犬猿の獄中劇

 諜報員の仕事はいつも危険と隣り合わせ。綱渡りが常だ。

 正体が暴かれれば最後。潜入を許した組織も逃走までは許さない。捕らえられた諜報員は、ありとあらゆる手段で情報を引き出され、出来る限り無惨な方法で処刑される。

 そして今、正体をばらされて逃走にも失敗した私は、下着同然の姿で床に転がされていた。武装解除は勿論のこと、ジャケットやパンツの裾に仕込んでいたあれこれも奪い取られ、両手は後ろ手で手錠に繋がれている。

 私が押し込められたのは窓のない小部屋だ。出口は一つで、監視カメラがひとつ。出口は施錠されている。見張りの人員こそいないが、この場を切り抜ける方法はまだ思いつかない。

 一つのミスすら許されないことは充分に分かっていた。

 ただ、私にとって誤算だったのは、組織には既に別の諜報員が潜入していたこと。その諜報員と鉢合わせるのは、今回が初めてではなかった。互いの本名も正式な所属も知らないが、諜報活動を目的とする工作員だとは知っている。

 嫌な予感はしたのだ。『彼』の口が、いつも以上に嘘くさい笑みを形作ったときから。

「この人、スパイです」

 お前が言うな。


 彼が私の元へ来たのは、私が拘束されてから二、三時間経った頃だった。

「あら、何の用かしら? ワンちゃん、迷子?」

 そう声をかけると、彼は明らかに気分を害したようだった。眉間に皺を寄せてこちらへ近づく。私のすぐ前で立ち止まり、こちらを見下ろしてきた。

「犬、ねえ……鎖に繋がれているのはそちらでしょう? 随分といい格好じゃないですか」

 それを聞いて私は、こちらが下着姿であることを思い出した。彼の視線に下卑たものは混じっていないが、羞恥を感じないわけではない。しかし、この程度の揺さぶりで動揺を見せるのは得策ではないだろう。

「大体、俺が犬ならあなたは? 猿ですかね」

「うまく言ったつもり? イマイチよ」

 大体、犬猿の仲というにも生ぬるい。今は完全に敵同士だ。

「誰かさんのおかげでね。退屈していたのよ。暇過ぎて、そろそろ口が滑りそうだわ。例えば、何食わぬ顔で潜入しているスパイがいることとか」

彼は肩を竦めて、彼はカメラに背を向けたまま、振り返りもせずに言う。

「そのカメラ、送っているのは映像だけです。音声はないので、何を喋られても困りませんよ。さてと」

 おもむろにしゃがみこんだ彼が、なんの躊躇いもなく距離を詰めてくる。口を開けば吐息も感じ取れるほどに近い。

 思わず後ずさりしかけたが、その前に彼は腕を伸ばし、私の体を前から抱き竦める。想定外の動きに、ひゃあ、と情けない声が漏れた。

 動揺した。どうしようもなく。誤魔化しようがないような反応をしてしまったが、せめてもの抵抗に声を荒げる。

「ちょっとっ。犬みたいにじゃれつくの、やめてくれない!?」

「俺のことを犬呼ばわりしてたのはそちらでしょう? この部屋、結構寒いので、温めて差し上げますよ」

 親切ごかした言い方に虫酸が走った。彼の声にも視線にも情欲の色は感じ取れない。そのくせ温度の高い手が脇腹を撫でて背中へまわる。

「っ、開き直らないでちょうだい」

「開き直ってなんか。スパイの末路なんて、こうなるのも当たり前でしょう?」

 鎖骨に唇が落とされた。

「ふ、ざけるのもいいかげん」

 吐き出そうとした言葉は、途中で勢いをなくした。後ろ手に当たる妙な感触に気づいたからだ。

「……どういうつもり?」

「どうもこうも、初めからこういうつもりですが」

 密着した体の背後――監視カメラの死角で、カチャリと手錠が落ちる音が聞こえた。

「こちらの事情に巻き込んで申し訳ないんですけど、今回は手を引いてもらえませんか」

「……本気で売られたかと思ったわよ」

 恨みがましい目を向けると、眉尻を下げて視線をそらす。自信家の彼にしては珍しい表情だった。強引な手口を使ったことについて、反省の気持ちはあるらしい。そして、切羽詰まった事情もある。この場でこれ以上の追求は不可能だろう。思わずため息が漏れた。

「猿回しの猿はゴメンだわ。あとで、理由ぐらい説明してもらえるわよね?」

 せめても、と約束を取り付ける。この場で引き下がることを条件にすれば、相手は飲むしかないだろう。

「……いいですよ、教えて差し上げます。あなたが、ここから無事に出られたならね」

 扉の外から、乱暴な足音が近づいてくる。

「大方、カメラを見て盛った馬鹿野郎でしょう。自分で片付けられますか?」

「手が使えるなら、素手でも勝てるわ」

 虚勢ではないと分かったのだろう。彼は安心したように表情を緩め、立ち上がる。

「では、また」

 彼と入れ違いに部屋に入って来た馬鹿の意識を狩り、私はひらひらと手を振った。

 本当は、再び会える保障はないのだけれど、彼はきちんと約束を果たしに来るはずだ。

 彼の事を、その程度には信頼している。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

SECRET DOGS' DAYS 土佐岡マキ @t_osa_oca

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る