第56話将軍儀
橋の上から吉備太郎たちは移動して、翠羽の家にやってきました。てっきり身分の高い女性だと思っていましたが、他の家と変わらない質素な家でした。
白湯を出されて一息つくと、竹姫が口を開きました。
「まあ事情を話してからも遅くないわよ。人間、いつだって死ねるんだから」
翠羽は悲しそうな顔になりましたが、意を決して話すことにしたみたいです。
「明日、僕はこの村を代表して戦うことになっているのです」
怪訝な表情になったのは吉備太郎でした。
「失礼だが、戦えるような身体ではない気がするが」
全体的に細身の翠羽です。刀や槍どころか、弓さえ引けないほどの華奢でありました。
「戦うと言っても、武術ではありません。『将軍儀』と呼ばれる室内遊戯です」
翠羽はそう言うと家の奥から板のようなものと駒入れを持ってきました。
「これが将軍儀の盤です。縦十三マス、横十三マス、計一六九マスの盤上で駒を動かします」
竹姫は「将棋のようなものね」と関心を向けました。
「この甲斐で創られた遊戯です。甲斐の人間なら誰でも打てますよ」
朱猴は「そう言えば親父も好きだったな」と懐かしそうに眺めています。
「ううむ。拙者には難しく思えますね」
蒼牙は正直に言いました。
「私は将棋も知らないから、一から教えてくれないか?」
吉備太郎が頼むと翠羽は少しだけ笑って「じゃあ説明しますね」と語ります。
「駒は十種二八枚がそれぞれの持ち駒になります。つまり五六枚が盤上にあります」
「なるほどね。将棋よりも駒は多いし、盤も大きいのね」
翠羽は盤上に駒を並べ出します。
「左から右に数字を振っていくと真ん中の七に、『将軍』を置きます。これは将棋の玉みたいなもので、取られたら負けです」
一つだけ赤い字で将軍とかかれている駒がありました。
「それで『将軍』の隣から『近衛』『軍師』『槍兵』『弓矢』『騎馬』『城』と二つずつあります。これらは『中駒』と言って二つずつあります」
黒字で書かれた十二個の駒をバチバチと並べる翠羽。吉備太郎は面白そうに見ています。
「そして弓矢の前に置かれるのは『大駒』の『武者』と『戦姫』です。右が武者で左が戦姫です。そしてそれらの大駒の前に十三個並ぶのが、『小駒』の『雑兵』ですね」
こうして見ると将棋と何ら変わりがないように思えます。
「将棋と大きく違う点は三つあります」
翠羽はおどおどしていた雰囲気が無くなり、いつしか説明に夢中になっていました。
「まず、二歩のように雑兵が上下重なっても問題ありません。まあ二歩というものがないと言えば分かりやすいですかね」
吉備太郎と蒼牙は二歩のことが分かりませんので、それがどれだけ画期的なのか、知る余地もありませんでした。
「次に成り駒はありません。全ての駒は下がれるので、そこは問題ないと思います」
竹姫と朱猴はある程度理解できていました。
「そして最後ですけど、持ち駒を打つときには駒を取り除くことが必要になります」
竹姫は「取り除く? 除外しないと打てないということかしら?」と訊ね返します。
「そうですね。小駒の場合は小駒一つ。中駒の場合は小駒二つもしくは中駒一つ。大駒の場合は小駒三つもしくは小駒一つと中駒二つもしくは大駒一つとなります」
そう言って、盤上に駒を並べる翠羽。
「この局面の場合、戦姫を使えば勝てますが、持ち駒に雑兵二つ、戦姫一つしかない場合は打てません」
「じゃあ中駒二つで大駒を打てたりしないの?」
翠羽は首を振りました。
「それはできませんね。必ずその価値に合わせた駒を取り除かなければいけないのです」
竹姫は「なんだか面白そうね」と興味を持ちました。
「それで、あんたはどうして将軍儀で戦う前に死を選んだんだ? 単なる遊戯だろう?」
朱猴が核心に入る質問をしました。
「それが、僕と戦う相手が名人なんです。それもタチの悪い名人です」
「タチの悪い名人? なんだそりゃ?」
要領の得ない答えに朱猴は首を傾げました。
