第10話 喫茶店

 私が泣き止むと、お腹の鳴る情けない音が聞こえた。その音の主の顔を見上げると、

「仕方ないだろ? もう昼過ぎだし、食べる時間もものもなかったんだ」

 と、まだ何も聞いていないのに言い訳を開始する。

「私、まだ何も言ってないよ?」

 私は肩を揺らしながら小声で笑う。それに対して、有悟君は不機嫌そうな表情を浮かべる。

「有悟君。弁当か何か持ってないの?」

「いや、いつも昼に購買でパン買ってるから、何も持ってないよ」

「じゃあ、近くに私の幼馴染の家がやってるよく行く喫茶店があるの。よかったら、どう?」

「行ってみようかな」

「うん。じゃあ、付いてきて」

 私は有悟君に笑顔を向ける。自分の好きなものを有悟君に知ってもらいたいと思った。私はもうお客としていくことはできないけれど、有悟君はもしかするとこの先も行く機会はあるかもしれない。

 私の家から歩いて五分もしないところにある喫茶店、マミヤ珈琲に有悟君を案内する。私は扉を開けることはできないので、有悟君にくっついて中に入る。

 マミヤ珈琲はその名の通り間宮まみやさんが夫婦で切り盛りしていて、そこの娘にあたる志乃しのが私と同級生で幼稚園から中学校まで一緒だった。

「いらっしゃい」

 間宮のおばさんの優しい声に迎え入れられる。

「……お一人ですね。好きな席へどうぞ」

 おばさんは有悟君の制服姿に戸惑っているように見えた。平日の昼過ぎに制服姿の男の子が入ってきたら、どうしたものかと気にするのも分かる。間宮のおばさんは世話焼きなので、有悟君に声を掛けようかどうしようか、さぞ今、葛藤かっとうしている最中だろう。

 有悟君はそんな視線を全く気にもめず、カウンターから一番遠いテーブル席に腰掛けた。私は有悟君と向かい合うように座る。有悟君は備え付けのメニューを手に取り目を落とす。すぐにおばさんが水とお手拭てふきを持ってやってきた。

「注文が決まったら教えてね。ところで――」

「なんですか?」

「あなた、学生さんよね? 学校はどうしたのかしら?」

「今日は訳あって、午前授業になったんですよ」

「あらあら、そうだったのね。そういえば、あなたの制服、桐ヶ丘のよね? おばさんの知り合いの子がそこに通ってるのよ」

 有悟君は私に視線を向ける。

「それ、きっと私のことだよ。で、おばさんはまだ私のこと知らないみたいだね」

 おばさんは有悟君が反応が薄いと見るや、「なんかごめんなさいね」と言いながら、カウンターの方に戻っていった。

「おばさん、相変わらずだなー」

 私は目でおばさんを追って、カウンターの向こう側でカップを磨いているおじさんに視線を移す。シンプルなシャツにエプロン姿といういつもの光景に私は思わず涙が出そうになる。

「ねえ、安居さん」

「なに、有悟君?」

 小声で有悟君に話しかけられ、私も釣られるように小声で返事をする。

「ここのおススメってなに?」

「食べ物で?」

「そう。あんまり重たくないものがいいんだけど」

「じゃあ……サンドイッチなんてどう? ここのサンドイッチ種類が何種類かあるんだけどさ、私はマヨ三種が一番好きだよ」

「マヨ三種?」

「マヨタマ、ツナマヨ、エビマヨの三種の盛り合わせなんだ」

「へえー。僕さ、エビ苦手なんだけど、言ったら中身代えたりしてもらえるかな?」

「たぶん大丈夫だと思うよ。それより有悟君ってエビが嫌いなんだ、なんか意外」

「別にいいだろ?」

「そうだね。私は有悟君とは反対にエビが好きだし、三つのうちだとエビマヨが一番好きだよ。あっ、もし私が生きてここにいれたら、エビマヨと何かをトレードとかできたのにね」

 有悟君は「そうかもね」と、目を伏せながらこぼすように言う。

 有悟君はおばさんを呼び、ブレンドコーヒーとエビマヨをマヨタマに代えてもらったマヨ三種ならぬマヨ二種を注文した。

 有悟君は注文が届くまでの間、店の中を見回していた。

「なんだか、明るくて、ほどよく物が多いからアットホームな感じのするいい店だね」

「でしょ? 小さいころは一日一杯までは飲み物をサービスしてくれるくらいには身内に甘いいいお店だったよ。中学のときは試験勉強を今座ってるこの席でやったこともあるよ」

 私は懐かしい思い出話をする。私にはもう新しい思い出を作るなんてことはできない。私のことも過去形でしか語られなくなるのだと思うと、一人だけ取り残されたようで寂しかった。

 他にお客もいなかったこともあり、有悟君の注文は十分もしないうちにテーブルの上に並んだ。有悟君はおいしいと言いながら、一気に全部たいらげていた。その辺りは有悟君も年頃の男の子なんだなと改めて実感した。

 有悟君は食後のコーヒーをすすりながら、おばさんを呼んだ。

「すいません。ここでしばらく勉強させてもらってもいいですか?」

「ええ、もちろん。コーヒーのお代わりは学生さんは二杯目からは半額、五杯を越えると定額になるからね」

「わかりました。ありがとうございます」

 有悟君はそう言うと、コーヒーカップ以外を片付けてもらい、鞄から今日渡された課題のプリントの束とルーズリーフを取り出す。ブレザーの内ポケットに手を伸ばしかけて止めて、筆箱を鞄から取り出した。

