第45話 地下神殿の封印
聖レミーア大聖堂は、王族だけの祈りの場だ。神聖なこの場所で、王族は国のために祈りを捧げる。白壁に施された精緻な彫刻は、生命力を象徴する森を現しており、高い天井には太陽と月が描かれている。外の騒ぎなどなかったかのように静かな礼拝堂を抜け、ティアレシアはフランツと共に地下神殿へと続く階段を進む。
「……ティアレシア様、悪魔とはどういうことなのですか?」
ずっと聞くことを我慢していたフランツだが、薄暗い地下への階段の途中でティアレシアに問いをぶつけた。
「レミーア教の伝説は知っているわよね?」
「はい」
「聖書の中に『悪魔の章』があったでしょう?」
ティアレシアは気だるい体をフランツに預けながらも、説明のため口だけはしっかりと動かす。
「悪魔をレミーア神が封印し人間を守った、という伝説ですね」
「えぇ。聖書によると、レミーア神はもう二度と悪魔が力を持てないように悪魔の魔力を三つに分断し、それぞれを封印した。そのうちの一つが、この聖レミーア大聖堂に封印されていると言われているの」
「まさか、本当に悪魔が存在したのですか」
フランツが信じられないのも無理はないだろう。ティアレシアだって、自分がルディに出会っていなければ信じることはなかった。今のティアレシアにとって悪魔の存在は身近なものだが、まさか封印されていた悪魔がチャドだとは思わなかった。
「伝説の存在だったらよかったのだけれどね」
焦燥を含む声でそう言えば、フランツはそれ以上何も言わなかった。階段を降りると、太陽と月が向かい合うようにして描かれた扉が見えた。この扉が、地下神殿への入口だ。
ふらつきながらも扉に手をかけ、ティアレシアは勢いよく開いた。
「これは……」
広い空間に、黒い霧が漂っている。それは、シュリーロッドがチャドを呼んだ時の霧にとても良く似ていた。目を凝らしてよく見ると、その霧は地面に刻まれた何かから出て来ているようだった。
「ティアレシア様、あれは古代文字ですね。円形に何重にも文字が重なっている……何かの儀式か何かでしょうか」
フランツの言葉に、ティアレシアは頷いた。おそらく、今まで悪魔の力を封印していたレミーア神の力が具現化されたものだろう。人の目にも分かる形で、レミーア神は悪魔の封印方法を記していたに違いない。
「解読してみるわ」
「読めるんですか⁉ 古代文字はごく一部の人間しか読むことができないと……」
「なら、私はそのごく一部の人間よ」
クリスティアンは、父エレデルト直々に古代文字を教わっていた。国にとって重要な機密事項は古代文字で書かれていることが多い。そのため、王族には古代文字の知識が必要となる。それも、王位を継ぐにふさわしいものにだけその知識は受け継がれる。
(まさか、悪魔の封印のためだとは思わなかったけれど……)
悪魔について教えてくれてもよかったのに、と今さら言ってももう遅い。目の前には解けかけている封印があり、悪魔が復活しようとしている。黒い霧を極力吸わないようにしながら、ティアレシアはゆっくりと文字が読める距離まで進んで行く。古代文字は、部屋の中心から渦巻のように刻み込まれている。細かい文字と模様が混ざり合い、判別が難しい。なんとか中心に辿り着き、ティアレシアはその文字を解読する。
「封印、を……担う者よ、その、血によって」
そこまで口に出して呼んだ時、扉の方から声がした。
「クリスティアンっ!」
必死の形相でその名を叫んだのは、シュリーロッドだった。
赤いドレスは光沢を失い、土埃にまみれていた。もう、そこに女王の威厳はない。殺意を目に宿したシュリーロッドに、フランツが剣を抜いた。
「あなただけは、許さない!」
ティアレシアが制止する間もなく、フランツがシュリーロッドに向かって剣を振り上げた。しかし、その刃がシュリーロッドを傷つけようとした瞬間、部屋に漂っていた黒い霧がフランツを襲った。ついさっきまではただ黒いだけの霧であったはずなのに、霧は鋭い意思をもって動いた。フランツは、無数の刃に傷つけられたように傷だらけだった。
「フランツ!」
その無事を確かめようとティアレシアがフランツに近づこうとすると、再び霧は刃となってティアレシアに向かってきた。とっさに両腕で防ごうとするが、細かい霧の刃は容易にティアレシアの身体を傷つけた。
