第104話死去と覚醒
「吉備太郎、起きなさい」
懐かしくて優しい声。
まるで天女のように美しい女性の声。
吉備太郎は目を開けました。
「いつもあなたは、呼びかけると目を覚ますのですね。不思議な子……」
そこは吉備太郎の生家、滅んだ伊予之二名島にあるはずの小さな家でした。
「どうして、ここに……? 私は――」
「お前は鬼の総大将、温羅に負けてしまったんだ。今、お前は死の淵にいる」
声のする方へ振り向くと、そこには吉備太郎が会いたくて仕方がなかった二人が居ました。
一人は吉備太郎の養父、源頼光。
もう一人は養母である文殊でした。
「父上、母上――」
「そう呼んでくれるのか。本当の親子ではないと知ったうえで」
頼光は嬉しさと悲しさが入り混じった表情で言いました。
吉備太郎は胸が一杯になりながらも答えます。
「私は父上と母上に育てられて幸せでした。たとえ、二人が罪悪感や義務感で私を育てたとしても、愛されていることが分かっていました。最期の言葉がなくとも、分かっていたのです――」
『お前は俺の自慢の息子だ。それだけは忘れないでくれ!』
『私と父は、あなたを愛しています』
その二言は吉備太郎の心の支えとなっていました。
独りきりで生きた五年間。そして鬼と闘い続けた日々。それを乗り切ったのは彼らの言葉があったからです。
「吉備太郎。もう鬼と戦わなくていい」
頼光が突然に言いました。
文殊も黙って頷きます。
「お前は死に掛けているのだ。このまま楽になってしまえば、俺たちと一緒に極楽浄土へ逝くだろう。一緒に来い」
吉備太郎の本願が叶った瞬間でした。
吉備太郎は当初、このようなことを竹姫に語りました。
『私は悲しんで生きるより笑いながら死んでしまいたいんだ』
今まさに、笑いながら死ねるときが来ました。もはや悩むことはありません。
このまま、楽に――
「それでいいのですか?」
吉備太郎が頷こうとしたとき、嗜めてきたのは文殊でした。
「文殊、お前――」
「あなた、お許しください。吉備太郎を死地へ送ることを。それでも吉備太郎には後悔してほしくないのです」
文殊は吉備太郎に言いました。
「このまま、鬼を滅ぼさなくて良いのですか? あなたの大切な想い人や仲間を見捨ててよいのですか?」
吉備太郎の脳裏に真っ先に浮かんだのは、竹姫でした。愛おしい彼女の笑顔や泣き顔、怒り顔、そしてまた笑顔が思い出されたのです。
それからこれまで戦ってくれた蒼牙、朱猴、翠羽の三人が浮かびます。
一心に慕ってくれる蒼牙。
思って叱ってくれる朱猴。
何でも教えてくれる翠羽。
頼りになる三人が傍に居ることで勇気が湧くのです。
そして都と関東の部将、従軍してくれた五万人の武者。
御上と内大臣、右大臣たち貴族。
ここまで来るまでに出会った平民。
優しくしてくれた人々。
それらのことを思い出した吉備太郎は――
「……駄目だ。このまま逝ってしまうのは、駄目だ。戻らなければ」
吉備太郎の言葉に頼光は溜息を吐いて、そして言いました。
「そう言い出すと思っていた。しかたねえな。吉備太郎、戦場に戻れ」
吉備太郎は「一緒に逝けなくてすみません」と頭を下げました。
「気にするな。戦場に子どもを送るのは親失格だけどよ。それでも男にはやるべきときはあるよな」
そして頼光は笑顔で言いました。
「立派に武者らしくなったな。お前は俺たちの恥じることのない、自慢の息子だよ」
吉備太郎は泣きそうになりましたが、ぐっと堪えて、立ち上がって家の出口に向かいます。
「私も父上と母上を誇りに思います。一緒に逝くことのできない、鬼殺しの私を、愛してくれて、ありがとうございます」
文殊は言いました。
「あなたの思う道を歩みなさい」
