Day 5

第34話 終わりの始まりは日常の中で

 夢を見ていた気がする――。

 私は君に首を絞められていた。それはとても苦しくて辛いはずなのに、なぜだか焦りはなく、むしろ、これで君が救われるならば、このまま君に殺されるのも悪くないとさえ、心の中で思っていた――。

 私は今日、君への想いに気付いた。君の感じる辛さの一端に気がついた。

 今日一日、ずっと君を見ていた。君が辛そうな顔をしているところ。それを表に出さないようにいつも通り授業を受けているところ。

 分かりにくいけれど、君のまとう雰囲気はとても苦しそうで――。

 それは今、私が感じている苦しさとは別物だけれど、ずっと君を苦しめてきたものなのだろう。

 私は自分の辛さではなく、君のことを思って涙がスッと頬を流れるのを感じる。

 息ができない。苦しい……頭の中が真っ白に、目の前が真っ白になっていく――世界はこんなにも綺麗な茜色なのに、全てが白く染まっていく――。

 もう残された時間がないのが分かる。私はあと数秒もしないうちに意識を失い、きっと死んでしまうだろう――。

 それなのに、二つだけ、心残りがある――。

 一つは君に想いを正しく伝えられなかったこと、もう一つは――――。




 私は目が覚めると同時に大きく息を吸った。息はちゃんとできるし、苦しさはもう感じない。首にそっと手を当てて、私は夢に見たことを思い返す。

 そもそも見ていたのは夢じゃなかった。あれは私の中から零れ落ちた記憶の残滓ざんしだ――。

 そして、そんな“夢”で見ていたからこそ、私は私を殺した犯人が誰か薄々は気がついていて、それが確信に変わった。

 ただ、私はそれをまだその相手に伝えるつもりはない。その本人が自分から明かしてくれるのを今日の放課後までは待とうと決めた。

 私は幽霊になったことにもちゃんと理由があった。幽霊になってまで遣り残したことがあったのだ。

 そのこともはっきりと思い出した。

 その遣り残したことはもう解消されたと胸を張って言えるまで、あと一歩のところまで来ていて――。

 それは同時に自分に残された時間がないということと同じで――。


 私は有悟ゆうご君と一緒に通学する。

 有悟君は教室の扉を開け、いつものように無言で教室内の自分の席に向かう。今日も数人の生徒が有悟君に嫌なものを見る視線を送る。

 しかし、今日はいつもと違うことが起きた。

 まず扉の近くの席の村中むらなか君が有悟君の姿を確認すると、小さく手を挙げて無言で合図を送ってくる。それは村中君なりのこの場の雰囲気でできる精一杯の挨拶なのだろう。有悟君は同じように小さく手を挙げて、村中君に無言の挨拶を返していた。

 変わったことはそれだけではなかった。

 有悟君は自分の席に着き、鞄の中のものを机の中に入れ始めると、

「あっ! おはよう、戎谷えびすだに君」

 と、聞き覚えのある声が教室の扉の方から聞こえる。その声に教室内がざわっとする。今まで、用事もないのに有悟君に話しかけるということは誰もしてこなかったのだから明らかに異常なことが起きているのだ。

 私も有悟君も声の主の方に顔を向ける。そこには今まさに沙苗さなえ美菜みなが教室に入ってきたというところだった。鞄を持っていないところを見ると、二人でトイレにでも行っていたのかもしれない。

 沙苗は美菜の手を引きながら有悟君の席の前にやってくる。

「戎谷君、挨拶してるんだから、無視はひどくないかな?」

 沙苗はわざとらしく頬を膨らませながら、有悟君の前の席の椅子に腰掛ける。

「お、おはよう。吉川よしかわさん」

 有悟君は小声で挨拶を返す。それに沙苗は満足したのか、

「うん、おはよう」

 と、笑顔でもう一度挨拶をする。

「ほら、美菜も挨拶しなよ」

「そうね。おはよう、戎谷君」

「おはよう、松田まつださん」

 美菜は沙苗に促されるまま挨拶をする。美菜はいつも通りのました顔で挨拶をする。沙苗は、「いひひひ」とその光景を見ていた。

 そのまま沙苗を中心に雑談が始まる。そのありえない教室の一角の風景を他のクラスメイトも興味があるのか聞き耳を立てているのが分かる。それと同時に課題の残りを必死にやっているクラスメイトもいて、私にとっては、なんだかんだでいつもと変わらない教室の風景に思えた。

「ああ、そうそう。戎谷君は課題は終わってるんだよね?」

「終わってるけど?」

「あのさ、ちょっとわかんないところあるんだけど、教えてくれない?」

 沙苗はいつもの調子で有悟君に勉強のことを尋ねる。教室内は一瞬静まり返る。有悟君はそんなクラスメイトの反応をよそに、

「いいけど、どこ?」

 と、沙苗に答える。沙苗は「ちょっと待って。自分の課題のやつ持ってくるから」と、自分の席に取りに戻りすぐに有悟君の前の席に戻ってくる。

「ここの問題なんだけど……」

「この問題は――」

 有悟君は丁寧に分かりやすく説明する。沙苗は解説を聞きながら、問題を解き始める。

「おお、戎谷君って教えるのも上手いんだね。先生より分かりやすいかも……」

「そうね、これは分かりやすいわ」

 美菜も横で覗き込みながらうんうんと頷いている。

「そういえば美菜も分からないところあった、って言ってなかった? ついでだから教えてもらったら? いいよね、戎谷君」

「うん、いいよ」

「じゃあ、沙苗。ちょっと課題のそれ貸して――えっと、ここの問題なんだけどさ――」

 美菜も自分の分からないところを有悟君に質問する。有悟君はそれも解説する。美菜も有悟君の解説を聞きながら問題を解き直す。

「ああ、なるほど。ここに補助線入れると解きやすくなるのね……ありがとう、戎谷君。助かったわ」

「うん。こんなことでお礼を言われるとは思わなかったよ」

 有悟君は心底意外という表情でそうぽつりと零す。お礼を言われなれてないのか、表情が固いように思えた。私もこういう風に有悟君と教室内で過ごしてみたかったと沙苗と美菜がうらやましかった。

「ねっ? 美菜、私の言った通りでしょ? 戎谷君は意外に話しやすいし、いいやつなんだよ。なんたってあの朱香あけみが選んだ人なんだからさ」

「そうね……ねえ、戎谷君。他のところも聞いていいかしら?」

「うん。ホームルームまでそんなに時間ないけど、できる範囲でなら……」

「ホームルームって、どんだけ質問される気、満々なのよ」

 沙苗は時計を確認しながら笑う。美菜も小さく肩を揺らす。

 確かに、ホームルームが始まるまでまだ十五分以上ある。予鈴からホームルームの始まるチャイムの鳴る間の五分も入れたら約二十分で――それだけあれば、けっこうな数の問題を有悟君は教えてくれるだろう。

「あのー……俺も教えてもらっていいかな?」

「聞いちゃえ、聞いちゃえ。今なら戎谷大先生がどんな問題でも分かりやすく解説してくれるよ」

 有悟君の意思を無視して、沙苗の言葉で隣の席の男子も輪に加わってくる。それを皮切りに次々と有悟君の周囲にクラスメイトが集まってくる。ちょっとしたお祭り騒ぎだ。

 有悟君は今まで有悟君を色眼鏡で見てきた相手に対しても分け隔てなく教える。いつのまにかクラスの中心に有悟君がいた。

 それも今までクラスメイトにあまり見せたことのない楽しそうな笑みを含んだ表情でだ――。

 チャイムが鳴り、広谷ひろたに先生が入ってくると、教室内の見慣れない光景に驚いた表情を見せる。

「おう、おはよう。なんだ、今日は戎谷が大人気じゃないか」

「あっ、先生。課題まだなんでこのまま戎谷に教えてらっていいですか?」

「おいおい、酒井さかい。課題の締め切りは朝だと言っただろうが。それをそんな堂々と終わってないアピールしてくんな」

「いいじゃないっすか。今、最高に勉強に対してやる気あるんですから」

「それを普段から出せよ」

「すいませーん」

 広谷先生と酒井君のやり取りに教室内がどっと沸く。

「まあ、とりあえず。全員そのままでいいから俺の話を聞け。今から出席取ったら、残りの時間は戎谷の時間にしてやるから」

 広谷先生が大声で出席を取っていく。そして、予告どおり有悟君への質問タイムが始まる。広谷先生はその光景を楽しそうに眺めていた。

 ホームルームが終わる時間になると、広谷先生により無常なタイムアップが宣告され、課題が集められる。

 それでも次の授業が始まる少しの時間にも有悟君に質問をするクラスメイトがいて――。

 一時間目の授業が始まり、教室内に秩序ちつじょ静寂せいじゃくが戻ると、さすがに有悟君もちょっと疲れた表情を浮かべていた。

 私は有悟君の隣に立って、小声で、

「お疲れ様、有悟君。大人気だったね」

 と、声を掛ける。有悟君は私をちらっと見たあと、ルーズリーフを取り出し、胸ポケットからペンを取り出し、何やら書き始める。そして、書き終えると私に視線を送り、ペン先でルーズリーフをトントンと叩く。そこには、

『本当に疲れたよ。でも、楽しかった。朱香さん、ありがとう』

 と、書かれていて――。

「なんで私? 私は何もしてないよ?」

『朱香さんがくれた時間だから。朱香さんがいなかったら吉川さんと話すことはなかったと思うし、何より、朱香さんと過ごした数日があったからこんなにも人に正面から関わろうと思えたんだ』

「それはもともと有悟君の中にあったものだよ。だから、有悟君はもっと胸を張ってればいいんだよ」

『うん。僕はもう何があっても前に進めそうだ』

 有悟君はさらにペンを紙に走らせる。

『本当にありがとう。朱香さんと出会えて、話せてよかった』

 有悟君は授業中にも関わらず、自然な笑顔を浮かべていて――私はよかったと胸を撫で下ろし、笑顔を返した――。


 その日、有悟君の周囲には誰かがいた。沙苗や美菜は有悟君と雑談をしに、他にも数人のクラスメイトが雑談に混じりに来たり、分からないところを聞きに来たりして、有悟君は休み時間に休むことも満足にできていないようだった。

 有悟君はクラスメイトの目が自分に向いているということを自覚したのか、今日は授業をサボる気配がなかった。苦手と言っていた遠山とおやま先生の現代文の授業もちゃんと出席していて、遠山先生の方が嫌な顔をしていたくらいだった。

 その日、有悟君は初めてクラスメイトからクラスの一員と認められ、有悟君自身もクラスに属していると初めて感じることができたのではないかと思った。

 そして、あっという間に一日が過ぎ去り、放課後になった――。

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