第2話吉備太郎の決心
武者が誕生する五年前――
「吉備太郎(きびたろう)、起きなさい。朝ですよ」
母親の声で眠りから覚めた吉備太郎は、伸びをしながら「おはようございます母上」と布団から起き上がりました。
「今日も父と一緒に剣術の稽古をしなさい」
誰の目から見ても美しい女性である母親は吉備太郎に優しく微笑みかけて、それから着替えを差し出しました。
「ありがとうございます。母上」
吉備太郎は着替えを済ませて、父親の居る裏山へと向かいました。
朝ご飯は食べません。何故なら稽古の後に食べるご飯がとても美味しいからです。
「おお、吉備太郎。今日の身体の調子はどうだ? 具合は悪くないか?」
誰の目から見ても逞しい男性である父親は快活に吉備太郎に笑いかけました。
「はい。平常ですよ父上」
「そうか。ならば稽古をするぞ。まずは木刀を持て。素振りを百回行なう」
吉備太郎は素振りを始めます。彼はこのとき十才でした。
当時の彼の剣術の腕前は村の人間が十人相手でも勝てるほどでした。
しかし父親からは未だに一本取れません。
「腕が千切れるほど振るんだ! 真剣はもっと重いんだ!」
「はい父上!」
吉備太郎は毎朝と毎晩、必ず稽古をしていました。
それは物心つく前からの習慣でした。
父親は厳しい人でしたが稽古の後は「よく頑張ったな」と褒めてくれたのです。
それが意欲となり、続けていけたのです。
「今日も頑張りましたね。朝ご飯ですよ」
村に戻ると朝ご飯が用意されていました。
ガツガツ食べる吉備太郎を父親も母親もニコニコしながら見守っていました。
昼間は畑仕事を手伝い、日が暮れたら稽古をしてご飯を食べて風呂に入って寝る。
そんな生活を吉備太郎は過ごしていました。
「おーい、吉備太郎。遊ぼうよ」
畑仕事が一段落すると村の子どもたちが吉備太郎を遊びに誘います。
「うん。わかった。行こう」
吉備太郎を除いて、村の子どもは七人居ました。
八人はいつも一緒ということはありませんが、仲が良く楽しそうに遊んでいました。
吉備太郎は幸せでした。こんな毎日が続けばいいなあと思っていました。
しかし吉備太郎が十才になった頃、村の大人たちが険しい顔をするようになりました。
「向こうの村で鬼が現れたらしい」
「村人が全員、喰われたらしい」
剣術の稽古ばかりしている吉備太郎でしたが、なんとなく村人が不安がっていることが分かりました。
「怖いね。鬼がこの村に来たらどうしよう」
大人の不安は子どもたちにも伝わります。
「大丈夫だよ。僕たちには吉備太郎が居るんだから!」
「そうだよ! 吉備太郎は村一番強いんだ!」
「鬼なんかに負けないよ!」
口々に子どもたちは言いました。
吉備太郎はニコニコ笑っていました。本当は鬼がおそろしいものだと分かっていましたが、みんなを不安にさせたくありませんでした。
「なあ吉備太郎。どうして君はいつも父と剣術の稽古をしているんだ?」
一番年上の子どもが訊ねました。
吉備太郎は不思議に思いました。そういえば他の子どもは剣術の稽古をしていません。
「分からないよ。気がついたら稽古してた」
「吉備太郎は武者になりたいのかい?」
続けて年長の子どもが訊ねると吉備太郎は笑って言いました。
「武者になりたくないよ。みんなと仲良く暮らせたらいいな」
吉備太郎には闘争心がありませんでした。
自分の力を認めさせたいと思う野心も。
自分の力を誇りたいと思う虚栄心もありませんでした。
みんなと仲良く暮らしたい。
それだけが吉備太郎の願いであり、望みでした。
要するに吉備太郎は優しい子どもだったのです。
子どもたちと別れて、家へと帰った吉備太郎はいつもの稽古を終えた後、一緒に晩ご飯を食べている父親に訊きました。
「父上、どうして私は剣術の稽古をしているのですか?」
父親と母親は、吉備太郎の言葉に悲しそうな顔をしました。
それは「とうとう訊かれてしまったか」という顔でした。
「吉備太郎、剣術の稽古が嫌になったのか?」
父親が訊ねると吉備太郎は両親の反応に戸惑いましたが正直に言いました。
「いえ、嫌いになったわけではありません。少し不思議に思ったのです」
友達に訊ねられてとは言いませんでした。
「そうか。とうとうこのときが来てしまったか……」
父親は悲しくて仕方がない顔をして。
母親は今にも泣きそうでした。
「吉備太郎。お前に話したいことがある」
父親は吉備太郎に顔をじっと見ました。
吉備太郎は何かしてはいけないことをしてしまった気分になりました。
「吉備太郎、実は――」
そのときでした。
「鬼が来たぞ! 早く逃げろ!」
村中に響く大声で村人の誰かが叫びました。
「な、なんだと!? ここが見つかってしまったか!?」
父親は血相変えて立ち上がりました。
「吉備太郎! 裏山へ逃げろ! 母さん、吉備太郎と一緒に居なさい!」
父親は自分の刀を取って、外に飛び出そうとしました。その刀は御上からいただいたという父親の自慢の逸品でした。
