第8話 帰り道

 小崎先生は話終えると大きなため息を一つついた。有悟君は膝に手を置いたまま聞く姿勢を崩していない。そのまま何か考え込んでいるようだった。

 私はというと――小崎先生から語られた話を聞いてもどこか他人事で、それなのに手や唇が震えてしまっていた。昨日のことは何も思い出せなかった。

 たしかに、昨日は第二水曜日で美化委員の定期の活動日だ。ということは、放課後に各教室の掃除用具の点検やゴミ捨て場の整理と清掃など色々していたはずだ。想像はできるのに、何も分からないというのはもどかしいところだった。自分のことなのに人から聞かされてもぴんと来ないのも不思議な感覚で――。

「どう? 聞いててあんまりいい話じゃなかったでしょ?」

「いえ、話してくれてありがとうございます」

 有悟君は小さく頭を下げる。小崎先生は「いいのよ」と優しく笑い、有悟君から貰ったカフェオレに口を付ける。

「そんなに長い話をしたつもりはないけど、すっかり冷めちゃってるわ」

「また今度同じのを持ってきますよ」

「そんな気にしなくていいのよ。そんなことよりさ、有悟君はどうして非常階段なんかにいたの?」

 小崎先生は無理に明るい声を出して質問する。

「非常階段は僕のいこいの場所なんですよ。放課後とかよくあそこで時間を潰しているんですよ。それに帆南先生……先生も知ってるでしょ? 僕の家のこと? すぐに帰っても仕方がないし、かと言って寄り道するのはあんまり好きじゃないしですし――それに人とあんまり会いたくないから、そういう意味でもなかなかいい場所なんですよね。あそこは穴場スポットなんですよ」

 有悟君の声に冷たいものが混じっているのか部屋の中が凍りつく。

「本当にごめんなさいね、気が回らなくて……私、今日ダメだなあ……」

 小崎先生は小声で申し訳なさそうに言う。

「昨日から色々あって、きっと疲れてるんですよ」

「これじゃあ、どっちが先生かわかんないね。私、カウンセラーの資格も持ってるのにこれじゃあ、失格だなあ」

 有悟君の大人な対応に小崎先生は柔らかな笑顔を見せる。

「それじゃあ、僕はそろそろ帰りますね」

「わかったわ。それじゃあ、またいつでも来ていいからね、有悟君」

「ありがとうございます、帆南先生。お言葉に甘えてまた来ます」

 有悟君は立ち上がり、保健室の扉を開け、笑顔で小さく手を振る小崎先生に「失礼しました」と頭を下げる。そのすきに私は有悟君の脇をすり抜け、先に廊下に出た。

 保健室から出て有悟君は下駄箱の方に向かって歩き出した。当たり前だが昼前のこの時間は陽が高く、廊下の窓から差し込む光は明るかった。

 下駄箱に着き、私は靴を履き替えることができなかったので、有悟君が靴を履き替えるのを待つことにした。今、冷静になってみると地面との接地感がなく、ホバークラフトのように少し浮いているのかもしれない。

 しかし、私の中ではそれ以上にどうしても有悟君に確かめたいことがあった。

 有悟君が靴を履き替えたのを確認して、

「あの、さ……有悟君。有悟君が私を好きだった、っていうのは本当?」

 と、尋ねる。緊張やら照れくささやらで耳が熱い。今まで恋愛というものに縁がなかった私にとってはとても重要なことに思えた。

「ああ……えっとさ、ちょっと言いにくいんだけれど、ああ言えば帆南先生は優しいから話してくれると思ったんだ。情に訴えるというかさ、そういうのに弱い人だからある程度無茶を聞いてくれるとは思ってたんだ」

「えっ……?」

「まあ、そんな帆南先生だから僕は度々、保健室をさぼりの口実に使っているしね。それに実際、安居さんの話も聞けたからね」

 有悟君は目を合わせようとせずに淡々と説明してくる。私はなんだかそんな有悟君に――好きだといわれ気持ちが揺れた私に苛立ちに似たものを感じた。意識していたのは私だけだったのかもしれないと思うとなんだか悔しかった。

 きっと今の私は小さな子供のように頬を膨らませているのだろう。それくらい感情が態度や表情に出ている気がした。

 そんな私の状況とは関係なく、有悟君は玄関から外に一歩踏み出し、周囲に人がいないことを確認してから、「安居さんはこれからどうするの?」と尋ねてきた。

 その質問に熱くなっていた顔と頭の中がスッとスイッチが切り替わったかのように瞬間的に冷却されたのを感じた。

 どうするかのかという質問に、最初に浮かんだのは両親の顔だった。

「これからのことはわからない……だけど、とりあえずは家に帰るよ」

 今のこんな中途半端な私が居るべき場所だとか、帰る場所がどこかなんて分からない。家に帰って、私が死んだことを悲しむ両親をただ見つめるというのも辛いことだ。ただ私の帰る場所は生きていても死んでいても、両親の待つあの家以外にないのだ。もしかすると、有悟君のように私が見えて、会話できるかもしれない。

