第3話

「質屋か……それまたどうして?」

 迷宮に入る少し前のこと。少年の目的地を聞いた青年は目的地にある「目的」について尋ねていた。紅茶らしきものを咀嚼しながら。


「その前にどうして僕が育ちがいいと思ったのですか?」

「まずはその口調。子供らしくない。大人と接する機会が多くてかつその対応を知っている」

「商人のもとで下働きをしていたなら?」

「まぁ確かにそういう応接の仕方もできるようになるかもね。事実不思議なことに君の手は傷だらけだ。働いているものの手だ」

「なら」


 青年はティースプーンをくるりと手の中で回すとびしっとその先を少年に突き付けた。


「それなんだけど、君は砂糖を知っていたね。そして砂糖と紅茶が出てきたとき、迷いもなく紅茶に砂糖を入れた。俺がそうするよりも前に。君が商人の下働きなどであっても、紅茶に砂糖を入れる商人はそうやすやすと人を雇ったりしない。結局君が下働きにしろ、そうでないにしろ、君はある程度の地位がある家庭に生まれたはずだ」

 

 少年は嘆息し観念したことを表すようにソファーに先ほどよりも若干体を沈めると紅茶をすすった。それからコトリと紅茶を置いた音が静かな部屋に響いた。


「…お見事です」


 隠すつもりはなかったとはいえ、しっかりとした観察眼があることが分かった。少年は心の中で安堵する。彼の賞賛に青年は頭をかいて答えた。


「いやぁでも、見定めのためだとしても手の込んだ変装だねぇ」


身分が高いものは総じてプライドも高い。なにか目的があったとしても貧民の格好をするのは相当の覚悟がいるだろう、と思っての青年の発言だったが、少年は弱弱しく微笑み、ゆるゆると首を振った。


「変装ではないんです。これが僕の今です」


 青年は顎に手を添え、ふむと唸った。


「なるほど。だから質屋か」


 青年がティーカップを手に取る。中身は空だった。ザラメのような塊が底にあるだけのカップを覗き見て、顔をしかめるとお代わりを注ぐために再びドアへと向かった。その背に少年が問う。


「だから、というと?」


 その問いにドアの向こうから青年が答える。


「察するに何らかの事情で没落したのではないかい?そして君は今の生活に納得できない。そんな君が質屋に危険を冒してでも行きたいというのならば、そこに現状を打破する何かがあるはず。と考えるのが妥当だろう?」


 少年はうつむくと何も言わなかった。いう必要がなかった。青年が言ったことが少年がここにいる理由をほぼ言い当てていたからだ。 

 黙り込む少年の前に青年がティーカップを持って座る。ティースプーンが垂直に刺さっていた。うつむきながら少年が口を開く。


「やはり、ここにきて正解でした。『依頼達成率百パーセント格安案内所』。最初は半信半疑でした。…いやむしろ疑いしかなかったのですが……」


 百パーセントと格安。二つの胡散臭い言葉が重なると、もはやゲテモノの域だ。詐欺師でも使わないような謳い文句を店名にするなんてこの案内所は客寄せをするつもりがないのか。あるいは逆に客が来ると勘違いしているのか。

 それでも少年はここに来た。少年が顔を上げた。


「改めて依頼します。僕を『エリスの質屋』に連れて行ってください」

「ほぉ…」


 じゃりじゃりと音を立てながら青年が感嘆の声を上げた。


「エリスというといわくつきが集まることで有名な質屋か。そこなら君の望むものがありそうだが……」


 そこに何かあると言う根拠は。青年の目はそう問いかけていた。少年は軽くうなずくと懐から何かを取り出しテーブルに置いた。

 それはところどころ黄ばんでいる封筒だった。端の方に小さく達筆な字で「我が娘ミーシャへ」と書かれている。


「これは?」

「僕の母に届いた手紙です」

「我が娘、ということは君のおじいちゃんからか」

「えぇ、僕の祖父は探検家でした。いつも家にいなかったのでなんの思いでもありませんが…」


 思い出がないといった少年の顔は青年から見て少し陰っているように見えた。


「でも、探検家としては有名らしくて。探検家オドル、というのは聞いたことはありませんか?」


 青年は生憎無学なもんでね、と肩をすくめて首を振る。少年はそれに落胆する様子もなく話を続ける。


「まぁ、あくまで探検家と一部の人の中で有名というだけですから。それで…その祖父が今からちょうど二週間前に亡くなったと知らせが届いたんです」


 ここで少年は紅茶を口に含み、口内を湿らせる。


「そんな中、僕たちは中央の騒乱に巻き込まれて」

「あぁ、議会が真っ二つに割れているっていう」


 この王国が王の力をそぐために採用しているものとして議会がある。王に連なる貴族からなる貴族院と、民衆からなる衆議院の二院制をとっており、国の方針がそこで決まる重要な機関だ。

