第60話翠羽
翠羽は気がつくと、布団の上で寝かされていました。
「ここは……僕の家か……」
優秀な頭脳を持つ彼女は状況を既に把握していました。自分が文田の言葉で気絶したことやもう妹の陽菜が生きていないことも理解していまいました。
それくらい、悲しいほど優秀な頭脳の持ち主でした。
部屋には誰も居ませんでした。抜け出すことは容易だと感じました。
抜け出すというよりも、逃げ出すと言ったほうが正確かもしれません。
領主を倒したことによって、新しい領主を選ばないといけません。おそらく翠羽自身が領主となるのでしょうが、それすら面倒に思えてきたのです。
陽菜の居ない世界に未練はありませんでした。だから――翠羽は死のうと決意しました。
「家で死ぬと汚れてしまう……別のところで死にたいな」
そう思って、扉を開けようとしたときでした。向こう側から誰かがやってくる気配を感じました。
「とりあえず、寝ておこう。空元気でも振舞って、そして機会があれば死ねるかもしれない。どうせ死ぬんだから、早かろうが遅かろうがどうでもいいや」
自暴自棄になった思考でした。死を望む者特有の消極的な覚悟でした。
「翠羽、起きてる? 入るわよ」
そう言って開かれた先に居たのは、竹姫と吉備太郎でした。
「あ、起きてたのね。状況が分かるかしら」
竹姫は翠羽へと近づきました。吉備太郎も同様に枕元へ近づきました。
「どうやら、僕は倒れてしまったみたいですね」
翠羽はどうやって悟られずに死ぬか考えていました。不自然にならないように適度に悲しまなければなりません。
「翠羽。あなたは死のうと思っているでしょう」
そんな思惑を見透かすように、竹姫は指摘しました。
「…………」
翠羽は肯定も否定もしませんでした。
「はあ。あなたはそこで『何を言っているのか分からない』と答えれば見逃したのに。沈黙は肯定の証だって知らないの?」
翠羽は悲しげに言いました。
「一年間の苦労が水の泡です。陽菜に会うために、頑張ってきたのに……」
竹姫は「その陽菜って子のことだけど」と言いたくないことを口にしました。
「墓はあったわ。文田が地下牢で殺してしまった人たちと一緒のお墓。多分、そこに埋葬されているわ」
翠羽自身、それを聞いて泣くだろうと思っていました。しかし、それでも泣けませんでした。
「一つ質問してもいいかな?」
吉備太郎が切り出しました。
「文田をどうするつもりだ?」
翠羽の目に怒りが宿りました。烈火のごとく燃え盛り、決して消えることのない憎しみが翠羽の全身を襲いました。
「もちろん、殺します。殺さないといけない。僕の陽菜だけじゃない、他のみんなのためにも殺さないといけないんだ」
ぶつぶつと呟き続ける翠羽に竹姫は「それだと妹が悲しむわよ」と言いました。
「妹が悲しむ……? どういう意味ですか?」
「ここに居る吉備太郎は復讐のために鬼退治しているのよ。自分の村を滅ぼした鬼への復讐のために」
吉備太郎を親指で示しながら竹姫は続けて言いました。
「吉備太郎ぐらい覚悟が決まっているのなら、止めないけど、あなたはどう見ても半端なのよ。人一人殺せないわ」
「……何を言っているのか、意味が分かりません」
竹姫は溜息を吐いてから、言いました。
「この世に居ない者のために何かをする。それは立派なことだわ。でもね、復讐なんて間違っているのよ。ましてや人殺しなんて最悪よ。やめたほうがいいわ」
「……もっと分かりやすく言ってください」
竹姫は翠羽の手を握りました。
「いい? 自分のために人殺しになってしまうなんて悲しいことはないわ。それも死人となってしまったら償えない。いや、生きていても償えないわよ」
翠羽は竹姫の言葉をぼんやりと聞いていました。
「想像してみて。陽菜が翠羽のために人を殺したとする。それであなたは嬉しいの? いいえ、悲しいに決まっているわ。そして、どうやって償えばいいのか、考えられる?」
