第102話前鬼と後鬼。そして――

「全軍! ひたすらに、ただひたすらに、前へ進め!」


 吉備太郎の命令に七千人の武者は従います。

 たとえ親兄弟や戦友を見捨てても。

 たとえ鬼に自身を傷つけられても。

 前へと進み続けます。

 その鬼気迫る様子を見て、鬼たちは呆然とします。


「な、なんだこいつら。死が怖くねえのか!?」


 鬼たちがそう思うのも無理はありません。彼らの行動はそれほどまでに常軌を逸していたからです。

 しかしある意味、正当な行動とも言えるのです。

 彼らは死ぬために戦っています。正確に言えば自分たち以外の人間が生き残るために戦っているのです。

 それは自分の先祖だったり、連れ添いだったり、子孫だったりします。

 名も知らぬ先祖のため、慣れ親しんだ連れ添いのため、顔も分からない子孫のため、それらの愛おしい者のため戦うのです。


 死を決意した決死隊。

 死兵と変わった武者。

 彼らを止める術は殺すことしかありません。


「右翼と左翼の援軍はまだなのか!」

「この人間共を止めろ!」


 鬼の弱点は将が圧倒的に少ないことです。今や幹部は残り僅かです。はっきり言って鬼の総大将を入れて、三体しか残っていませんでした。

 しかも鬼の総大将以外は指揮能力を持ち合わせていませんでした。

 鬼たちが混乱するのも仕方のないことなのです。


 一方、吉備太郎の陣営には多くの将が居ました。

 吉備太郎は紛れもなく総大将です。しかし彼の他に全軍を指揮できる翠羽という稀代の軍師が居たのです。

 吉備太郎と翠羽。どちらが欠けても軍勢は機能しなかったでしょう。

 吉備太郎が居ることで翠羽は策を実行できます。

 翠羽が居ることで吉備太郎は前線で戦うことができます。

 主従を越えた信頼こそ彼らの力かもしれません。


 戦場が赤く染まり始めました。

 人と鬼の血が平原を朱に彩ります。


「くそ……脚をやられた! すまねえ!」

「仇は獲ってやった! お前はここで死ね!」

「ああ、来世で会おうぜ……」


 そうやって自害する武者もたくさん居ました。大怪我や致命傷を負って助かるような戦場ではなかったのです。

 吉備太郎は命じていませんが、決死隊の面々は本能的に分かっていました。

 もしも自分が助けを求めたら、あの若い総大将は躊躇なく脚を止めてしまうだろう。だから死ななければならないと。

 まさに狂気が支配する平原でした。地獄の刑罰である『血の池』という名が後世に名付けられたのは無理もありません。




「蒼牙、朱猴、生きているか!」


 戦いが始まって、半刻後。

 吉備太郎が眼前の鬼を斬り殺しながら問います。


「拙者は無事ですが、馬はやられました!」

「俺様は平気――吉備の旦那、あそこを見ろ!」


 朱猴が指差す場所は小高い丘で、二体のひと際大きな鬼が居ました。

 そして、その鬼の後ろには紫で覆われた大きな幕がありました。


「あそこに鬼の総大将が居るんじゃねえのか! 距離はそんなに遠くねえ!」

「あそこだっ! 全軍、あそこの幕――」


 吉備太郎が振り返ると七千人居た決死隊が僅か八百人にまで減っていました。

 吉備太郎は衝撃のあまり思考が停止しかけましたが、気を強く持って八百人に命じました。


「全軍、紫の鬼の本陣に向けて――突撃!」


 ここまで残ったのは強き者だけ。そしてそう遠くないところに鬼の総大将が居る。

 八百人の武者は轟くような咆哮を上げ、鬼の本陣に向けて駆け出します。

 吉備太郎は鬼を斬り殺します。この戦いで二十体の鬼を斬殺した彼はまさに鬼退治の若武者の名に相応しかったのです。


 しかし、それを阻む者がいました。

 目の前に迫った本陣。

 それを守るように並び立つ二体の鬼。


「ここから先は通さん!」


 赤い大きな鬼が言いました。


「人間のくせに、よく頑張ったと褒めてあげるよ」


 青い大きな鬼が言いました。


