『かつての婚約者の独白』

「セドリック様!」


 こちらの姿を見つけるなり、嬉しそうに手を振って、笑顔を向けてくれる彼女が好きだった。

 太陽の光を受けて輝く金色の髪と、まあるい碧眼の瞳。

 可愛くて、天使のような王女は、誰からも愛されていた。


「クリスティアン、走ると危ないよ」


 走り寄ってくるクリスティアンが危なっかしくて、思わずセドリックも足早に彼女に近づく。

 彼女の後ろからは、護衛騎士のフランツが心配そうについてきている。


「今回は、どれくらいこちらにいられるのですか?」

「一週間くらい滞在する予定だよ」

「そうなのですね!」


 友好国同士であるヘンヴェール王国とブロッキア王国は、定期的に交流の場を持っていた。

 今回も、セドリックはヘンヴェール王国の外交官についてきた。

 それはもちろん、愛しの婚約者に会うために。


「会いたかったよ、クリスティアン」

「私も、会いたかったです」


 頬を赤く染めながら、クリスティアンも同じ気持ちだったと頷いてくれる。


(あぁ、今すぐに君のすべてを奪って、僕のものにしてしまいたいな……)


 けれど、今は周囲には多くの人の目がある。

 ヘンヴェール王国の第二王子としての体裁は保たなければ。

 それに、クリスティアンはセドリックのことを完璧な王子様だと思っているから、その夢を壊したくはない。

 結婚すればクリスティアンはセドリックだけのものだ。

 今、焦って台無しにすることはない。

 そう自分に言い聞かせ、セドリックは常に紳士的な距離を保っていた。


 ***


 いつか、彼女のすべては自分のものになると信じて疑わなかった。

 結婚するまでは――と自分に枷をつけて、口づけも、性的な触れ合いもなく、紳士的で、彼女の思う“完璧な王子様”を演じ続けてきた。

 彼女を怖がらせたくなかったから、おままごとのような恋に付き合って。


(違う……本当は)


 初心で素直な穢れのない純粋な彼女に、自分の黒い部分を知られたくなかった。

 他人に合わせて自分を偽り、自分の利益のために利用して、騙すなんて誰でもやっていることだ。

 少なくとも、セドリックの知る社交界とはそういうものだった。

 けれど、クリスティアンがみる世界はとてもきれいで、悪意なんて微塵もなくて、優しい世界だった。

 人を疑うことを知らない彼女はとても危うくて、同時にその美しさにとても惹きつけられた。

 だからこそ、彼女にはきれいな世界だけを見ていてほしいと願った。

 黒い感情に気づかれたくなくて、今のまま、純真無垢な彼女でいて欲しくて。

 それなのに、彼女は変わっていく。

 自分だけを見て欲しいのに、次期女王となる彼女がみているのは国であり、国民だった。

 クリスティアンの魅力に、多くの人間が気づいてしまう。

 抑えつけていた黒い自分を見せることもできずに、ただ彼女が離れていってしまうことを恐れた。


「……どうすれば、クリスティアンは僕だけを見てくれる?」


 自分だけを愛して欲しい。

 そんなごく普通の願いを叶えたかっただけだった。

 それなのに。


 ――セドリック様……っ!


 絶望の表情でこちらを見つめる碧眼に微笑んだのは。

 救い出して、二人だけの世界に連れて行くと決めていたから。


 ――しかし、実際に目の前にいるのは、冷たくなった愛する女性。


 クリスティアンの処刑が、セドリックのすべてを黒く塗りつぶした。

 きっと、彼女の命が散ったその瞬間に、セドリックの心も壊れてしまった。

 

「僕は、君だけを愛しているんだよ」


 ひんやりとした唇に、優しく触れる。

 冷たい口づけに、セドリックの体温も奪われる。

 唇だけではない。頬も、手も、彼女のすべてが冷たい。

 あんなに、あたたかかったのに。

 目頭が熱い。頬に涙がつたう。

 他人のために泣いたことなんて、一度もなかったのに。

 いつでも、クリスティアンだけが、セドリックの心を動かすことができる。


「大丈夫。君を独りにはしないから。ずっと、僕が側にいるよ」


 ――僕だけの、クリスティアン。


 もう二度と、愛する人に微笑みかけられることはなくても。

 彼女は存在する。そう思わせてくれるなら。

 そうして、自分の愚行で喪った命に見てみぬふりをして、まやかしを愛する日々が始まったのだ。

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