翠羽は握られた手を握り返しました。
「吉備太郎はそれを分かった上で鬼退治をしているの。覚悟はもう決まっているのよ。でもあなたは違う。まだ踏みとどまれるし、まだ間に合うのよ。それだけは忘れないで。だから殺すことも死ぬことも諦めなさい」
翠羽の目からぽろぽろと涙が零れました。
「それじゃあ、僕はどうすればいいんですか? 文田を殺さないで、陽菜の無念をどう晴らせばいいのですか?」
竹姫は翠羽に抱きつきました。
「考えなさい。あなたは優秀なんだから。どうすればいいのか、自分でも分かっているでしょう?」
竹姫は優しく背中をさすってあげました。
翠羽が落ち着くまで、ずっと傍に居てあげました。
吉備太郎は竹姫の言葉を受け止めました。しかし自分の考えを変えることはしませんでした。
きっと父上も母上も望んではいないだろうけど。
私のためにやるしかないんだ。
そう考えていたのです。
そして――三日後。
翠羽は新たな領主を立てました。
「まさか名人を剥奪させられて領主になるなんて、驚きだよ」
選ばれたのは高梨でした。
高梨は優秀な人間、というより彼より賢い人間は翠羽以外居ませんので、このような結果となりました。
「まあ選ばれたからには全力を尽くすよ。まずはみんなに食べ物と職を与えないとね」
本人は乗り気のようですので、甲斐のこれからは安心して居られるでしょう。
それから、文田は甲斐から追放されました。僅かな路銀を持たされて、東国へと逃げるように去っていきました。
しかし数日後、何者かの手によって、文田は殺されてしまいます。それには翠羽は関わっていないことを明記しておきます。
そして吉備太郎たちは甲斐の施政が良くなったことを確認すると、いよいよ相模へと旅立つことになりました。
甲斐から相模へ向かう道中のことです。
「いやあ。やっと相模ですね。長いようで短い旅でしたね」
蒼牙はにんまりと笑いながら、貰った団子を食べています。
「犬っころはのん気なもんだな」
「なんだとエテ公!」
「これからいよいよ鬼退治の本番なんだぜ? よくもまあ単純で居られるよな」
呆れる朱猴でしたが、彼自身、浮かれる気分になっていました。旅の終わりは誰しも浮かれるものです。
「竹姫、何をそんなに見ているんだ?」
吉備太郎は竹姫に声をかけました。
竹姫は何度も後ろを振り返っていたからです。
まるで誰かを待っているかのように――
「僕を待っているみたいですね」
いつの間にか、吉備太郎たちの前に現れたのは翠羽でした。
「お! 軍略家のおねえちゃんじゃねえか」
朱猴はにやりと笑います。
「朱猴さん、あなたの報酬を甲斐の人々に与えたみたいですね。ありがとうございます」
「よく考えたらあんな大金持っていけないからな。もったいないけど、あれが一番だ」
そして翠羽は吉備太郎に言いました。
「僕も鬼退治に連れてってください。良き作戦を考えます。役に立ちます。お願いします」
翠羽の真っ直ぐな言葉に吉備太郎は言いました。
「ツラい旅になるけど、大丈夫か?」
翠羽はにっこりと頷きました。
「覚悟はできてます」
こうして稀代の鬼退治の若武者に当代随一の軍師と呼ばれるようになる翠羽が仲間になりました。
速剣遣いの吉備太郎。
槍術遣いの蒼牙。
遁術遣いの朱猴。
軍略遣いの翠羽。
この四人が仲間になったことで、日の本の未来に光明が差すことを予感したものは誰も居ませんでした。
いえ、一人だけ居ました。
目の前に居る四人を見ている竹姫でした。
そして五人は相模へと向かいました。
そこで東国武者に困っている貴族を真っ先に助けることになるとは、誰も想像できていませんでした。
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