第22話 触れられない心
「たった一日で、こんなにも疲れるなんて……」
バートロム公爵家の屋敷に帰るなり空腹を満たし、湯あみを済ませたティアレシアはふかふかのベッドに倒れ込んだ。ティアレシアが帰ってすぐに疲れをとれるよう、メイドたちは実にテキパキと動いてくれた。自分も、主人が何をするのかを読んで動けるようにならなければ……とぼんやりする頭で考える。
「……って、私は本気でシュリーロッドの侍女になる訳ではないのよ」
自分の思考を、ティアレシアは一拍遅れて否定する。疲れのせいでかなり頭がぼうっとしている。さっさと寝た方がいいだろう。
「おやすみなさい、お父様……」
目を閉じて、優しい父の顔を思い浮かべる。いつでも、父はクリスティアンに笑いかけてくれた。国王として、非情な決断を迫られることもあっただろうに、娘を不安がらせまいと笑っていた。そんな父ももう、今はいない。
しかし、夢の中でなら、ティアレシアは父と会うことができる。ティアレシアは今日も、父の夢を見る。
過去と現在が混ざり合う不思議な夢の中で、ティアレシアは父の姿を見つける。
「クリスティアン」
姿はティアレシアなのに、父は目を細めてクリスティアンと自分を呼ぶ。優しく響くその声に、ティアレシアは涙を流す。
「お父様、ごめんなさい。私がもっと、お姉様のことを気にしていたら……」
夢の中でまで、強がる必要はない。ティアレシアは、憎しみ以上に心を占める悲しみを、父に漏らす。
「お前のせいではないよ。お父様のせいで、辛い思いをさせているね」
すまない。そう言って、父がティアレシアの頭を優しく撫でる。
「ねぇ、お父様。私がお姉様に復讐しようとしていること、怒ってる?」
父は、何も言わなかった。ただ、哀しげにティアレシアを見つめている。
「クリスティアン、この世界にはレミーア神とルミーナ神のご加護がある。我々人間が心から信じれば、皆が笑っていられる平和と、豊かなめぐみを与えてくれる」
ティアレシアの問いには答えずに、父は話しはじめた。
「でもね、人々が血を流し、天に悲しい悲鳴が届く時、その加護は失われる。そして、力を失っていた悪魔が力を取り戻し、この世界は滅ぶだろう」
突然、神だの悪魔だの父の口から聞かされ、ティアレシアは戸惑う。いつもの夢ではない。これは、父からの重要なメッセージではないだろうか。しかし、悪魔の力を封じておかなければならないのに、ティアレシア自身が悪魔と契約していることを知れば父はどう思うだろうか。それとも、ティアレシアの夢なのだから父はもう知っているのだろうか。知っていて、ティアレシアに神の加護について話したのだとしたら、どういう意図があるのか。
考えを巡らせるティアレシアに、父はにっこりと笑いかける。
「大丈夫だよ。クリスティアンなら、レミーア神の加護を得られる」
「でも、お父様……」
自分はもう、純粋なだけのクリスティアンではない。許せないほどの怒り、憎しみ、そして殺意を覚えてしまった。悪魔に触れてしまったあの時、クリスティアンも悪魔になってしまったのかもしれないのに。
それなのに父は穏やかに微笑んでいる、クリスティアンの魂を持つ、悪魔と契約したティアレシアを見つめて。
「大切な私の娘、心から愛しているよ」
父に愛される資格なんて、自分にはもうない。
そう思うのに、父から与えられる愛情に包まれて、ティアレシアの意識は夢すら届かない深い眠りに落ちていった。
◇◇◇
海色のベッドに眠っているのは人魚姫ではなく、ティアレシアだった。よほど眠りが深いのか、ルディが近づいて来たことにも気づかずに寝息を立てる。よほど疲れていたのだろう。その表情は決して穏やかなものではなかった。閉じられた瞼から、白い頬にきれいな涙が伝っている。何があったのだろうか。どんな夢を見ているのだろうか。ティアレシアの寝顔を見ながら、ルディは考える。しかし、考えたところで分かるはずもない。
ルディはティアレシアの涙を指ですくい、ゆっくりと味わうように舐めた。人間の感情なんてものは、まだルディには理解できないが、ティアレシアの涙はルディに感情を教えてくれる。とは言え、人間の感情は複雑すぎて、ルディはただただ胸が締め付けられるような強い感情を感じるだけだ。それが悲しみなのか、怒りなのか、愛情なのか、よく分からない。それとも、すべて含まれているのだろうか。やはり、ティアレシアはルディを退屈させない。さっさと復讐を終わらせてティアレシアの魂を喰らいたいと思っていたが、今はずっと見ていたいとも思う。
「復讐に燃える魂もきれいだが、きっと復讐を遂げた後も俺を楽しませてくれるだろう?」
起きていたなら、確実に抵抗されるであろうキスを、眠っているティアレシアの瞼に落とす。長い睫毛に縁取られた大きな瞳に自分だけを映すようにイメージして、ルディは両目に口づける。それだけで、何故かルディにはないはずの心が潤うような気がする。
このことを後で知ったら怒るだろうな、と想像して、ルディはにやりと笑う。
そして、ベッドから離れようとした時、細い手がルディの服を掴んだ。
「お前が素直なのは、眠っている時だけか」
ティアレシアの手が自分を求めているのだと思うと、ルディの口元は自然と緩む。いつもティアレシアは素直ではない。ルディのおかげで転生したというのに、ルディの言うことなど聞かないのだ。
今日の昼間だって、ティアレシアが“心”は誰にもあげないと言ったから、ルディもカッとなった。どうしてあんなにむかついたのか、ルディには分からない。ただ、ティアレシアのすべてが自分のものだと思っていたのに、そのすべてがルディのものではなかった。そのことに、少なからず衝撃を受けたのかもしれなかった。
「お前の“心”は、俺には預けられないのか」
まだルディの服を軽く握っているその手に、自分の手を重ね、ティアレシアに問いかける。意識のないティアレシアに問いかけても、無意味なこと。それなのに、ルディはどうしても、その答えを知りたいと強く思う。
ティアレシアのものは、すべて自分のものにしたいのだ。悪魔の独占欲は、人間のそれよりもはるかに深く、強い。しかし、目に見えない“心”など、どうやって手に入れればいいのだろうか。
「どうすれば、お前は俺のものになるんだ」
力づくではどうにもできないことなのだと、気付いてしまった。どこにあるかも分からないティアレシアの“心”に、ルディは触れてみたい。魂だけを手に入れたのでは意味がない。そこに、ティアレシアの“心”がなければ、ルディはもう満足できそうになかった。
それでも、ティアレシアは悪魔であるルディに手を伸ばした。
この手を離さなければ、ルディにも分かるかもしれない。
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