「ふふふ、いい様ね。クリスティアン」
ゆっくりと、赤いドレスを引きずってシュリーロッドが近づいて来る。もうシュリーロッドは確信していた。ティアレシアがクリスティアンである、と。ティアレシアは身体中のズキズキする痛みに気付かないふりをして、平然とシュリーロッドを見返した。
「今はティアレシアですわ、お姉様。クリスティアンはお姉様の目の前で死にましたもの」
「そうだったわね。無様に泣き叫べばいいものを、強情なまでにお前は冷静だったから、とてもつまらなかったわ」
「お姉様を楽しませるために死にたくありませんでしたから」
あの時の憎しみが蘇る。心が怒りと憎しみと悔しさで真っ赤に燃えている。しかしそんな激情さえもシュリーロッドを楽しませてしまうと分かっていたから、ティアレシアは淡々と答える。
「憐れなお姉様、クリスティアンの地位も名誉も奪ったのに、誰一人お姉様の側にはいない。ずっと、独りだったのでしょう? 私は知っているわ。お姉様がいつも羨ましそうに私を見ていたことを」
にっこり微笑むと、シュリーロッドは怒りに顔を歪めた。それと同時に、黒い霧がティアレシアを襲うために刃へと形を変える。この黒い霧はシュリーロッドの感情に影響を受けているらしい。おそらく、今はシュリーロッドがこの封印を担う者だからだろう。
しかし、血によって何をどうすればいいのか、まだティアレシアは解読できていない。隙を見て足元の古代文字を読もうと思っても、シュリーロッドの感情が荒れているせいで黒い霧が邪魔をする。この黒い霧すべてをティアレシアに向けるほど怒り狂ってくれれば、足元の霧は攻撃にまわされて文字が読み取れるだろう。
しかし、その時はティアレシアにすべての刃が降り注ぐことになる。文字を読んでいる間に意識を失えば、意味がない。どれだけ痛みに耐えられるだろうか。
ティアレシアは内心不安に思いながらも、シュリーロッドの心を逆立てる言葉を紡ぐ。
「お姉様が独りになったのはお姉様自身のせいよ。それを
「いいえ、わたくしのせいではない……全部、クリスティアンが悪いのよ――……!」
シュリーロッドの叫び声と共に、黒い霧がぶわっと巻き上がる。
そして、数千本の針へと姿を変えた。避けるためには目を離してはいけないが、古代文字を読むためには今しかない。
ティアレシアは一瞬のうちに覚悟を決めて地面に刻まれた文字を凝視した。先程の続きを脳内で解読した時、身体に大きな衝撃が襲った。全身に針が刺さり、気が遠くなるような痛み……は訪れず、ティアレシアは思わず瞑っていた目を開けた。
「ルディ……? どうして……」
ティアレシアの身体を襲った衝撃は、ルディが抱きしめて庇ってくれた時のものだったらしい。力強い腕に少しほっとしつつも、ティアレシアは素直に礼を言うことができなかった。
「お前の魂は俺のものだ。勝手に傷つけられるのは許せねぇ」
つまりは、自分の所有物である魂が傷つけられたくなかったということだろうか。
「私のことより、チャドはどうしたのよ! まさか、そのまま放置して来たんじゃないでしょうね」
ルディは人々を襲おうとしていたチャドを止めていたはずだ。もしルディがチャドではなくティアレシアを優先させていたなら、今頃地上はチャドの魔力で滅茶苦茶になっているかもしれない。そう思うと、助けに来てくれたルディに感謝するよりも、彼の行動を責めてしまった。
「ったく、可愛げのねぇ女だな」
「私には可愛げなんて必要ないわ」
シュリーロッドへの復讐だけを胸に生きてきた。今更、可愛げなんて求められても困る。ティアレシアが冷たく言い返すと、ルディは意地悪気な笑みを浮かべ、耳元で甘く囁いた。
「ま、どんなお前も俺のものだ」
耳に残るルディの吐息に、無意識に頬が熱くなる。今はそんな状況ではないというのに、ルディのせいで緊迫感が吹っ飛んでしまった。黒い霧に襲われた時よりも、心臓がどくどくと暴れている。ルディの行動に身体がこんなにも過剰反応を起こすようになったのはいつからだっただろうか。
「チャド……」
思わず、その名を口にすると、銀色の眼鏡ごしにチャドと目があった。
「クリスティアン様、あなたが死んでしまったことはとても残念でしたよ。私はあなたをとても気に入っていましたから」
「なら、どうしてお姉様と契約したの?」
