人の手を離れ、意思有る者である我は人を愛したが、エインシェンティアがみなそうではない。我らは消えるべきなのだ。人より生み出されたのなら、人の手で以って。……あの娘がランドエバーの繁栄を望んだから、我は護った。そしてお前を助けた。無事を見届けた今、滅び行く我に思い残すことはない」

「…………か」


 満足げに言う竜に、だがミルディンは何事かを呟いた。小さすぎる声を聞き取れず、竜が怪訝な顔をする。だが聞き直す前に、彼女は強いまなざしで彼を見つめ、もう一度、今度ははっきりと言った。


「わたしでは、あなたを制御できませんか?」


 その言葉を解し、竜は呆れの混じった目で彼女を見つめ返した。


「無理だ。現代の魔力と古代の力は相合わぬ。無理な制御も暴発を引き起こしかねんのだ。この少年の制御も並外れたものではあるが、一時凌ぎにすぎぬ。お前の器ではとても無理だ」

「わたしは『召喚』の能力を持っています。わたしの力が足りなくても、あなたが契約を結んでくれるならば、わたしの召喚獣としてあなたを制御できる」


 ミルディンは退かない。竜は、嘲笑った。


「お前がわたしの主になるというのか」


 だが彼女は首を横に振った。


「友達になってほしいんです」


 不意を突かれ、竜は心底驚いた顔をした。


「人を愛する者なれば、心通わすこともできる筈。私はあなたに消えてほしくない」


 ミルディンは彼の手を取ると、強く握り締めた。その目に強き光を湛え、そして穏やかに微笑むほの様は、かつて愛したものを彷彿とさせ、一瞬彼は言葉を失った。


 苦笑する。自分はよくよく、人と縁があるものだ、と。


「……好きにするがいい」


 神竜の声は呆れを多分に含んでいたが、ミルディンは屈託なく笑った。

 その手を握ったまま、スペルを紡ぐ。


『我が名は、ミルディン・ウィル・セシリス=ランドエバー。我が御名において、汝、何時如何なるときも我と在れ』


白銀の光が閃光のように迸り、辺りを白く塗りつぶす。


『我が名は光の神竜ラルトフェルテデス。あの娘アイリスは、ラトと呼んでいたがな……。汝を我が主――いや、友と認め、お前を守ろう。ミルディン・ウィル・セシリス=ランドエバー』


 光が集束し、一筋の矢のように輝く尾を引きながら、ミルディンの中に吸い込まれていった。


「ありがとう……ラト」


 駆け寄ってくるシレアとアルフェスの足音を聞きながら、彼女は呟いた。だが、間近で咳払いが聞こえ、顔を上げる。


「……王女様」

「あ。ごめんなさい」


 赤面しながら、慌てて彼女はエスティから手を離した。ずっと握り締めたままだったのだ。


「貴女が召喚士だったとはね」

「ごめんなさい。勝手なことをして」


 叱られるのを覚悟した子供のように、ミルディンは肩を落とし目を伏せた。


「……制御されないエインシェンティアは危険だが、エインシェンティア自体が邪悪なものであるわけじゃない。とはいえ今回のことは、あのエインシェンティアが元々召喚獣として生成され、そして王女に制御されることを望んだからできたことだ」


 エスティの言葉は、こちらの行動を肯定するとも否定するともとれないものだった。どう言えばいいかわからず、ミルディンが不安げに目を開けると、だが意外にも彼は笑っていた。


「その竜を、宜しくお願いします。王女」


 瞬間、ミルディンの顔にぱあっと笑みが広がった。


「はい、エスティさん! ……あ、それから」


 嬉しそうに応えてから、大事なことを思い出し、付け足す。


「先ほどは助けて頂いてありがとうございました」

「……オレは結界を解いただけだ。礼を言う相手は他だろ」


 ぷい、とそっぽを向いエスティはミルディンの前を通り過ぎると、スタスタと歩いていってしまった。「待ってよエス~」、慌ててシレアがその後ろ姿を追う。

 照れていることがわかり、ミルディンはクスクスと笑った。そして自らも彼らを追おうとしたが、ふとアルフェスの横で足を止めた。


「さっきはありがとう」

「いえ、私は何も……」


 礼を述べられ、だがアルフェスは俯いた。実際取り乱して叫んだだけだったと思うのだが、王女は首を横に振った。


「さっき、あなたの声が聞こえたわ」


 ミルディンがそんなことを言ったので、慌ててアルフェスは頭を下げた。


「申し訳ありません。あのときは夢中で……」


 ミルディンがカオスロードと対峙したあのとき、咄嗟のことで言葉にまで思慮がまわらず、愛称で呼んでしまっていた。主君を愛称で呼ぶなどあるまじきことだ。だが詫びる彼に、再びミルディンはかぶりを振った。


「ううん。違うの」


 呟いて、俯く。

 足元に見える石畳はすっかり苔むし、長い間誰も近づかなかったことを物語っている。


 ――とても、長い間。


「不思議だなって、思ったの。なんだか子供の頃に返ったみたいだった。……嬉しかった」


 ミルディンは今度は空を見上げると、目を細めた。そして、エスティ達の後を追って小走りに駆けだす。


 アルフェスも、しばし空を――彼女の瞳と同じ、セルリアン・ブルーの空を――見上げ、それから足早に彼らを追った。

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