第18話 あってはならないもの
〈
少なくとも、クリスティアンが住んでいた頃の〈紫黄水晶の宮〉は堂々としていて美しく、優しい場所だった。しかし、今ティアレシアの目の前に映る宮殿は、かつての雰囲気を失っていた。閉鎖されて住居人がいないためか、ひっそりと重い空気を纏っている。手入れのされていない城壁にはつる草が伸び、客人を笑顔で迎え入れていた天使の彫刻は羽が折れ、天使の顔も削れてしまっている。
「ここが、本当に美しかった〈紫黄水晶の宮〉なの?」
宮殿の外観を見るだけでも、クリスティアンが死んでどれだけの月日が経ってしまったのか思い知らされる。セドリックの誘導でクリスティアンの庭に来て、どうせならかつての自分の宮殿を見ようと足を運んだのだが、こんなにも胸が苦しくなるとは思わなかった。
クリスティアンの半生はこの宮殿で過ごした。王が公務を行う王城グリンベルよりも、愛着の強い場所だ。その宮殿が美しさを失い、醜く歪んでいる姿を見て、まるで今の自分のようだと思えてならないのだ。
美しさを奪ったのは姉のシュリーロッド、醜い復讐を選んだのはクリスティアン自身。
しかし、その選択を後悔してはいない。
「私は、どれだけ醜くなってもかまわない」
優しく純粋だったクリスティアンの心が嘆くのを無視して、ティアレシアは宮殿内に足を踏み入れた。木製の扉を開くと、懐かしい光景が思い浮かぶ。
クリスティアンに仕えていてくれた女官や使用人、騎士たちが笑顔で「おかえりなさい」と頭を下げる。かいがいしく世話を焼いてくれる女官たちにその日嬉しかったことや楽しかったことを話したり、フランツと他愛ない話をしたり、ブラットリーやカルロとお茶をしたり。あたたかな時間が、優しい笑顔が、この城には溢れていた。
玄関ホールでクリスティアンの記憶が刺激され、ティアレシアは呆然と立ち尽くしたまま涙を流していた。灯りもなく、誰一人いない城内で、何一つなくなってしまっていても、ティアレシアには昔の姿が鮮明に思い出せる。
調度品などの物がすべて撤去され、寂しくなった玄関ホールを後にして、ティアレシアはクリスティアンの私室を目指す。玄関ホールで何もないのだから、きっとクリスティアンの部屋にも何も残っていないだろう。しかし、自分の部屋が今どうなっているのか気になった。玄関ホールから続く階段を上り、右へ真っ直ぐ進む。右側の奥の部屋、そこがクリスティアンの私室だった。部屋の扉に近づくほどに、鼓動が大きくなる。緊張のためか手が震えている。いや、身体中が震えている。何かに脅えるように、何かに迫られるように。
何百、何千回と開けてきた扉の前で、ティアレシアは立ち止まって深呼吸をする。
きっと、何もない。そう自分に言い聞かせ、心を落ち着ける、しかし、頭の奥ではずっと警鐘が鳴り続けている。嫌な予感しかしない。ティアレシアは今になって、ここに一人で立っていることが無性に心細くなった。
「……ルディ」
無意識に、名を呼んでいた。ティアレシアの魂と繋がっている彼には、何もかも筒抜けだ。ティアレシアが一人になりたい時は一人にさせてくれるし、ルディの名を呼んで必要とした時にはすぐに来てくれる。
「どうした? 俺が恋しくなったか?」
にやにやと厭らしい笑みを浮かべたルディが、ティアレシアの前に立っていた。一人で啖呵を切っておいて、心細くなったからルディを呼んだなどとは思われたくなくて、ティアレシアはふんっと顔を背ける。
「別に、この場所はあなたにも見てほしいと思っただけよ」
普通なら悪魔と一緒にいて心強いとか、安心するとか、そんな感情を抱くことはおかしいと分かっているのに、ティアレシアはルディが来てくれたことで冷静さと落ち着きを取り戻すことができた。
だからか、扉の取っ手を持つティアレシアの手はもう震えてはいなかった。
ギィ……という音を立てて、扉が開く。
「な、何なの……」
扉を開いた瞬間、ぶわっと舞ったのは、色とりどりの花弁。部屋中に、種類の異なる花の花弁が敷き詰められている。置物やソファ、調度品の類は何もない。あるのはただ、濃厚な香りを放つ花弁だけ。暗い城内で鮮やかな色を放つ花弁に一瞬目を奪われたが、ティアレシアが感じた違和感は花弁ではない。室内の温度だ。あまりにも温度が低い。肌寒い、というレベルではない。冷たい空気の中で、明るく可愛らしい花弁が舞っている。不思議な光景だった。
「なんだ、この部屋……妙な力を感じる」
あまりの冷気に部屋に入るのを躊躇していたティアレシアの耳に、ルディの呟きが聞こえてきた。
「妙な力……?」
「あぁ、この奥からだ」
珍しく真剣な声音で答えたルディに、ティアレシアも気を引き締める。
「この奥は、寝室だわ」
クリスティアンの私室は、二間続きになっている。奥の部屋は寝室だ。そこに一体何があるというのだろうか。ティアレシアは覚悟を決めて足を踏み出す。足元の花弁と冷たい空気のせいで歩みは遅かったが、寝室へとたどり着いた。