頼光は言いました。
「俺たちはお前を見守っているぜ」
吉備太郎は頷いて、出口を開けました。
「行ってきます! 父上! 母上!」
光に包まれて、吉備太郎は現世へと向かいました。
戦場では吉備太郎が討たれてしまったことで人間は絶望していました。
「放せエテ公! 拙者は吉備太郎殿の仇を討つ!」
「やめろ犬っころ! てめえじゃあ勝てねえ! 吉備の旦那でさえ、勝てなかったんだぞ!」
蒼牙を背後から押さえつけている朱猴。彼は思いました。もう勝ち目はないと。
閃光弾を上げて退却を進めるべきか、それとも攻撃を続けるべきか。
判断のつかない選択を迫られていました。
「犬っころ、吉備の旦那の死体を守れ!」
朱猴は吉備太郎の死体に群がろうとする鬼に反応して鎖鎌で応戦します。
蒼牙は泣きながらも槍を振るって鬼を撃退します。
「くそ! 犬っころ――蒼牙!」
朱猴は蒼牙の名をきちんと呼びました。
蒼牙は驚きながらも何か嫌な予感がしました。
「吉備の旦那の死体持って逃げろ。退路は俺様が作るからよ!」
蒼牙は信じられませんでした。
「拙者のために、お前が死のうとするのか、朱猴!」
「ああ、そうだよ! せめて竹姫に吉備の旦那の死体は届けねえとなあ!」
蒼牙は朱猴の言葉を――
「駄目だ! 朱猴、お前が行くんだ!」
蒼牙は朱猴と背中合わせになりながら言いました。
「馬鹿! 意地を張ってる場合じゃ――」
「拙者は脚が速くない。追いつかれるのが関の山だ。だから頼む。吉備太郎殿を!」
「……お前、死ぬつもりなのか?」
蒼牙は「拙者は温羅に一戦挑む」と本陣を出ている鬼の総大将を睨みます。
「ここで逃げたら、拙者は後悔する。後悔して生き延びるよりもここで死んだほうが――」
「馬鹿なこと言ってるんじゃねえ! 自棄になったら勝てるもんも勝てねえだろうが!」
朱猴はどうするべきか悩みました。
吉備太郎の死体を捨てて二人で逃げれば生き残ることはできるでしょう。
しかしそれだけはできませんでした。
吉備太郎を死体とはいえ、見捨てることなどできません。仲間として築いてきた絆がそれを拒むのです。
「俺も焼きが回ったな。こんなところで死ぬなんてよ」
朱猴が覚悟を決めて、死ぬ気で戦い抜こうとしたとき。
吉備太郎の死体が、光り輝いたのです。
あまりの眩しさに昼間だというのに、蒼牙も朱猴も鬼たちも目を閉じてしまいました。
その発光はまるで、竹姫が起こった月の民特有の能力と同じでした。
その光は人間の本陣にも届いていました。
「竹姫さん。あれは――」
翠羽が竹姫に問うと、彼女は「もしかして、吉備太郎が……?」と呟きました。
「吉備太郎さんが? まさか、月の民の力ですか?」
「多分そうよ。そういえば聞いたことがあるわ。月の民は『覚醒』する――」
「なんだこの光は? 何がどうなっている?」
温羅も驚いています。長い間生きていても経験したことのない光でした。
その光の最中、蒼牙と朱猴は確かに聞きました。
「ごめん。負けてしまった。でも――次は負けない」
光が次第に消えて、その中心に居るのは。
人間にしては大きい背丈。
長い髪を後ろで一つに縛っています。
鍛えられた身体に真っ直ぐな目。
名刀、神薙を携えて。
鬼退治に挑む彼の名は――
「吉備太郎……! 貴様、生きていたのか!」
そう。温羅の憎しみを一身に受ける鬼退治の若武者の名は――吉備太郎。
「…………」
無言のまま、吉備太郎は温羅を見ました。
そしてゆっくりと鬼の本陣に歩みを進めます。
死の淵から甦り『覚醒』した吉備太郎。
再び、温羅に挑みます。
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