第19話 歪んだ愛
部屋に入ってくるなり、セドリックは床に突っ伏した。手入れの行き届いた美しい金色の髪が絨毯に広がる。
「僕の心を君で埋めたい。そんな悲しい顔をしないで」
かつて愛した人がとんでもない変人だったことが分かれば、誰でも悲しい気持ちにもなるだろう。ティアレシアは溜息を吐きたいのを必死でこらえて、つとめて冷静に問う。
「あの、これはどういうことですか?」
美しい花に囲まれて、生きているように死んでいる女性がベッドに横たわっている。処刑されたクリスティアンの亡骸だ。ティアレシアの言葉でベッドに視線を向けたセドリックは、そのまま死人に釘付けになる。
「美しいでしょう……? 僕が愛した人だ」
ティアレシアの鼓動が跳ねた。クリスティアンが聞いたら、どれだけ嬉しい言葉だろうか。甘く優しいその声に、きっと頬を赤く染める。
「クリスティアン様、ですよね?」
問う声は震えていた。セドリックは、
「あぁ。このクリスティアンは僕だけのものだ」
「……クリスティアン様は処刑されたはずですよね。どうしてここに……?」
「シュリーと約束していたんだ。彼女に協力すれば、クリスティアンを僕のものにしてくれるってね。まさか遺体を渡されるとは思わなかったけど……」
やはり、シュリーロッドが関わっているのだ。分かり切っていた事実関係ではあるが、まさかセドリックがクリスティアンを自分のものにするために裏切ったのだとは知らなかった。クリスティアンではなく、シュリーロッドを選んだものだと思っていたのに。
しかし、まだその方がましだったかもしれない。クリスティアンを愛し、独り占めしたいがために、愛する人を裏切ったなど……複雑すぎる。セドリックの愛が狂気的すぎて、ティアレシアは悪寒を覚えた。
それにしても、セドリックはクリスティアンの遺体が十六年も変わらずにあり続けることに何の疑問も抱かないのだろうか。異臭も放たず、美しいまま眠るクリスティアンに、セドリックは優しい眼差しを向けている。
その表情を見て、ティアレシアは悟った。セドリックにとっては、クリスティアンがここにいることがすべてで、その他のことはどうでもいいのだ、と。クリスティアンに対する妄執が、ティアレシアにまで伝わってくる。
「こいつ、気持ち悪ぃな」
心底嫌そうな顔で、ルディが呟いた。その呟きが聞こえていなかったセドリックは、クリスティアンの亡骸に見惚れている。
「……セドリック様、私はシュリーロッド女王陛下に十六年前の真実をお話してほしいのです」
セドリックに対する感情は一先ず押し込め、ティアレシアは真っ直ぐ言葉を向けた。死体をうっとり見つめていたセドリックは、ティアレシアの言葉にこちらに向き直った。
「どうして十六年前の真実を知りたがる?」
「十六年前、シュリーロッド様の治世に変わって、すべてが間違った方向に進んでいるからです」
無実の人間が処刑され、王国は不安に包まれ、国民は重い税を払わされている。
「間違った方向、か。確かにね。僕は、クリスティアンが死んで何もかもどうでもよくなった。シュリーはね、そんな腑抜けた僕を愛していると言って笑うんだよ」
自嘲するような笑みを浮かべ、セドリックが言った。王族であり、女王の夫であるセドリックならば、クリスティアンの無実を証明でき、さらにはカルロやブラットリーを救うこともできたかもしれないのに、そのすべてを放棄したというのか。
(なんて馬鹿な男なの……!)
ティアレシアは怒りのあまり悲鳴を上げそうになった。そして、怒りを通り越して笑いがこみあげてきた。
「ふふっ、セドリック様って意外と単純な方だったのですね。というか、極端すぎますわ。王国の責任ある立場にいながら、興味がないからといって見過ごすなど……あなたはそれでも王族ですか?」
セドリックの表情がぴくりと引きつったのを見ても、ティアレシアは言葉を続ける。
「王族の婚姻には、元々愛なんて存在しないことが多いでしょう。それなのに、愛する人がいないからといってその責任までもを投げ出すなど、最低ですわ。そんな無責任な男の人を好きになる女性がいると思って? 外見だけで寄ってくる女はいても、セドリック様の内面を見て魅力的だと思う人なんてきっといないわ」
セドリックの身体が小刻みに震えていた。セドリックからすれば、ただの公爵令嬢が出しゃばって王族に無礼を働いているのだから、当然王族としての矜持が許さないだろう。
しかし。
「君は、やはり僕の心を動かしてしまうんだね!」
喜ばれてしまった。先程の震えは怒りによるものではなく、歓喜に打ち震えていただけのようだ。今度はこちらが黙る番だった。
「今まで、本当に僕は腑抜けていたよ。この場所でクリスティアンを見つめる日々も、僕的には幸せだったけど、やはり何か物足りないと感じていたんだ!」
「そりゃ死体相手に心満たされてもおかしな話だろ」
クリスティアンの亡骸をシュリーロッドからもらって喜ぶ時点でおかしな頭の持ち主なのだが、ルディの呟きにティアレシアは内心で同意する。