 近年隣国の挑発行為が相次いでおり議会で問題となっていた。それについて、国の威厳を守るべき、即開戦を要求する貴族院とむしろその挑発に乗ってしまっては大国の威信が揺らぐというもの、隣国との交渉を望む衆議院とで意見が真っ二つに割れているそうだ。問題はそれで終わればいいのだが、長年、二院の間に横たわる確執や議員たちの対立関係が複雑に絡み合い、今や権謀、策術飛び交う戦乱と化している、らしい。

 二つの勢力のどちらかに属しているものは弱いものから相手方に淘汰され、どちらにも属していない者は無理やり仲間に引き込まれるか、敵にわたる前につぶされるかのどちらかの末路をたどっている。


「僕の家は貴族といっても辺境の零細貴族でした。土地もそこら辺の商人よりも少なく、貴族としては貧しい生活を送っていました。それに加えて父は僕と母を置いて何年も前に出ていってしまって。祖父の名声だけが僕たちの家をかろうじてつなぎとめていたんです。だから祖父の訃報が届いた瞬間、いつの間にか僕たちは全てを取り上げられていました」


 立地的にも悪かった。ちょうど少年の家は貴族院派と衆議院派の両方の領地に挟まれており、中央の騒乱が起こる前から危うい立場だったようだ。貧しかったため害なしとされて今の今までつぶされなかったが、今回の件において、議員たちはなりふり構っていられなかったらしい。


「運よくうちの執事の家に居候できることになったのですが、母は体が弱く、急激な生活の変化と祖父の訃報が重なって体調を崩しているのです。回復は自力では不可能なほどに。元に戻ろうとは思いません。ただ母が静かに暮らせるだけのお金が欲しかったんです。だから祖父の訃報から遅れて届いたこの手紙を見たとき、これしかないと思ったんです」


 少年は封筒を手元に寄せると、中身を取り出す。それを青年に見えるようにテーブルの上で広げた。青年は手紙の文面を目で追う。しばらくして少年に問いかけた。


「……見たところ、エリスの名前も、おかしなところも見当たらないけど?」

「でしょうね。手紙自体は普通の自分の娘をいたわるものですから。ですが、それ自体がおかしいんです」

「孫である自分のことが書いていないから?」

「そこまで愛されていた覚えはありません」

「……なんかごめん」

「いえ」


 数舜、気まずい空気がそこに流れた。青年がごまかすように『紅茶』を口に含んだところで、居心地の悪そうに少年が体を揺り動かし、続きを話す。


「…内容は正直どうでもいいです。ただこの手紙自体がおかしいんですよ。僕の祖父は手紙自体書かなかったていうのに」

「おじいちゃんじゃないかも」

「それも考えました。でも祖父の原稿と筆跡が似すぎています。それに祖父以外では僕たちしか知らないようなことも、さりげなくですが書かれています」


 ほら、こことこことか、と少年は実際に問題の部分を指で示して見せる。よく見ると、確かに妙なところではねている文字や少年の母であるミーシャの幼少時代の話などがあった。


「でも、それがエリスとどう関係が?」

「ここをみてください。たびたび祖父が友人とのエピソードを語っているんですが―祖父に友人はいません」


 最後のほうを念を押すように少年は言う。

 

「なんか、すごいなぁ」

「祖父の仕事は先に見つけたもの勝ちですからね、若いころ散々友人だとおもっていた人々に裏切られたそうです。祖父の本に書いてありました」


 青年はふと気になったことを尋ねた。


「君、なんかおじいちゃんのことよくしってるね。筆跡とか相当注意していないと気が付かないよ、普通」


 その時、少年の耳がゆでだこのように真っ赤に染まった。なにか内に渦巻く感情を押し殺すかの様に背中を丸める。両ひざに置いたこぶしがぎゅっと握られた。

 