「あなた! 逃げましょう! 鬼に私たちじゃあ敵わないわ!」
「そんなことはできない。俺はこの村を守らないといけないんだ!」
「そんな! でも――」
「行け! 裏山へ逃げるんだ!」
母親は泣きながら吉備太郎と共に裏山へ逃げようとしました。
「父上! 私も闘う!」
吉備太郎が言うと父親は「馬鹿野郎!」と怒鳴りました。
「お前なんかじゃ敵うわけないだろう! 逃げろ!」
吉備太郎はなおも言いかけましたが父親は優しく諭しました。
「吉備太郎、大丈夫だ。必ず鬼を倒してやる。俺が負けるものか」
吉備太郎はその言葉を信じました。信じようと努力しました。
「吉備太郎、これだけは言っておく!」
父親は最後に言いました。
「お前は俺の自慢の息子だ。それだけは忘れないでくれ!」
それが父親との最期の会話になりました。
母親と吉備太郎は裏山へ逃げました。
裏山には隠れられる洞穴がありました。
小さい洞穴でしたが、大人と子どもがなんとか隠れられました。
二人は息を潜めて隠れていました。
しばらく経った頃でした。
近くの木々が揺れて、地獄の底から響くおそろしい声がしました。
「おい! 人間の臭いがするぞ」
「生き残りかもしれん。探せ」
鬼たちが会話をしていました。
母親は吉備太郎をしっかり抱きしめました。
吉備太郎は母親に抱かれながら必死に息を殺しました。
鬼がだんだんと近づいてきます。
「……吉備太郎。あなたに最期に言います」
母親は覚悟を決めました。
「私と父は、あなたを愛しています」
そう言うと洞穴から飛び出しました。
「母上――」
「鬼よ! 私はここに居ます!」
洞穴からなるべく離れようと駆け出します。
「女だ! 女が居たぞ!」
「殺して喰らうぞ!」
鬼たちは母親を追いました。
あまりのことに吉備太郎は何も言えませんでした。
動くことも闘うこともできませんでした。
そのまま吉備太郎は気絶してしまいました。
母親の悲鳴は、幸いにも聞こえませんでした。
翌朝、吉備太郎は洞穴で目を覚ましました。
「父上はどうなった? 母上はどうなった? 村は、みんなはどうなったんだ?」
吉備太郎はそのまま、ふらふらと洞穴から出て行きました。
裏山を下りて、村の入り口に辿り着いた吉備太郎が見たのは――
地獄でした。
辺りは血まみれで、そこら中に死体が無造作に置かれていました。
どの死体も喰われていました。
吉備太郎は友達の名前を呼びました。
誰も返事をしません。
吉備太郎は大人の名前を呼びました。
誰も返事をしません。
吉備太郎は父親の名前を呼ぼうとしました。
だけど、言えませんでした。
父親の名前を呼んで、返事がないことがおそろしかったのです。
まるで幽鬼のように死体の間を縫って歩きます。
村の中央まで来て、気づきました。
気づいてしまいました。
片腕だけが置かれていました。
「ああ――」
その腕が持っていたのは――
「ああああ――」
父親の自慢の刀でした。
「あああああああああああああ!!」
吉備太郎は思い返します。
『大丈夫だよ。僕たちには吉備太郎が居るんだから!』
誰も助けられませんでした。
『そうだよ! 吉備太郎は村一番強いんだ!』
強くなんかありませんでした。
『鬼なんかに負けないよ!』
勝つことはできませんでした。
こうして吉備太郎は独りぼっちになりました。
独りぼっちの村で吉備太郎は何日も泣きました。
声と涙が枯れても泣き続けました。
誰も居ない村では、それを咎める人間は居ませんでした。
誰も居ない村では、それを慰める人間も居ませんでした。
そして五年の月日が経ちました。
「父上、母上。無沙汰しています」
村の外れに作った墓前で十五歳になった吉備太郎は言いました。
「この地方で人間は誰も居ません。皆死んでしまいました。今はもう私独りです」
手を合わせて吉備太郎は言います。
「おそらく都も危ないでしょう。鬼たちは勢力を増しています」
吉備太郎は目を閉じました。
「父上、母上。あなた方が居なければ私は生きていませんでした」
そして目を開けました。
「私は、鬼を退治します」
吉備太郎は決心しました。
「鬼はおそろしい。私では退治どころか対峙でもできません。しかしやらねばなりません。何故だか分かりませんが、それが私の使命であるのかもしれません」
吉備太郎は言います。
「鬼を一匹残らず殺します。それまで村には帰りません」
そして立ち上がり振り返りました。
村人の数だけの墓標が、村の中にありました。
「村のみんな、絶対に敵を取ります」
吉備太郎の腰には父親の刀。
「そろそろ行きます。さようなら、みんな」
こうして吉備太郎の旅が始まりました。
鬼退治の武者が誕生して三日後。
吉備太郎は竹の中の姫と出会うことになるのでした。
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