第35話 動き出す臣
ティアレシアという一人の少女が、ヴェールド男爵邸を訪れてからというもの、当主であるグリエムの瞳はかつての強い輝きを取り戻していた。仕えるべき主を失い、一人息子は投獄され、自身の権力さえも奪われ、すべてを諦めるしかないのだと絶望していた老人は、もうそこにはいなかった。
「あの娘が、まさか本当にわしの頼みをきいてくれるとは思わなかった……」
「ティアレシア様は、とても不思議な方です。俺は不思議とティアレシア様を見ているとクリスティアン様を思い出すのです」
グリエムの側で、フランツが笑みを浮かべて言った。フランツがいなければ、ティアレシアとグリエムか言葉を交わすことはなかっただろう。彼もまた、ティアレシアという人物に何かを感じ、やるべきことを見つけている。
「しかし……あの牢獄からどうやって息子を連れ出したのか」
かなりやつれ、身体には傷痕が多くあったが、ブラットリーは生きていた。
――老いぼれの願いはただ一つじゃ。息子に一目会いたい。
協力を求めるティアレシアに対して、叶うことのない願いを口にしたはずだった。
しかし、目の前には生きた息子がたしかに眠っている。
生きていた。息子は、生きている。
その現実に、グリエムは涙を止めることができなかった。ティアレシアは、グリエムに未来を信じる希望を与えてくれた。
その日、グリエムはティアレシアに全面的に協力することを決めたのだ。
「それで、フランツの方はどうなんだ」
今は息子の無事を喜び、安堵している場合ではない。グリエムは、同じようにブラットリーを見つめるフランツに向き合った。
「なかなか、近づくのは難しいです」
「あの男は堅物過ぎるからな。正当な用でなければ面会には応じず、規則を重んじ、まっすぐに正義を信じておる。よくもまぁ、あの父親からあんな息子ができたものじゃ」
フランツが説得すべき相手の顔を思い浮かべ、グリエムは苦笑する。
「やはり、正面からではなく、忍び込むしかないでしょうか」
「あいつが認める正当な面会が無理となると、そうするしかないだろう」
グリエムとフランツが、どうやって目的の男に会うかについて計画を立てていると、ベッドが軋む音がした。音の方を見ると、ブラットリーがゆっくりと身体を起こしていた。
「……俺は、生きているのか」
呆然と、ブラットリーが言葉をこぼす。
そして、その藍色の瞳がグリエムとフランツを捉えた。グリエムは老いた足で息子に駆け寄り、強くその身体を抱き締めた。
厳格な父として、一度も息子を抱き締めたことのなかったグリエムが、はじめてその腕に息子を閉じ込めた。
ブラットリーは戸惑いながらも、十六年で老いた父親の背に腕を回した。
◇◇◇
王城内は、ざわついていた。
落ち着きのない者たちの大半が、何が起きているのか分かっていなかった。女王の命令で騎士達は門という門を封鎖し、人の出入りを禁じていた。女王はひどく取り乱した様子であり、近衛騎士団長であるベルゼンツをはじめとする五名の騎士を自らの寝室に配置し、誰一人として中に侵入を許すなと釘をさしているようだった。
突然、門を封鎖され、困ったのは登城していた貴族たちである。会議のために王城に赴き、何かが起き、屋敷に帰ることができなくなってしまった。しかも、誰からも何の説明もないままだ。門番に聞いても、近衛騎士を見つけて尋ねても、口をそろえて「お答えできません」と答える。
その様子を、ベルゼンツは女王陛下の寝室の隣、続きの間から眺めていた。薄らと窓に映っているベルゼンツの顔は、自分でも驚くほどに冷たい表情を浮かべている。激情に任せても、何も解決しない。
だから、こういう時こそ冷静にならなければならない。
「ベルゼンツ!」
バン、と勢いよくシュリーロッドが寝室から現れる。とはいえ、寝間着姿ではなく、きっちり真っ赤なドレスを着て着飾った姿である。いつも妖艶な美しさを醸し出している女王も、今は美しい顔に影が差していた。そして、その藍色の瞳には怒りと苛立ちが滲んでいる。主君に名を呼ばれ、ベルゼンツは恭しく頭を垂れる。
「まだ、セドリックに毒を盛った者は見つからないの⁉」
癇癪を起したように、シュリーロッドが叫び、高いヒールでベルゼンツの身体を踏みつける。憤りをベルゼンツに何度もぶつけ、シュリーロッドが疲れて息をついた頃、ベルゼンツは口を開いた。
「怪しいと思われる者たちの話を聞いている最中でございます。もちろん、他の可能性も考え、門は封鎖しておりますし、万が一にも犯人が逃げ出すことはありません」
「当然よ! わたくしの愛するセドリックを苦しめた者には、死、あるのみだわ。それで、ブラットリーは本当に死んだの?」
そう言いながら、シュリーロッドはヒールをぐりぐりと肩に押し付けてくる。
「はい。看守からは、確かにそう報告を受けております。今朝、見つけた時にはもう死んでいた、と。それで、すぐ牢獄内の墓地に埋葬したそうです」
「墓を暴くように看守に伝えなさい」
最後に一度、ベルゼンツを転ばせるために強く肩を蹴り、女王は冷たく言った。
ブラットリーは、現在は罪人だとしても、ベルゼンツの憧れの人物だった。その人の墓を暴くなど、できない。
苦しい思いをしただろう彼に、せめて死んだ後くらい安らかに眠っていて欲しい。
そう思ったが、ベルゼンツは自分の意思で動ける立場ではないのだ。
「……かしこまりました」
「犯人を見つけ次第、わたくしの前に突き出しなさい。セドリックを苦しめた分、いえ、それ以上の苦しみを味あわせてやるわ」
シュリーロッドは、悪魔の笑みを浮かべて言った。この時ベルゼンツは、女王陛下を怒らせれば悪魔に魂を売られる、という噂を思い出していた。
「あと、まだ他の医者は着かないの? 王国内にいる医者をすべてこの城に集めるように、と言ったわよね」
「失礼ながら、ブロッキア王国内すべての医者を王城に呼び寄せるのは無理な話です。この城の王宮医務官たちは優秀です。必ずや、セドリック様を救ってくださるでしょう」
そう言った直後、今度はベルゼンツの顔にシュリーロッドのドレスについていた宝石の塊がぶつけられた。口の端を切ってしまったようだが、それでもベルゼンツは無表情を貫く。感情的になっている女王の前では、些細なことも引き金になってしまう。
「王宮医務官など、役に立たないわ。セドリックに何の効果もない薬ばかり飲ませて。このままではセドリックが死んでしまう……いいえ、そんなことは絶対にさせないわ! さっさと犯人を見つけて解毒剤の在り処を吐かせるか、優秀な医者を見つけて連れてきなさい! どうしてみんな無能なのかしら」
そう言って溜息を吐いたシュリーロッドの目の前で、ベルゼンツは思わずある人物の名を紡いでいた。
「……ろ、医師は……」
「何?」
ベルゼンツの小さな呟きを耳に捉えたシュリーロッドに問われ、意を決してベルゼンツは述べた。今度ははっきりと。
「現在、死の監獄にいるカルロ医師ならば、セドリック様を救えるのではないでしょうか」
王国一と言う腕を持ちながらも、決して権力に溺れることなく、人々を癒し続けてきたカルロ医師。王宮医務官であり、王立病院の医院長でもあったが、彼自身がその肩書を欲したというよりも、周囲の人間が彼をその地位に据えることを自然だと感じていた。
そんな彼が牢屋送りになってしまい、どれだけの患者が悲しんだことだろうか。
(この非常事態ならば、カルロ医師を一時的にでも外に出すことができる)
ベルゼンツは、どうにかカルロ医師を牢獄から出したかった。それは、彼は無実だからだ。人を救ったことは多くあれど、罪を犯すような人間ではない。ブラットリーのことも、ベルゼンツは信じていた。
しかし、彼らが庇い立てした人間について、ベルゼンツの記憶はあまりにも曖昧だった。強く心に残っていた出来事のはずなのに、思い出せない。忘れてしまうくらいの記憶など、思い出しても意味はない。そう思うのに、胸のしこりは消えない。
「……あの医者は、反逆者よ。永遠に地獄をさ迷わせてやりたいの」
「しかし、このままではセドリック様が地獄を見ることになるかもしれません」
「口を慎みなさい! セドリックが死ぬはずないでしょう」
「私もそう信じておりますが、打てるだけの手は打っておいた方が良いかと……」
「生意気ね。いつから、そんな口をわたくしに聞くようになったのかしら……」
真っ赤なドレスを身に纏った美しい女王は、着飾ったその姿で己の騎士を踏みつけ、騎士の顔が腫れあがるほどに痛めつけた。そして、醜いお前の顔はもう見たくない、と言い捨てて寝室へと戻って行った。
「……あの方は、容赦ないな。本当に」
比較的整った顔立ちをしていた騎士ベルゼンツの顔は、もう見る影もなく腫れ上がっていた。無表情なのかそうでないのかも、もはや判断することはできない。ただ、話すことはできる。近衛騎士団長として、ベルゼンツは部下たちの指揮を執る必要があるのだ。
女王陛下の夫、セドリックに毒が盛られた。
その事実を公表する前に、事件の詳細を調べねばならない。シュリーロッドの言うように、早急に犯人を見つけなければ、セドリックの命が危うい。使われた毒はこの辺りのものではないようで、解毒の方法は王宮医務官たちには分からないという。とにかく解毒作用のある薬草を煎じて飲ませているようだが、シュリーロッドが焦るように効果はないらしい。
そうなれば、当然犯人が解毒薬を持っていると考えるのが妥当だ。
「まさかとは思うが、十六年前のエレデルト様の時と同じ毒ではないだろうな」
そう独りごちたベルゼンツの目の前に、銀色の髪を持つ美しい少女が立っていた。
いつの間に入って来たのか。見張りの騎士はどうしたのか。ベルゼンツは困惑したが、銀色の髪の娘ティアレシアは、薄い笑みだけを浮かべてじっとベルゼンツを見つめていた。
「……あなたは、クリスティアン女王を覚えていますか」
耳に届いたその言葉に、ベルゼンツは頭の中で無理矢理せき止められていた記憶と感情が溢れ出してくる奇妙な衝撃を味わった。
クリスティアン、クリスティアン、クリスティアン……その存在をどうして忘れていたのだろうか。
頭がくらくらする。
ベルゼンツが忠誠を誓い、側で仕えたかった主は、クリスティアンだった。いつから、自分はシュリーロッドを主君と仰ぐようになったのだろうか。いや、ベルゼンツははじめからシュリーロッドの騎士だった。それでも、シュリーロッドの側にいながらも、クリスティアンに仕えたいと思っていた。頭が痛い。身体中、シュリーロッドによる内出血が目立つが、痛いのは身体ではない。心だ。
「クリスティアン……様、どうして……私は忘れていたのか……」
ずきずきと痛む心に耐えながら、ベルゼンツが言葉を零す。もう目の前にいる少女のことなど、彼には見えていなかった。しかし、彼女が紡いだ言葉ははっきりと耳に届いた。
「あなたはね、悪魔に魅せられていたのよ」
どこか棘を含む、けれども可愛らしい声音で言い、ティアレシアはベルゼンツの頭を撫でた。
その直後、ベルゼンツの意識は失われた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます