encientia～神の聖戦～

第17話 ラルフィリエル

『我が御名において命ず。冥界の深奥に住まう冥府の主よ。我が魂を喰らいて出でよ』

　彼の紡いだ呪文（スペル）に、アルフェスが驚嘆の声を上げる。

「エスティ、それは……禁呪!?」

　使用に際し、自己の生命力を削る類の魔法は禁呪と呼ばれる。気付いたアルフェスが声を上げるも、それに答えるため呪文（スペル）を切らす余裕はエスティにはない。

『汝の力で以って、彼の力を死兆の星の彼方へと還さん！　物質消去（ライフ・デリート）!!』

　直後、エスティの体から黒い霧がたちのぼり、聖域を包んだ。同時に白銀の竜――エインシェンティアの姿が祠に吸い込まれるように掻き消える。その瞬間アルフェスが走り、躊躇なく聖域へと突っ込むと、エインシェンティアが消えたことで落下したミルディンをしっかりと受け止めた。

　一瞬遅れてエスティも駆け出す。莫大な魔力を消費したことによる脱力感で、思うようには動けなかったが。

『地を駆る透明なる者よ！　彼に寄りて壁と成さんッ!!　防護陣（プロテクション）ッ！！』

　反射的にシレアがエスティに透明な風のシールドを張る。通常の防御魔法より、魔法に対しても物理攻撃に対しても高い防御率を誇るように改良した彼女オリジナルの魔法だ。しかし彼女が防御呪文を使うまでもなく、エスティがカオスロードを捉えるのにはさほどの手間もかからなかった。

　彼女は抵抗しなかった――いや、できなかった。

　存在を消そうとする強大な威圧に、彼女は咄嗟に耐えていた。

（これは……何だ……？）

　エスティに腕を掴まれ、剣を突きつけられて、しかしカオスロードは苦悶に喘ぎながらも、キッとエスティを睨みつけた。

「私は……ッ、死ねないッ」

　カオスロードが、渾身の力でエスティの腕を振り払う。万全でないのはエスティも同じであり、振り払われた衝撃で剣を取り落とした。禁呪を使ったダメージがまだ回復しておらず、握力が戻らない。だがそれに動じるよりも、驚愕が勝っていた。

「デリートスペルは……お前に効果があるのか？　 何故……」

　無論彼女が答える筈もなく、エスティの隙を逃さず、剣を構えて切り込んだ。しかしそれが彼に届く前に、シレアが張った風の壁に阻まれる。防御陣のスペルに気付き、カオスロードは舌打ちして、片腕で何かを振り払うような動作をした。

「うそ！」

　それだけで、防御壁が消え去ったことをシレアは悟り、信じられない、という様子で叫ぶ。しかしエスティはその一瞬の間で剣を拾うと、再びカオスロードと対峙した。繰り出される残撃をさばきながら、後退しつつ隙を窺う。

「エスティ！」

　アルフェスが加勢しようと走り寄ったが、

「来るな！　シレアと王女を頼む!!」

　エスティに止められて、その場に止まる。その声が有無を言わさぬものだったからだ。

「カオスロード!!　答えろ。お前は、本当に戦いを望んでいるのか」

「……」

　鋭い横薙ぎを後ろへ飛んで避けると、エスティは間髪容れずに剣を振り上げた。カオスロードがそれを受け、数秒の膠着の後、流して間合いを取る。追随するエスティを、前触れなく業火が彼を包みこんだ。

「エス！」

　シレアが叫ぶより早く、エスティが吼えた。

「答えろ、カオスロード!!」

　彼が叫んだ瞬間、パン、と乾いた音がして、たちまち炎は掻き消えた。

「……!!　封魔呪（サイレント・スペル）。なぜ、お前がそれを」

「そっくりそのまま返すぜ」

「何者だ、お前は」

　切れた息を整え、ぐい、と手の甲で汗をぬぐって、エスティが答える。

「エスティ・フィスト。エインシェンティアを闇へと還す者だ」

　一度具現された魔法を打ち消す――それも失われた古代の魔法だ。立て続けに古代魔法を放ったことによる消耗で、今にも意識が飛びそうだった。どうにかそれに抗いながら、顔には不敵な笑みを貼り付ける。

「人にだけ……名乗らせておくもんじゃねぇぜ？　まさかカオスロードなんて名じゃねぇだろ」

「……私に名を聞いたのはお前が初めてだ」

　鉄壁の美貌を崩さぬままに、彼女は珍しく応じてきた。彼女とてその息が上がっていることに、無論エスティも気付いている。

「私の名は、ラルフィリエル・レオナリア。エスティ・フィスト……次は、必ずお前を殺す」

　銀色の風が巻き起こるのを見て、エスティは息をついた。

　風が収まる頃には、完全に彼女の気配は消え去っている。

「エスティ！！」

「エス！　大丈夫！？」

　駆け寄る二人に軽く手を上げて応える。だが、その手からは血が滴っていた。

「！　エス、怪我してる」

「たいしたことない」

　胸を押さえてエスティが呟く。斬撃の一つがかすったのだが、さほど深い傷ではなかった。

「待って、今治癒する」

　それでもアルフェスは祠へ向かおうとするエスティを呼びとめ、回復呪文を口にした。素直にエスティはそれに応じ、そして呪文（スペル）を詠む彼の傍らで詫びた。

「すまない。……王女は無事か」

「ああ。気を失ってはおられるが、無事だ。手首の傷も治した」

　言って、苦笑する。

「……さっきは取り乱して、すまなかった……」

「いや、油断していたオレが甘かったんだ。謝るのはオレの方さ」

　髪に隠れて表情は見えないが、その言葉には自嘲の色が含まれている。エスティはそのまま顔を上げることなく、祠の方へと歩んでいった。

「……エスは、アルフェスさんたちを巻き込んだこと、気にしてるんだと思う」

　彼女にしては珍しく、沈んだ声でシレアが言う。

「ごめんなさい」

　ミルディンを危険に晒したことが、彼女もショックだったのだろう。憂いを含んだシレアの淡いブルーの瞳は普段より大人びて見え、アルフェスは思わずそんな彼女の頭を撫でた。

「無事だったんだ、気にしなくていい。姫も僕も、ここには自分の意思で来たのだから」

　優しく笑う彼を見て、シレアは涙目になったが、何とか微笑みを戻した。