「安居さん、もし行く場所に迷うようならウチに来なよ」

「ありがとう。それは嬉しい提案なんだけど、今日は父さんと母さんのいる場所に帰らないといけない気がするの。明日からはもしかするとお邪魔することになるかもしれない。そのときは……あの、よろしくね」

 私は有悟君にできるだけの笑顔を向ける。有悟君の優しさが嬉しかった。単純に心配をかけたくなかった。

 校門で有悟君と別れ、私は帰路きろにつく。

 いつものようにバス停でバスが来るのを待った。下校のタイミングがずれたため同じようにバスを待つ生徒はいなかった。それだけじゃなく、時間のせいか他にバスを待つ人もいなかった。バス停には私一人が俯き加減で立って待っていた。

 しばらくすると、バスがやってきたがバスは停まることなく通り過ぎていった。考えてみれば仕方のないことに思えた。バスの運転手からすれば私は見えないのだ。

 私は大きなため息をつき、仕方なく歩いて家に帰ることにした。

 休憩を取ることなく長い距離を歩き続けたのにも関わらず、体は疲れることはなく、さらにのども渇くことはなかった。

 こればっかりは幽霊様様といったところだが、幽霊だからといって建物はすり抜けられないのでショートカットができるわけではなく、生前の自分が歩く速度よりも速く歩けるというわけでもなかった。

 道路沿いに歩いていたので、停留所を何度か通り過ぎた。人が待っている停留所もあり、バスに乗ろうかとも考えたが、降りるときのことを考えると都合よく私の最寄のバス停かその前後のバス停で誰かが降りるとも限らないので、結局バスに乗るということができなかった。

 体は疲れることはないのだが、家が近づくにつれ足取りが重たくなっていく。重たいのは足取りじゃなく、気持ちの方なのかもしれない。

 いつもなら学校から家までバスを使えば三十分もあれば帰ることができる距離なのだが、どれだけの時間歩いたのだろうか? 家の近所のコンビニで外からのぞきこんで時間を確認すると、もうすぐ昼の一時になろうかという時間だった。学校を出たのが十時過ぎ。それは保健室の時計で確認済みで、こんなに長い時間歩き続けたのは生まれてこのかた初めてで不思議な達成感のようなものもあった。


 家の前までたどり着き、見上げる見慣れた家はどこかいつもと雰囲気が違って見えた。玄関のノブに手をかけるも他の扉と同じように自分では開ける事もできず、すり抜けることもできず、ただただ扉の前で立ち尽くす。

 庭の方に回り、カーテンの隙間から家の中を覗き込んだ。外から見る居間のソファーには普段ならこの時間は仕事でいないはずの両親が力なく座っていた。こんなにも生気の抜けた顔をしている両親を見るのは辛かった。

 私が直視できずに視線を逸らすと、母が顔色を変えて、私の方に近づいてきて、カーテンを開けガラス戸を開ける。そして、庭を何度もキョロキョロと見渡した。私は一瞬期待したが、母は目の前に立っている私に気づく気配がなかった。

 父が母の突然の行動に驚きつつも冷静な声で、

「急に庭なんか見てどうしたんだ?」

 と、母に声を掛ける。

「あの子が……朱香が外にいたような気がしたの」

 それは虫の知らせというやつなのかもしれない。

「母さん、父さん……私はここだよ。帰ってきたんだよ」

 私は笑顔で二人に話しかける。

「気持ちは分かるが朱香はもう……」

「分かってる。分かってるわよ……でも、朱香が死んだなんて信じられるわけないじゃない」

 母はそう言いながら私の目の前で泣き崩れる。父は母の肩を抱き起こしながら、

「そうだな……信じられるわけはないよな。だから、今は我慢せずに泣こう。そして、朱香を送るときは心配かけないように涙は見せないようにしよう」

 そう言う父の声は震えていたが温かかった。ガラス戸は閉められ、今度はカーテンが隙間なく閉められる。

 私は初めて自分が死んだのだという実感が沸いてきた。子供が親より先に死ぬというのは、それだけで親不孝なことだ。

 私は結局、両親に対して恩返しも親孝行もできていない。高校に入ってからは、色々とお金のかかる私のために疲れた顔で日々働く両親に甘えることしかできていなかったダメな娘だ。私が生きていたら、この先大学に行ってさらに負担をかけたかもしれない。それでも両親は、私のためにと身を粉にしてくれたのだろう。

 その後、働くようになったら、それまでに掛けてもらった恩を少しずつ返していこうと思っていた。


 私にはそんな未来を夢見る権利すら奪われてしまったのだ。


 私は改めて自分がどうして死ぬことになったのか、その謎を解き明かさなければならないと決意を固くする。

 両親の姿をしっかりと目に焼き付けて、もう戻ることのない帰れない、生まれてから約十七年を過ごした家を後に、歩き出した――。

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