真っ先に目に入ったのは、天蓋つきの大きなベッド。クリスティアン愛用の、可愛らしい薄桃色のベッドだ。誰もいないはずなのに、そのベッドには誰かが寝ていた。天蓋ごしに見えるシルエットに、ティアレシアの心臓がどくんと跳ねた。ありえない。そんなはずはない。そう思いながら、ベッドに近づいた。
「おい、そこに寝てるのって……」
ルディが寝ている人物に気付いたのか、驚きの表情でティアレシアを見る。ティアレシアは、ベッドの上で眠るその人物をはっきりと目に映したまま、ルディの言葉に頷いた。
「えぇ。この人は、
眩い金色の髪、美しく整った顔、白すぎる肌、閉じられたその瞼の奥にあるのは碧色の瞳……処刑されたクリスティアンの亡骸が、ベッドには横たわっていた。
「でも、どうして?」
落とされたはずの首はきれいにつながっており、その身体には傷ひとつない。本当にただ眠っているだけに見える、あまりに美しい亡骸だった。身に着けているのは、真っ白いドレス。まるでウェディングドレスのようだ。
「この死体、魔力で保たれている」
ティアレシアの横から、クリスティアンの亡骸をじっと観察していたルディが言った。
「魔力?」
「これは、俺以外の悪魔が関わっている可能性があるな」
「なんですって……!?」
クリスティアンの魂は、偶然ルディに興味を持たれたからこそ生まれ変わることができた。当然、悪魔はルディ一人ではない、とは思っていた。しかし、ルディのように人間界に降りてどうこうする悪魔が他にもいるとは思わなかった。それも、よりによってクリスティアンの側に。
「誰が、私の身体を……こ、こんな風にしているの?」
処刑されたのだから、立派な墓など期待してはいなかった。しかし、魔力で死んだ当時のまま保存されているのもいい気はしない。
「悪魔と契約している人間だろうな」
「もしかして、シュリーロッド?」
何と言っても、シュリーロッドは〈悪魔の女王〉だ。
「でも、もしシュリーロッドだとしたら、クリスティアンの身体をこんなきれいな状態で残すはずがないわ」
「なら、クリスティアンにきれいでいてほしい奴だろ」
ルディの言葉を聞いて、ティアレシアの脳裏には何故かセドリックの顔が思い浮かんだ。クリスティアンを本気で愛していた、なんて嘘だろう。しかし、あの必死さにはどこか危険な香りがした。セドリックの闇に、クリスティアンは全く気が付かなかった。今も、セドリックのことはよく分からない。
「……ありえない、わ。セドリックはシュリーロッドを選んだのよ」
クリスティアンの亡骸を見つめて、ティアレシアは震える声で言葉を吐いた。
「おい、そのセドリックとやらがここに近づいてるぞ」
「え?」
「ほら、あそこからなら見えるだろ」
ルディがバルコニーを指差して言った。ティアレシアはその言葉を最後まで聞き終えないうちに、バルコニーに走り出していた。
そして、セドリックの姿を認めたティアレシアは動揺を押し隠して口を開く。しかし、目に浮かんだ涙は消すことはできなかった。
「セドリック様、この宮殿でとんでもないものを見てしまいましたわ」
「今すぐに、僕は君のものになる!」
ティアレシアの言葉に対してのセドリックの返事は、理解不能だった。脈絡のない宣言に、ティアレシアは頭を抱えそうになる。セドリックはこんなにも頭がおかしい人間だっただろうか。クリスティアンだった頃、セドリックの必死な表情は見たことがなかった。彼は、いつも完璧な王子様だった。しかし今思えば、クリスティアンのために王子様を演じてくれていただけで、本当はとんでもなく不器用な人なのかもしれない。
「僕を、君のものにしてほしい。なんでもするから、近づくことを許してほしい。君の涙を僕の手で受け止めたい」
ぶつけられるセドリックの思いに、ティアレシアはどう返していいか分からない。この執着がクリスティアンにもわずかにでもあったのならば、あの亡骸についてセドリックが関与している可能性は大いにあり得る。しかも、この場所で見つけてしまったとんでもないものが何か、という質問が一切ない。つまり、セドリックは知っているのだ。ここにクリスティアンの亡骸があることを。
「ルディ」
名を呼ぶだけで、ルディはティアレシアの意図をくみ取ってくれる。セドリックが悪魔の契約者であるか、悪魔であるルディならば調べられる。ティアレシアは、バルコニーからルディとセドリックが話す様子を見つめる。セドリックは何やら反発的な態度でルディの肩をおしやり、宮殿に向かって歩き出した。セドリックの姿が視界から消えると、ルディがすっと隣に現れる。
「あいつは、悪魔の契約者ではない」
「そう、ありがとう……」
そう返して、ティアレシアはクリスティアンの亡骸が眠る場所でセドリックの到着を待った。
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