「べ、別にほかに読むものがなかったので!」


 そして口ごもりながらも押し切るように言った少年を、青年は最初はビックリしたが何かに気づくと最後にはにこにこと見つめ始めた。


「で、それはそうと全然エリスについての関係がわからないんだけど」


 少年は話題が変わったことに心底ほっとする。だが、ちらっと青年が微笑んでいるのを見て、慌てて目をそらす。


「あ、あー、えーっとですね。この祖父の謎の友人。一緒に本を執筆したといっていますが、祖父が生涯に書いた十七冊の本すべて祖父が単独で執筆したものです。ただ、僕の家には祖父の書斎に公表されていない原稿が残されていたんです」


 その瞬間、少年は視界の端で違和感を覚える。しかしそれはすぐに去った。一応確かめるために青年を見るが変わらずに笑顔だった。また恥ずかしくなって目をそらす。


「どうした?」

「いえ、なんでもありません」


 胸の中のもやもやは否定の言葉を発したとたんに消え去った。少年はこほんと調子を整えるように咳をする。


「その中に唯一、共同執筆ではないのですが、協力してもらったとはっきり書いてある原稿がありました。そこに祖父に協力したと書かれていたのがエリスだったんです」

「なるほど」

 

 青年は腕を頭の後ろで組むと天井を見上げた。


「それでも、エリスに現状を打破する、まぁこの話の流れからするとおじいちゃんの遺産みたいなのがあるかははっきりしないね」

「僕もそう思います。だけどこの不自然さしかない手紙に何か隠されていると、そんな気がしてならないんです」

「大きな賭けにでたね」

「ここに依頼するほどではありませんよ」


 その言葉に意外にも青年は口をへの字に曲げて見せた。これぐらいの冗談ならばいいだろうと思って発言した少年は慌てた。


「…怒ってます?」

「別に。ただそんなに見栄えが良くないかな、ここ」

「それだけじゃないと思いますよ。例えば名前とか」

「名前?だって本当のことなんだから実績を誇って当然だろう」


 少年は若干ジト目で青年を見ながら紅茶をすすった。そんな甘い話あるわけがない。いくらここが割と質のよさそうな案内所であってもだ。大手でさえ五割超えれば御の字というところを、十割というのは胡散臭すぎる。

 話しながら青年を信用し始めてはいたが、そこだけは信じられなかった。


「三件中三件の達成率。これを百パーセントといわずになんというんだい」


 途端、少年は紅茶を吹きだしながら怒鳴る。


「少なっ!!!」


 敬語もどこへやら。それほどにまで青年の発言は衝撃的だった。


 さんけん?三件?この国で迷子の依頼だけでも年間二千件も起きている。そのほかの依頼も合わせるとそれ以上になるのは自明だ。そのうちのたった三件しか依頼が舞い込んでいない?


 この調子だとたぶん一件目を成功させた瞬間からあの店名になったのだろう。


「じゃあ、ここじゃないところにすれば」


 ふてくされながらぶっきらぼうに青年が言う。変に子供みたいだった。


 少しめまいがし始めた少年は迷った。また先行きが不安になってしまった。だが、ここしかない。他のところでは青年に見せた十倍の「前金」が最低でもいる。前金の存在は厄介だった。払わなければ「案内人」は動かない。


 母の容体はよくなく、いつさらに悪化するかわからない状況なのだ。大手の案内所の前金のために働いたとしてそれがたまるまでどれくらいかかるかわからない。それに自分は幼い。前金を払えたとしても成功報酬が払えるかどうかも示す必要があるかもしれない。それはこの案内所でも同じだろうが不思議と、ここなら受けてくれそうな気がしている。


 少年は一度だけ目をつぶると、青年に言った。


「いえ。やっぱりここにします」

「そう。では行こうか」


 あっけらかんと青年は言い放ちさっさと席を立つと、席に座ったままでえっ?という顔でこちらを見つめる少年を同じくえっ?という顔で見つめかえした。


「行かないの?」

「い、行きますけど。前金とか成功報酬の話とかいいんですか」

「興味がわいた」


 腕を組みながら青年は答えた。少年は目を丸くする。


「それだけで?」


 最初は乗り気でなかったはずなのだが…。受けてくれそうと思ってはいてもそれはある程度の交渉を重ねたうえで受けてくれるだろうというものだった少年は面食らってしまった。ぱちくりと目を瞬かせながら尋ねる。


「ここは俺の案内所だ、俺がするといっているんだからそれでいいでしょ。ほら行くよ」


 一瞬の歓喜。遅れて何かに気が付いて少年は青年がドアノブに手をかけたところで慌てて腕の袖をつかんだ。


「行く気になった?」

「ちょっ、ちょっっとまってください、いまなんて?」


 ゴクリ。少年は口に湧き出た苦い唾を飲み込んで尋ねた。青年はピンとこないらしく視線を宙に漂わせた。


「なんか言ったっけ…?」


 考えてみたところで、意識していない発言はそう思い出せるものではない。


 頼む、聞き間違いであってくれ。思い出そうとしている青年に少年はそう思いながら言葉を返した。


「俺の案内所だとか、どうとか」

「えっ、あ、うん。そうだけど。それが?」


 ピキン―。少年は袖をつかんだままかたまった。


 それが?……じゃないよ!問題しかないよ!迷宮だぞ。迷宮。この城壁の外よりも恐ろしく、淫らで、深淵で、一般人なんか足を踏み入れただけで五体満足に帰れないような人間の闇。完全アウトローな世界。それに足を踏み入れ、なおかつ依頼者を護送するような案内人は。


「ん?」


 青年がとぼけたような瞳で見つめてくる。その目は迷宮とは程遠い目のようだった。

 

 ――断じてこんな人ではない!!


「ほら、いくよ」


 少年はそんな風に考えている間にも今度は青年に腕をつかみかえされ、ずるずると外へ出ていく。


「まぶしいなぁ」


 外に出た瞬間片手を顔にかざしながら青年が呟いた。天気は晴天。雲一つない青空がそこにはあった。少年は腕をつかまれたまま、つられるように空を見上げる。


(あぁ……もう、どうにでもなれ)

「あーこりゃ、だめだ。まよった」

「それ僕、ずっと前から言ってましたよね」


 唇を尖らせながら少年は毒づいた。青年はカラカラと笑いながら頭をかいた。

 

「いやぁ~、まいったね。はっはっはっ」


 参った。降参だ。もう僕は外に出るという希望も持てない。何故か明るい青年とは対照的に少年は沈み込む。その体は歩いた疲れと精神的疲労からくの字に折れ曲がり、足取りは重い。けれど道のところどころにある緑色の謎のゲルはしっかりとさける。だってそれがうごめいているように見えるならなおさらだ。


 唐突に青年が「おっと、そうだ」と呟いた。なんの期待もなかったが、なんとなく少年は青年のほうを見た。青年はズボンのポケットからコンパスのようなものを出すと、手のひらに乗せた。


 それに対して少年はあきれ顔をする。

 

「まさか、方位から道を見つけようって言うんですか?無駄ですよ、迷宮内は磁気が狂っているんです」


 知らないんですか。その言葉は飲み込んだが、予想はできるというもの。信じてないな。と青年は少年を軽くにらむ。


「知っているよ。ちなみに上に見える空も時々迷宮の外とは違うしね」


 だれかが気まぐれに「空を彩る」。ゆえに太陽の動きからも方位は予測できない。ならばなぜ青年はコンパスのようなものを取り出したのか。


 することもなかったので少年は青年の手を覗くと、「えっ!?」と声を上げた。手の上に乗ったコンパスはその針が回転することもなく、ただ一方向だけを指示していたのだ。


「どういうことですか?」

「これは、方位を知るんじゃない。人の居場所を知るためのものだよ」


 それを聞くと少年の顔がこれまでにないくらい青ざめ、青年から一歩離れる。わなわなと震える指でコンパスのようなものを指す。


「探知系の魔法?…法律で禁止されている魔法を堂々と…」


 人の居場所を知るということは、人のプライバシーをたやすく侵害できるということ。法律で禁止されるのは当然な魔法が、今目の前にあることに少年は衝撃を受けた。


「迷宮じゃふつうだよ」

「本当に案内人なんですね……」

「悪かったね偽物みたいで」


 ともかく青年は歩きだし、少年はその後ろをついていく。そんな二人の上を彩る空は青空から夕やけへと変わり、星がうっすらと見え始める。それから月が二つ。


 あり得ない光景がそこにはある。ここは迷宮。人の欲望が生み出した辺境にしてすべての中心。あるものは帰れず、あるものは帰らない。人は呼ぶ、そこを「地獄」と。人は言う、そこは「楽園」だと。物理法則も滅茶苦茶なこの世界で最も滅茶苦茶な場所では――。