 有悟君は課題をもうスピードで消化していく。正面から見ている私はなんでそんなに早く、教科書も何も見ずに解けるのか理解できなかった。

 私の苦手な数学の問題がいとも簡単に答えに導かれていく。有悟君は、迷いなく淡々と答えを出す様は見ていて気持ちいいくらいだった。

 英語は構文の問題と日本語訳の問題が多かったが、それをさも日本語で書かれた文章を読んでいるかのようにさっと解いていく。

 その後も化学、古典と今日出された課題を二時間もかからず終わらせてしまい、私は口をあんぐりとさせる。

「有悟君って、本当にすごいね」

「そう? 勉強なんて、覚えること覚えて、やり方さえわかってれば簡単だよ」

「いやいや、簡単じゃないから。それができないから全国の一般的な学生は頭を悩ませるんだよ」

「そういうもんなの?」

「そういうもんです」

 有悟君は私の言っていることが理解できないという表情をしながらコーヒーに口を付ける。

「有悟君は苦手な科目とかないでしょ?」

「あるよ」

 即答されたことにもだが、有悟君に苦手な科目があるのが想像できなかった。

「えっ、ほんとに? ちなみに、なに?」

「現代文」

「なんで?」

「現代文の答えは基本的に文章内にあるからいいんだけどさ、筆者や登場人物の考えや気持ちを答えなさいってのがどうも苦手でさ……そんなの書いた人にしか正確に分かるわけがないし、人によっては受け取り方が違うのに、答えは決まってるっておかしいじゃん?」

「それはそうかもだけどさ……でもさ、有悟君、現代文もテストの点数はいいよね?」

「それはさ、苦手といっても問題として解くのは簡単だからだよ。それに現代文は授業を受ける意味が分からなくてさ」

 有悟君はペンをくるくる回しながら答える。そういえば、現代文の授業のとき有悟君が教室にいないことがあったような気がする。

「もしかして、今までちょいちょい現代文の授業、サボってた? 思い返してみたら現代文の授業はいないことが多かったなあと思ってさ」

 有悟君はペンを回す手を止める。そして、私の顔をまじまじと見つめる。

「そう……だね。にしても、僕がいようがいまいが授業の真っ只中にいなくならない限り、他の人は気にしてないのだと思ってた」

「いやいや、誰も言わないだけで、気にしてる人はいるでしょ」

「そう? まあ、授業にでたくない理由は授業内容よりも先生……なんだけどね」

「先生? 遠山とおやま先生が何かあるの?」

「僕はあの先生に嫌われてるからね」

 遠山先生は中年の女性教諭で人の好き嫌いがはっきりしている。気に入らない生徒は理由があれば必要以上に厳しく叱責しっせきするし、逆にお気に入りの生徒に対してはとことん甘い。自分の価値観というものを他人に押し付けるような教諭で――私も苦手なタイプの先生だった。

「嫌われてるって言っても、別に何かしたって訳じゃないでしょ?」

 有悟君は大きなため息をつき、再度コーヒーに口を付ける。

「たぶん最初から目を付けられてたと思うよ。一ヶ月経たないうちに先生から、「どうせあなたも私をどこかで見下しているんでしょう?」って言われたからね。そのあと、「授業に出たくないなら無理に出なくてもいいのよ。あなたも私の授業なんてハナから聞いてないでしょう?」とまで言われたからね。だから、お言葉に甘えて何度か授業を抜けさせてもらったんだけどね」

「なんだか被害妄想が激しいだけのような……本当に何か思い当たる節はないの?」

「あるとすれば……授業中に教科書だけ開いて、一切ノートを取らなかったり、図書館とかで借りた授業でまさにやっているやつの原本を読んだり、市販の現代文の問題集を解いたりしていただけだよ」

 悪気の欠片かけらさえ見せずに言い放つ目の前の有悟君にあきれてしまう。

「原因、きっとそれだよ。先生からしたらあてつけに思えたんじゃないかな? それにあの先生、ノートを取らせることが授業だと思ってる節あるしさ」

「そうなのかな? 最初のころは真面目に授業を聞いていたんだ。でも、授業はノート取るほどでもないし、現代文ってそもそも授業で問題を解く機会少ないじゃん? それで暇を持て余して何もしないよりかはマシかなと思ったんだんだけどね」

「そもそも有悟君が小テストとか以外で授業中にペンを持っているところを私は見た記憶がないんだけれど……そもそもノート持ってないよね?」

「うん、そうだね。提出とかで書くものが必要になればルーズリーフにだしね。でも、英語とか歴史系の授業は教科書とかにメモや重要なことに印をつけるくらいはしてるよ。特に広谷先生の英語の授業はね」

「ほんと、有悟君は真面目なのか不真面目なのか分からないね」

 私はくすくすと笑う。有悟君は腑に落ちないという顔をしていたが、何も言わずにコーヒーを飲み干す。

「そろそろ店出ようか?」

 有悟君はそう声を掛けて立ち上がる。そのとき、テーブルの角に有悟君がブレザーから覗くシャツの袖を引っ掛ける。テーブルがガタッと大きな音を立てる。幸いテーブルの上のものは落ちることはなかったが、有悟君は自分の袖を見て、大きなため息をついた。シャツの袖のボタンがほつれて取れかけていた。有悟君はそれを引きちぎり制服のポケットにしまう。

 間宮のおばさんが大きな音にけつけて、「大丈夫?」と、声を掛けるが有悟君は「大丈夫です。すいません」と返し、そのまま会計をお願いする。

 有悟君はお金を払い、店を出た。

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