「甲斐では将軍儀の勝者は優遇されるのです。敗者は何も言えなくなるのです」
どうやら翠羽は将軍儀以外の事柄はあまり上手く説明できないみたいです。
「えーと、つまりのタチの悪い名人が翠羽に何かしらの要求をしてくるってことなの?」
竹姫が噛み砕いて皆に分かりやすいように言うと、翠羽はこくりと頷きました。
「その要求を聞いてもよろしいですか?」
蒼牙が訊ねると翠羽は顔を赤くして言いました。
「か、身体を、要求してきました……!」
それを聞いた皆はとんでもない内容に驚くしかありませんでした。
「竹姫、なんとかならないのか?」
吉備太郎が困惑しながらも解決策を訊ねます。
竹姫は「まあ勝つしかないんじゃないの?」としか言えませんでした。
「それが、勝っても駄目なんです」
翠羽はとても悲しげに言いました。
「名人――高梨名人は兵隊を持っていて、負けた腹いせに村を潰すこともあるのです」
つまり勝っても負けても被害を被るのです。だから翠羽は死のうとしていたのです。
蒼牙は「なんて卑怯なやつだ!」と憤慨しました。
「正々堂々と戦えないのなら、戦う資格なんてないぞ!」
「犬っころの意見に半分賛成だな。卑怯な手を使うのは構わないが、それはあくまでも戦いの中でだ。それ以外の場外試合は卑怯というより禁じるべきだ」
朱猴のスジの通っているのか通らないのか分からない言葉はともかく、一同は翠羽の置かれた状況をどうにかしたいと思いました。
「ねえ。普通に戦えば勝てるの?」
竹姫の質問に翠羽は「か、勝てると思います」とつっかえながらも答えます。
「確実に勝てるのなら、協力してあげる」
竹姫の言葉に翠羽だけではなく、吉備太郎たちも驚きました。
面倒な争いを厭う竹姫らしくない発言だったからです。
「どうしたんだ? 竹姫らしくないな」
吉備太郎が怪訝な思いで訊ねると竹姫は当然のように言いました。
「身体を要求されてる女の子を見殺しにするのがあたしらしいって言うわけ?」
「……いいや。らしくないな」
「でしょ? あなたたちにも協力してもらうわよ」
男三人は頷きました。
「だけど、もしも負けたら承知しないわよ。甲斐では敗者に発言権がないんでしょう? あなたができるのは勝つことだけなの」
「も、もちろん、分かっています!」
翠羽はおどおどしながらも応じました。
「それで、どの程度の実力があるのか、確認したいんだけど」
竹姫は将軍儀の駒を並べ始めます。
「えっと駒の動かし方、分かります?」
「教えてちょうだい。将棋と変わらないんでしょう?」
「まあそうですけど、それなら将棋にしますか?」
翠羽は立ち上がり、また奥のほうから将棋版と駒入れを持ってきました。
「将棋でもいいわよ」
「じゃあ次やるぜ。あ、俺様将軍儀でいいぜ。やり方分かるし」
翠羽はにっこり笑って「それなら一緒にやりましょう!」と将軍儀のほうも駒を並べ始めます。
「もしかして、同時にやるつもり? そんなことできるわけ?」
竹姫が驚いた声を上げましたが、驚くのは次の翠羽の発言でした。
「えっと、将棋のほうは四枚落ち、将軍儀のほうは六枚落ちで良いですか?」
まさかの手合割でした。
竹姫も朱猴も賢い人間です。そして矜持の大きい人間です。当然、手合割など認めず、平手で打ったのですが――
「王手です。あ、両方です」
電光石火と称すべき速さで王手をかけられてしまいました。
「もう一回よ! こんなの認めないわ!」
子供のように、いや実際子どもなのですが、竹姫は吉備太郎に止められるまで何度も対戦したのですが、結局は勝つことは叶いませんでした。
吉備太郎は驚きました。竹姫よりも賢い女性を見たことが無かったからです。
そして翌日。
五人は歩いて甲斐を治める領主のもとへ向かいます。
吉備太郎たちは翠羽を無事に守れるのでしょうか?
それは将軍儀のように俯瞰できない身としては分からない事柄なのでした。
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