「ティアレシア、君がいると僕の毎日は刺激的になりそうだ。改めて、僕のものにならないか? いや、僕を君のものにしてくれ」
そう言うなり、セドリックは膝をついて懇願した。
「私は、セドリック様にシュリーロッド様のことを消してと言いましたね?」
膝をついているセドリックを見下ろし、ティアレシアは薄く微笑む。その言葉に、セドリックは神妙な顔つきで頷いた。
「あぁ。だが、僕の心にシュリーはいないよ」
「……証明、してくださいますか?」
「もちろんだ」
「嬉しいですわ、セドリック様。では、十六年前あなたがクリスティアン様に対して行ったことをシュリーロッド様にしてください」
じっと固まるセドリックに、完璧な微笑みを向けてティアレシアは待った。セドリックの返答を。しかし、その答えははじめから分かりきっている。
「分かった。それで、君が満足してくれるなら……」
「ありがとうございます」
ティアレシアはクリスティアンの亡骸にすがりつくセドリックを複雑な思いで部屋に残し、ルディと共に宮殿を出た。
胸に変なしこりが残ったが、一先ずセドリックは利用できるだろう。ティアレシアは〈紫黄水晶の宮〉を出て、〈煙水晶の宮〉を目指していた。
「……まだ怒ってんのか」
むすっとしたルディの声に、ティアレシアは立ち止まった。ふつふつと今朝のことを思い出し、怒りが込み上げてきた。
「当たり前じゃない! 強引にキスするわ勝手に人のトラウマを思い出させるわ古い友人の前で恋人発言するわ……悪魔であるあなたに、私の意志なんて関係ないのよね? でも、いくら割り切ったって私も乙女なの。今までは我慢してきたけれど、人前でもあんな態度を取るようなら、もうキスしないから!」
感情のままに、いっきに言葉を吐く。ルディが口を挟む暇も与えなかった。一方的な宣言に、ルディは呆気にとられるでもなく、ただ無表情でティアレシアを見つめている。
キスをしない、ということはつまりティアレシアの内にあるルディの魔力を与えないということだ。悪魔としてはかなり強い、と自分で自慢していたルディだが、今はティアレシアの転生に魔力を半分以上使ってしまった。
ルディは、キスによってティアレシアから魔力を補充している。魔力がなければただの人間と同じように何もできなくなる。
自分の好き勝手に魔力を使えなくなるというのに、ルディはクリスティアンの魂を転生させた――それも暇つぶしのためだけに。
やはり、悪魔の考えることはよく分からない。ルディは反論もせずに、ただじっとその漆黒の双眸でティアレシアを見つめている。この沈黙が怖い。少しぐらいティアレシアの心情も理解してほしい、そう思ったのだが、本気でルディが怒ればティアレシアは復讐もできないままに消えてしまうだろう。ルディの機嫌を取った方がいいだろうか。と、ティアレシアが考えていると、ルディがようやく口を開いた。
「……お前も、面倒な女だな」
ルディは氷のような無表情のまま、低い声で言った。深い闇を思わせる瞳に映る自分は、完全に脅えた表情を浮かべていた。ルディから逃げるように後ずさると、背に城壁が当たった。そして、ルディの手がティアレシアの顔の両側に置かれ、逃げ道を塞がれた。
もう、逃げられない。ティアレシアが諦めて目をぎゅっと瞑った時、目の前で大きな溜息を吐かれた。
「そんなに嫌か?」
目を開くと、先程までの無表情とは何一つ変わっていないのに、漆黒の瞳はひどく揺れていた。いつもと違うルディの様子に、ティアレシアは何も答えられない。
「まあいい。どれだけ嫌がっても、お前は俺のものだ」
――他の誰にも渡さない。
漆黒の瞳に捉えられ、ティアレシアは身動きがとれなくなる。独占欲を滲ませた言葉に、ティアレシアは眉を寄せる。ただの暇つぶしで一緒にいるはずのルディが、ここまでの執着を見せたのは初めてだった。
かつての友人であるフランツや、クリスティアンに対して狂気的な愛を持つセドリックが現れたからだろうか。ルディに心配されずとも、復讐はやり遂げてみせる。しかし、ティアレシアのすべてをルディにあげられる訳ではない。
「……この魂はあなたのものよ。でも、私の“心”は誰にもあげないわ」
本気で人を信じれば、その分裏切られた時が辛いだけだ。
だから、もう誰にも“心”はあげたくない。ティアレシアの言葉を聞いて、ルディは城壁についていた手を離した。
ルディは、ティアレシアの復讐に燃える魂が欲しいだけ。それなのに、どうしてあんな傷ついたような顔をしていたのだろう。
ティアレシアが口を開く前に、その姿は消えていた。
「ごめんなさい、ルディ」
ルディに生かされておきながら、ルディの思い通りには動かない。自分でも、本当に最低だと思う。しかし、この心は誰にもあげないと決めている。頑なに心を閉ざすティアレシアに、ルディは呆れただろうか。
ずき、という胸の痛みには気づかないふりをして、ティアレシアは女王の住む〈
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