第6話 保健室

 有悟君は非常階段を降りて、一階から校内に戻る。そして、廊下を進み購買こうばいの自動販売機でホットのカフェオレを一本買い、それを手にしたまま、また歩き出し、今度は保健室の前で足を止める。

「失礼しまーす」

 有悟君は自分の部屋に入るかのように躊躇ちゅうちょなく扉を開ける。そして、私が少し遅れて入ったのを確認してから扉を閉める。

 保健室の中は独特の消毒液の臭いがした。さっと見回すと養護教諭の小崎こさき先生以外、人はいないようだった。小崎先生は椅子をクルッと回転させて、扉の方に向き直ると、

「あら、有悟君じゃない。どうしたの? また胃薬かしら? それとも休憩?」

 と、随分親しげに声を掛ける。有悟君もそれがさも当たり前のように受け止めながら、小崎先生の正面の椅子に腰掛ける。私は有悟君のななめ後ろに立っていることにした。

「違いますよ、帆南ほなみ先生。お礼に来たんですよ。そして、これをどうぞ」

 有悟君はそう言うと先ほど買ったカフェオレを小崎先生に手渡す。私は状況が飲み込めずただ立ち尽くしていた。

「ありがとう、有悟君。で、これは何のお礼かしら?」

 小崎先生はカフェオレを笑顔で受け取る。両手で包むようにカフェオレを握り、指先を温めているようだった。小崎こさき帆南ほなみは歳は三十過ぎだが見た目は若々しく、服装次第では大学生と言われても信じてしまうほどに童顔どうがんだった。養護教諭という立場上、化粧は薄めでカフェオレを握る指は細く綺麗だけれど、爪は短く手入れされている。

「帆南先生が僕の体操服の入った鞄を拾ってくれたとのことで、そのお礼です。その節はありがとうございました」

 有悟君はトートバックを見せた後、わざとらしく大きく頭を下げてみせる。

「ああ、はいはい。拾ったのはたまたまみたいなもんだから、気を遣わなくてもよかったのに。まあ、カフェオレはありがたく貰うけどね」

 私はそのやり取りになんとなく違和感のようなものを覚える。有悟君が今まで忘れ物だとか課題をやり忘れただとか聞いたことがなく、そういうことと無縁むえんな人だと勝手に思っていたからこそのものなのだろう。

「それで帆南先生、この鞄どこにありました?」

「たしか……非常階段の踊り場だったような……」

「帆南先生が非常階段に行くなんて珍しいですよね? どうして、非常階段に?」

「それは……」

 小崎先生は話しにくいことなのか、苦い顔をして黙り込んだ。

「話せないようなことなんですか?」

 有悟君の追い討ちのような言葉に有悟君から視線を逸らすように椅子を回転させ体ごと背けてみせる。嫌がっているのは明白だった。

「帆南先生。非常階段に行ったのは安居さんのことと関係してるんですよね? それで無理を承知でお願いします。安居さんの件で知ってることを教えてもらえませんか?」

 小崎先生は目だけで有悟君をちらりと覗き見る。

「それはできないわ」

 先ほどまでとは違い低いトーンの小声で返事をする。

「どうしてですか?」

「有悟君、察してよ……今はそのことに関しては緘口令かんこうれいが出ているの」

「そこをなんとか……帆南先生以外に頼れる先生いないんですよ」

「でもねえ……それにしても、有悟君にしては食い下がるわね。どうしてそんなに知りたいのかしら?」

 小崎先生は興味が出てきたのか、椅子を回転させて有悟君に向き直る。有悟君は膝に置いていた手を強く握る。

「帆南先生……これはここだけの話にしてほしいんですけど……」

「なになに?」

「実は……安居さんのこと好き……だったんですよ」

「「ええっ!!!?」」

 小崎先生の驚く声に私の声が重なる。有悟君は思わず耳を押さえていた。私の耳は突然の告白で熱を帯びてくる。

「ああ、ごめんなさいね、有悟君。そっかあ……有悟君にもそういう子がいたんだね」

「帆南先生は僕を何だと思ってるんですか?」

 有悟君の訴えに小崎先生は小さく肩を揺らす。そして、真剣な顔に戻り、

「それでもね、好きな人が亡くなったってだけでは普通は首を突っ込もうとは思わないよね」

 と、さとすような優しい声で語りかける。有悟君はチラッとこっちを見つめる。私は今はそれだけでも意識してしまい、ついつい視線を逸らしてしまった。

「僕は性格なのか分からないですけど、一つずつ答えを見つけないと気がすまないみたいなんです。そうしないと前に進めないタチみたいなんですよ、僕」

「というと?」

「もちろん、帆南先生が言うように関わらないようにして諦めたりだとか、嫌なことは見ないようにしたりは僕もできるとは思うんです。そうして、問題を先送りや保留にしておくといつまでもしこりのように残ってしまいそうなんです」

 小崎先生は静かに頷きながら話を聞いている。

「僕にとっては初めて好きになった相手が安居さんだったから、このままだと気持ちの行き場を失ったまま、やりきれない想いを一生背負ってしまいそうで……それならせめて安居さんがどうして死ななくてはならなかったのかを知りたいんです。知ったところで、どうなるかは分かりませんが、知らないよりは前に進めると思うんです」

 小崎先生は話を聞き終え、じっと有悟君を見つめながら何かを考えているようだった。しばらくして、ゆっくりと口を開いた。

「わかったわ。私の知っていることは話すわ。ただ条件があるの。私が話したということは秘密にしてもらえるかしら?」

「ええ、それはもちろん」

「あまりいい話ではないからね。まずはどこから話そうかしら? そうね、安居さんがいなくなったと聞いたあたりかしら――」


 小崎先生はゆっくりと話し始める。それは私の知らない私をさがす話――。

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