チャドは、封印されて悪魔として存在できなかったとしても、人間としての生活に不満があるようには見えなかった。クリスティアンはチャドを慕っていたし、父エレデルトも信頼していた。エレデルトの場合は、チャドが悪魔であることを理解した上で信頼していたことになる。レミーア神に封印されてから今まで、チャドは一度もこのような騒ぎを起こしていないのだ。チャドが悪魔でありながらも優秀な宰相だったことは、歴代の王が記した古代文字からも明らかだ。
それなのに、何故チャドはシュリーロッドを利用して封印を解こうとしているのだろう。
「もう飽きてしまったのですよ。人間は何も変わらない。少しくらいかき乱してみたくなりましてね。実に面白いものが見ることができましたよ」
口元に薄い笑みを浮かべて、チャドが笑う。人間同士が騙し合い、貶めあう姿は、チャドにとって面白い出来事だったのだ。暇つぶしのためにティアレシアの復讐に付き合っているルディもルディだが、生き死にさえ遊びのように言ってしまう悪魔の考え方はティアレシアにはよく分からない。
「それなら、もう十分でしょう」
「いいえ。私は数百年ぶりに魔力をこの手に宿して気付いたのです。やはり、この世界は簡単に手に入れることができる、と」
チャドの言葉に笑ったのはルディだった。
「お前、馬鹿か。世界なんて手にしてもめんどくせぇだけだろ」
めんどくさいだけ、ということはルディもその気になれば世界を手にすることができるのだろうか。悪魔同士の会話に、ティアレシアは頭が痛くなる。
「世界を手にするよりも、もっと面白いものを俺は知ってるぜ」
にやっと笑ったルディは、突然ティアレシアの前に跪き、手の甲にキスを落とした。
「俺は、いつかお前のすべてを手に入れる」
真剣なその眼差しに、熱のこもった声に、ティアレシアは息を呑む。相手は悪魔なのに、どうしようもなく胸が震える。
「あなたほどの悪魔が一人の人間にご執心ですか」
「世界なんてものを手っ取り早く自分のものにしようとしてるお前には分からねぇか」
「分かりたくもないですけどね」
そう言った直後、チャドは漂っていた黒い霧をすべて自分の方へと引き寄せ、すべて身体に取り込んだ。
「シュリーロッド様。そんな所に座り込んで、あなたらしくもない。この世界をあなたのものにするんでしょう?」
チャドが優しく触れると、シュリーロッドははじかれたように立ち上がった。そして、白い腕に蠢く蛇に口づけた。
「ふ、ふふふ、この国は終わりよ」
ゴォォォォ……という地鳴りが響いたかと思うと、空間と大地が歪んだ。地下神殿の壁や天井が揺れに耐え切れず、ボロボロと崩れ始める。唯一の出入り口は、瓦礫で塞がれた。
シュリーロッドとチャドの姿はない。崩壊する地下神殿からいち早く逃げたのだろう。
「大丈夫、終わらせたりしないわ」
ティアレシアの瞳は絶望を浮かべてはいなかった。まだ、手は残されている。そして、ここに閉じ込められたことは返ってよかったかもしれない。
「フランツは無事?」
「あぁ、ただのかすり傷だ。気を失ってるが、生きてるぜ」
「そう、よかった」
ティアレシアは微笑んで、地震の中でフランツの側に落ちていた長剣を拾う。そして、躊躇なく自分の手の平に刃をはわせた。
「何してる!」
焦っているルディに、大丈夫だと頷いて、ティアレシアは赤い血が流れる右手を古代文字の渦巻に沿うように置いた。
『封印を担う者よ、その血によって悪魔を取り込め。名は魂に刻まれしもの、その強い意志で悪魔は眠る』
読み取った古代文字を頭の中で繰り返し、ティアレシアは自らの血で名を刻む。
【クリスティアン・ローデント】
魂に刻まれた名はティアレシアではなく、クリスティアンだ。
愛する者を、この国を、大切なものを失いたくないと強く願う。
ヒリヒリと痛む右手が自分の名を書き終えた時、地震は止んでいた。
そして、その代わりに目の前にはチャドが横たわっていた。全く動かないその身体に、一瞬死んでいるのかと思ったが、眠っているだけのようだった。
「お前、俺というものがありながら他の悪魔とも契約するとは……」
呆れたように、ルディが言った。
「仕方ないでしょう」
そう言って、ティアレシアは大聖堂を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます