第20話 彩られた心

 ――私の“心”は誰にもあげないわ。

 そう言ったティアレシアに無性に苛立ち、気分が悪くなったのは何故だろう。

 ルディは不機嫌顔で歩いていた。クリスティアンの亡骸が眠る、〈紫黄水晶の宮〉を。

「ち、勘違いか」

 ティアレシアを問い詰めている時、この宮殿から強い魔力を感じた。その正体を確かめるためにすぐに移動したのだが、もう何の気配も感じなかった。先程のティアレシアの冷めた眼差しが脳裏に浮かび、ルディの心はささくれ立っていた。

 今までは、ティアレシアの復讐を見届け、その魂を自らの魔力の糧にしようとその成長を心待ちにしていた。悪魔であるルディにとって、人間の娘と過ごす十六年はあっという間だった。しかし、その十六年で随分ルディは変わった。人間のふりをして、人間と過ごすうちに、すべてを自分の思い通りにしてきた自分勝手な悪魔は、気遣いと譲歩を覚えたのだ。

 はじめは、ティアレシアの転生に半分以上の魔力を削ってしまったために、ほとんど魔力が仕えず、人間と変わらない力しか持たなかったからだが、契約者であるティアレシアに教えられることが思いの外面白かったから、彼女の従者になった。人間は馬鹿だ。そう見下していたが、助け合い、笑顔を浮かべる者たちを見て、不思議と嫌な気分にはならなかった。

 ティアレシアは、普段から感情を表に出さないようにしている。しかし、領民たちや使用人たちが笑えば、そんなティアレシアでさえ笑みを返す。人を愛す心など持ち合わせていないはずのルディが、ティアレシアの笑顔は好ましいと思えた。しかし、ティアレシアはルディには笑顔を向けない。自分が悪魔であるから、それは仕方ないと思っていた。ルディが欲しいのは復讐に燃える魂だ。笑顔あふれる幸せな魂ではない。それに、ティアレシアの魂はルディのものだ。その事実は変わらない。

 だから、このままでいい――と。

 その考えが変わったのは、つい最近だ。

 クリスティアンの騎士フランツ、クリスティアンの婚約者セドリックがティアレシアに対してよからぬ感情を抱いている。ティアレシアはその感情をも利用するつもりらしいが、フランツに対してはいやに親密過ぎ、セドリックに対しては感情的すぎる。


「殺してやろうか」

 ルディはティアレシアに拒まれているのに、かつての忠臣だからと無条件で信用されているフランツと、復讐のためとはいえ受け入れられているセドリックに腹が立つ。そして、ルディに頼ろうとしないティアレシアにも。ルディをここまで苛立たせる人間も珍しい。

 すべてにおいて退屈だった日々が、ティアレシアと共にいると感情という色で彩られる。壊れやすいその身体を守ってやりたいし、無理をして意地を張るその姿を見つめていたいとも思う。キスなど、腐るほどしてきたというのに、ティアレシアに対してだけは吐息が、唇が、感情が熱を持つ。

 拒まれていなければ、ティアレシアの魂すべてを食い尽くしてしまいそうなぐらい、ルディは強く求めてしまう。その感情の名を知らず、ルディはただティアレシアの魂に魅了されているだけだと感じていた。

 ティアレシアによって心に様々な色を配色され、黒一色だったルディの心には今は様々な色が溢れている。しかし、今はそれが苦痛でしかない。嫉妬にも近い怒りが煩わしくて、ルディの心を動かす者すべてをこの手で殺したいとも思う。人間の魂を喰らえば、魔力などすぐに戻るだろう。わざわざティアレシアからもらわずとも良い。

「だが、あいつの反応を楽しめなくなるのは残念だ」

 ティアレシアを殺してしまえば、またルディは退屈な日々に戻る。復讐を終え、十分に満たされたティアレシアの魂を喰らい、彼女のすべてを自分の中にとどめておくのだ。それが、今のルディの楽しみだ。その邪魔は誰にもされたくない。だからこそ、ルディは神経質になっていた。

 クリスティアンの亡骸は、自分と同じ悪魔の魔力によって保たれている。十六年、ルディと同じようにシュリーロッドの側にいた悪魔がいるとするならば、ティアレシアの復讐の妨げになるのではないか。ティアレシアの計画が動き出す前に、不安要素はすべて潰しておきたかった。


「よぉ、クリスティアン」

 クリスティアンの寝室に足を踏み入れたルディは、死んでいるとは思えないほどに美しい死体に話しかけた。当然、彼女からの返答はない。ベッドに広がる長い金色の髪は神秘的で、その青白い肌は透き通ったように輝いている。伏せられた瞼は神と同じ金色の睫毛に縁取られ、可愛らしい唇は瑞々しく、見る者すべてを虜にするような美しく整った顔は穏やかにその時を止めている。

 ティアレシアと一緒に来た時にはセドリックのせいでゆっくり観察することができなかったが、今は十分に見ることができる。ルディはベッドに腰掛け、クリスティアンの滑らかな頬にそっと触れた。その皮膚は、見た目に反して冷たく、固い。触ってみて、はじめてそこに生命が存在しないことが分かる。

「本物、か……」

 クリスティアンを知る者の記憶からつくられた幻、という可能性もあったが、この身体は確かに人間の死体からできている。腐敗が進む肉体の時を止めているのは、悪魔の魔力だ。血液のように全身を巡っているその魔力を辿り、ルディは顔をしかめた。

「こいつはえげつねぇな」

 クリスティアンの亡骸を保つ魔力には、人間の生血が使われていた。魔力だけで死体を生きているように保つことは難しい。しかし、同じ人間の血を魔力とともに巡らせることで、まるで生きているように保たれている。

 シュリーロッドに協力している悪魔は、ルディが消さなければならない。

 そのための、宣戦布告。


「こんなベッドの上で眠っていたくはねぇだろう」


 憎い相手に死体だけ生かされているなど、いい気持ちではないだろう。ルディはもう音を拾うことのできないクリスティアンの耳元で優しく囁いて、その手を彼女の胸に突き刺した。

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