「ん?なんかすんごい動いているなこれ」

「ですね……」


 人探しも楽じゃない。

 ハッ、ハッ、ハッ。

 路地に積まれた箱を蹴り倒し、蹴り倒せないなら飛び越えていく。


 くそっ、もう少し運動しとけばよかった。

わき腹が蹴り上げられたような痛みと熱を帯びて、ただでさえぎこちない動きをさらにぎこちなくする。右足がもつれ、倒れかける。


 やばい。そう思ってとっさに左足を出すが、なにぶん急な動きだったので足をクロスさせた形になる。


「ぐえっ」


 あり得ないくらい痛いわき腹が、あり得ないくらい搾り上げられ、あり得てほしくない痛覚を脳にぶち込む。思わず今日の昼食が出てしまうところだった。何を食ったかいまいち覚えていないが、この口に上ってきた風味からするとイワシのパスタか、なんかか。


 あぁ、そうだった。今日はなんだか、無性に磯の香りがかぎたくなったんだ。望海へ行く暇はないから無理なのはわかっていたんだが、気質かね?一回気になると、どうも歯に何か詰まっているような気がしてならない。それで耐えられなくなって表のレストランに珍しく寄ったんだ。


 天気が良くてテラスで食う、しゃれた雰囲気を味わっていたんだが……なれないことはするもんじゃない。


「まて!!、ゴラァ!!!!」


 こんな風に怒鳴ってレストランに乗り込んでくる輩もいるんだから。


 まず俺の後ろを俺より死にそうな顔をして追いかけているスキンヘッド野郎が俺を見つけて怒鳴った。次にスキンヘッドの後ろで同じく死にそうになりながら走っているモヒカン野郎が俺の食っていた皿ごとテーブルを踏みつけた途端、なんかわからんが俺は逃げた。脱兎のごとくとはまさにあのことだと自分ながらに思ったね。とにかく逃げることが最善だと思った。


 まぁ、怖い顔した野郎に怒鳴られ間近に来られたら逃げるのは当たり前だが。


 以降延々とマラソンだ。


「ハァ、ハァッ。あいつほんとに鍛冶屋かよ!?冒険者の俺らが追いつけねぇなんて異常だ!!異常なんだ!!」


 必死に体勢を立て直しまた走りだす。


 おいおい。これでも結構きついんだ。さっさとあきらめてくれないかな。と思う。だけには飽き足らずに言ってみた。すると二人はうなり声をあげ、ペースを上げてきた!!


「てんめぇ、お前がどれだけのことをッ」


 ついにわき腹を抑え始めたモヒカンが叫んだが、まて、心当たりがない。


「俺が、何をしたッ、てんだ……ヨッ!!」


 問いかけながら、邪魔だった樽を今度は後ろのやつらに蹴り飛ばしてやる。なんだよ避けやがった。


「忘れたとは言わせねぇぞ!テメェが売ったクソ武器で、俺のパーティーが、俺の……」

「アニギィィィィイイ」


 泣くな。知らん。


「俺がクソ武器を売った?」

「魔槍ゲイボルグ君一号……あのクソ武器がぁぁぁ!」

「なに!?俺の商品と同じ名前!?」

「「だから、お前が売ったんだ!!!!」」

 

 男二人のはもりは何の得にもならんな。だが、聞き捨てならん。


「馬鹿な!俺の売る商品は一級品だ!」


 しかも「魔槍ゲイボルグ君一号」はとっておきもとっておき。他の槍にはない独創的かつ大胆なアイディアが盛り込まれている。というのも……。


「穂先が飛ぶとか聞いてねぇぞ!!」

 

 ん?その独創的かつ画期的なアイディアは……。


「俺のだ!!!」

「「だからそういってんだろ!!!!」」


 あーうるさい。


「びっくりしただろ。危険を察知して自動発射、オート追尾機能、簡易レジスト付き。そこら辺の魔物はもちろん、ワイバーンだって落とせる!!投擲が苦手な奴でもお手軽にヒーロー!」

「「ワイバーンは群れで行動するんだよぉ!」」


 よくはもるな。だが確かにそうだ。ワイバーンは群れで行動する。いかにも脆弱な竜種らしい。


 くっ。天才の俺でも実地経験はないから、こういった欠点が生じてしまう。参考にさせてもらおう。


「ありがとう!!いいデータだ。二号は多段弾頭にするぜ」


 お礼をいったんだが、なぜか無言で二人は顔を真っ赤にして足を速めてきた。ここにきてさらにペースアップかよ。最後の気力を振り絞っているのか、だんだんと距離が縮まっていく。まずい、そう思った時。


 ガッ。


 路地裏を抜けた先。少し開いた場所でついに服の襟をスキンヘッドがつかんだ。急に止まったことで首がしまる。


「ぐえっ」

「捕まえた!」


 俺はとっさに右足を後ろに引いた。そしてその足を軸にして回転する。回転の勢いを利用し、スキンヘッドの鼻っ面にこぶしを叩き込んでやる。骨と骨がぶつかり、鈍い痛みを俺に伝えてくる。

 商売道具の手を使うのは嫌だったが、捕まるのはもっといやだった。すぐさまバックステップで距離をとる。


「がぁっ」


 手を放し、よろよろと後ずさったスキンヘッドはその手で顔を覆う。指の間からはつーっと血が垂れているのが見えた。後ろでモヒカンがぎろりと俺をにらんだ。その顔はこれ以上ないほど紅潮し、食いしばった歯からはよだれが泡になって噴き出していた。


 その姿をちらりとみて逃げ出そうとした俺の背中に冷たい刃があてられたように感じた。


 勘。とでもいうのか。もしくはあいつに言わせれば殺気。とにかくぞわっとする何かが肌を這った。天才は何をして天才となるのか。

 

 俺は思う。


 直感を想像を、形にすることから始まるのだ。


 俺はその感覚を信じてしゃがんだ。


 髪のすぐ上を何かが通り過ぎる。頭のてっぺんから冷水をぶちまけられたかのようにさぁっと血の気が引いた。遅れて俺の目の前に切り飛ばされた髪が数本舞った。


 シャリン、と金属の擦れる音が響いた。


 後ろを振り向き見えたのは、スキンヘッドの前に立ったモヒカンが何かを横なぎにふったまま固まっている姿。手に持つのは剣。ただしそれは刀身に何本もスリットが刻まれている。


 ただの剣では彼の位置から俺の髪を切ることは不可能だ。


「蛇腹剣…」


 シャン。二度目の金属音。モヒカンが腕を返す形で振るうと剣がスリットを境に延伸する。その長さは三メートルを優に超えている。


「暴力はいけないぜ」

「もう、おせぇよ」


 殺してやる!!口の端から唾を飛ばしモヒカンが叫ぶ。今度は縦に剣が振り下ろされた。俺は今度は避けることはせず棒を取り出した。


 金属と金属がぶつかり、俺の手に鈍い痛みが走る。それをぐっとこらえると手首のスナップをきかせて、棒を蛇腹剣に絡ませる。


 蛇腹剣の構造上、スリットの間にあるワイヤーの動きを止めることができれば完封することができる。案の定動きを封じられたモヒカンは力を入れたり、手首を返したりしてどうにか抜け出そうとするが無理な話だ。


「くそっ!なんだよその棒!どっからだしやがった」

「聞くのそっち?『俺のこの蛇腹剣を受け止めるとは……貴様ただの鍛冶屋ではないな…?』とかないの」

「もう、てめぇを鍛冶屋なんて思ってねぇよ!この…ポンコツ!!」


 なっ!!こいつ俺をポンコツといいやがったのか?ポンコツだと?


 鍛冶屋の俺に止められているお前の方がポンコツだ。話を聞いて少しのそれも砂粒ほどの責任を俺は認め、ありがとう、とも言ったのに……。


 恩を仇で返すようなやつだ。許さん。


「アクティブ!!!」


 右手で棒を持ったまま、左手で虚空をつかむ。ずるっ。と本来何もないはずの場所からもう一本の棒が飛び出す。


 蛇腹剣に絡ませた棒をぱっと放すと、今しがた出した棒を右手に持ち替え、モヒカンへ迫る。虚を突かれた形になったモヒカンは、剣を手放し防御態勢を取ればいいものを、呆けた間抜けづらをさらしてそこにあった。その顔に棒を振り下ろす。


「がぁっ」


 くぐもったうめき声が俺の口から洩れた。吹っ飛ばされ地面を丸太のように転がる。視界が目まぐるしく変わり、イワシのにおいがまた昇ってきた。いつまで続くかと思った回転は空地の奥にあった看板の足に衝突することで止まった。


 四肢がしびれ、息がうまくできない。うつ伏せだったので、動かない体を何とか動かし、仰向けになる。空はいつの間にか宵の刻となっていた。もっとも本当に夜かはわからない。


 俺としたことがうっかりしていた。


「ヤロウ…羽付きか」


 俺の視線の先。肩をほぐすように回すスキンヘッドが鼻血を垂らしながら呟いた。


 俺は体に走る痛みに歯を食いしばり上体を起こすと、看板を支えに立ち上がる。膝が震えて、立ちはしたものの逃げ出せる状況ではなかった。状況が状況だったが、せめて息を整えるためにうつむく。看板の言葉が目に入る。


『Don’t cry 別れた女は忘れてハニーサイドへ』


 西大陸語で書かれた言葉。

 西大陸語は滅茶苦茶好きだが、時によってはウィットが効きすぎて涙が出そうだぜ。


「ふっ」


 笑うと全身が痛い。短い間だがひとしきり笑いが収まってからぐるりと体を反転させる。看板に肘をかけて背を預けながらこぶしを鳴らしてスキンヘッドが歩み寄るのを眺めた。よく見るとスキンヘッドの着るタンクトップには黒地に白で


『Never give up』


 と書かれていた。


 これには爆笑するしかなかった。腹がよじれ、笑うたびに脳がぐらぐらと不快に揺れたが、俺は笑い続けた。その姿を見てスキンヘッドは何を勘違いしたのか、ニタニタと笑って殴りかかってくる。


「恐怖で頭いかれちまったか?いいぜ、その腐った頭をぶっ飛ばせば怖さもなくなるってもんだ!!!」


 スキンヘッドのこぶしが薄く光る。間違いない。殺す気だ。


 鍛冶屋の俺はやつらと剣を交えることはできるが、体のタフさが違う。現に一発もらっただけでこのざまだ。あの拳を頭に食らえば……イワシパスタと迷ったカニトマトクリームパスタのような惨状がここに映されることになる。目をつむる。


 終わりか?


 いや。


「へっ」


 天才の俺がここで死ぬ?


 天才というのは神に愛されているのだ。たとえ間抜けな人間どもが俺の価値をわからなかったとしても、全知全能な神は俺を正しく理解し、それゆえ俺の死を許さない。俺はかッと目を見開きスキンヘッドのパンチが燐光を伴って迫るのを凝視する。こい!結果は必然。俺の生という結果が必ずあるのだ。


「なっ!?気持ちわりぃ目ぇしやがって!!」


 死を前にして、いや、死にはしないのだが、凡人には絶体絶命のこの瞬間を超然たる姿で迎える俺をぎょっとした目で見つつも、足は緩めない。


「死にさらせやぁぁぁぁぁ!!」


 豪快な右ストレート。風圧でさえ俺の頬をびりびりと揺らすほどの威力。それが語るのは死。だが、それがどうした。それは凡人の話!!


「はははははっ!はーっはっはっ!!」

「おい、狂ったのか。この腐れ鍛冶師」


 徒労になるとも知らず俺におそらく全身全霊のパンチを叩き込もうとする哀れなスキンヘッドを高笑いして迎え入れている俺の耳に、今目の前にいる二人ではない声が届く。

 

「お前は嫌いだが、死なれると困るんだ。毎度客ともめるのはよしてくれ…いつか死ぬぞ」

「俺は死なん!!」


 聞き覚えのあるその声に俺は返事を返す。それに対する返答はため息だった。


「一つ貸しだ」


 服の襟に何かが引っかかったような感覚。と同時に俺の体は左にひかれていた。立てない俺はその力にひかれ自然と倒れこむ。先ほどまで俺がいた場所をスキンヘッドの拳が通過する。


『Don’t cry』の看板が粉みじんに吹き飛ばされる。パラパラと散ったかけらが俺の頬に降りかかる。それを感じた次の瞬間、地面にぶつかったことで最初の一発ほどではないが衝撃が体に走る。


「いだっ。おい!死なないとは言ってもダメージはあるんだ。この俺がしばらく仕事ができなくなったらどうなる!?」

「みんなが喜ぶよ」


 そういって気だるそうに両手をぶらりと下げて空地につながる路地の奥から現れたのは見知った黒髪の青年だった。その頭上には太陽が昇っていた。

 

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