「そこをどけ。鬼の総大将がそこに居るんだろう」


 吉備太郎は威圧しましたが、二体の鬼は平気で受け流しました。

 赤い鬼は鋭く大きな斧を持っています。

 青い鬼は鎖のついた鉄球を携えています。


「お前たちは幹部の鬼か?」

「いかにも。俺は前鬼だ」

「あたしは後鬼だよ」


 吉備太郎は後鬼が女だと気づきました。


「どかないなら死ぬしかないぞ!」

「はっ。なめんなよガキ。あたしらに勝てると思ってるのかい?」

「後鬼、侮るな。酒呑や茨木を殺した武者だ。二人がかりで行くぞ」

「あいよ。分かっているよ前鬼」


 それぞれの武器を構えて、戦いが始まろうとしたときでした。


「――待て。わしが相手をする」


 鬼の本陣から声がしました。

 まるで地獄の底から轟くような声。

 人間に絶望を与えるために備わった声。

 その声の主は――


「待ちなよ。大親分。あんたが出張る必要はないよ」


 後鬼の言葉に鬼の総大将は「この人間は、わしが殺す」と聞きませんでした。


「この人間からは懐かしい匂いがする。あの憎い桃太郎の匂いが。お前は桃太郎の子孫なのか?」


 その問いに吉備太郎は「そうだ」と答えました。


「私の先祖は桃太郎だ」

「そうか。やはりそうなんだな。わしの全てを奪おうとする者は、やはり桃太郎の血を受け継ぐ者だったのだな」


 鬼の本陣から怒りと憎しみが発せられました。あまりの迫力に駆けつけた蒼牙と朱猴も思わず足を止めます。

 周りの鬼や人も戦いをやめて本陣に注目しています。

 幹部である前鬼や後鬼も何も言えなくなりました。

 ただ唯一、その怒りと憎しみに飲み込まれなかったのは吉備太郎だけでした。


「この者はわしが殺さなければならぬ。そうでなければ浮かばれぬ。父上や母上、そして仲間たち。酒呑や茨木も。だから殺さなければならぬのだ」

「……私からも問いたい」


 吉備太郎は鬼の総大将に訊ねました。


「伊予之二名島を滅ぼしたのは貴様だな」

「そうだ。わしが滅ぼした」

「その際、一人の武者を殺したのか」


 疑問を投げかけるのではなく、確信したような声でした。


「武者だと? ……ああ、一騎打ちを挑んできた人間が居たな」


 鬼の総大将が語ります。


「小さな村だったな。仲間が数体やられた。おそろしく強い武者だった。おそらくわしでなければ殺せなかっただろう」

「……その武者は黒塗りの鞘、鋭い刀を持っていなかったか?」


 鬼の総大将はしばし考えてから答えました。


「確かに携えていたな。敵ながら見事な腕だった……それがどうかしたのか?」


 吉備太郎はようやく辿り着きました。

 全ての元凶であり、父と母を殺した仇。

 その鬼がすぐ近くに居るのです。


「その武者の名は源頼光。私の養父だ」

「……つまり、わしはお前の仇ということになるな」


 吉備太郎は神薙を構えて言いました。


「そうだ。そのとおりだ。貴様のせいで、私の村は滅んだのだ!」


 吉備太郎から発せられる怒気。それを受けて鬼の総大将は「なるほど。お前にはわしを殺す道理があるわけだ」と言いました。


「正義や使命ではなく、復讐と憎悪をもって戦うのだな。くだらん戦いではなくなりそうだ。いいだろう、わしが全力をもって殺すべき存在だと認めてやろう!」


 鬼の総大将の言葉に吉備太郎は応じます。


「ああ。このためだけに生きてきた。この戦いのために戦ってきた。全ては貴様を倒すため……さあ出て来い、鬼の総大将!」


 いよいよ大将同士の決闘が始まります。

 誰もが息を飲み、誰もが呼吸を忘れる決闘。

 後々の世まで語られることとなる最後の決闘。

 紫の幕が上がります。

 吉備太郎の眼前に現れる鬼の総大将。

 今まさに――正体が明かされます。


「名乗れ小僧。貴様を殺してやる」

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