第17話 心の隙間

 不思議な感覚だった。生と死の狭間をさ迷っていた魂が、急激に生に引き寄せられた、そんな感覚。

 バートロム公爵令嬢ティアレシアに初めて会った時、セドリックは衝撃を受けた。理由は分からない。ただ、感じたのだ。自分を変えてくれる存在だ、と。

『シュリーロッドを消して』

 ――あなたの心から。

 美しい銀色の髪を風になびかせて、ティアレシアが去って行く。

 残された言葉は、セドリックの心に甘く絡みつく。少女の魅惑的な声が、セドリックの思考を止める。知らず、顔が緩んでいた。

 かつて心から愛した人、クリスティアンを思い出す。

「クリスティアン、ついに僕は君以外の人を愛してしまうかもしれない。許してくれるかな?」

 許されるはずがない。そう分かっているのに、穢れを知らない天使のような彼女なら、セドリックに微笑みかけてくれるのではないか、と思ってしまう。どれだけ自分はクリスティアンに甘えているのだろう。

 セドリックを素敵な王子様だと信じて疑わない純真無垢な心を、自分のことよりも他人のことばかり気にする優しい心を、人を憎むことを知らない真っ白な心を、クリスティアンのすべてを、セドリックは愛していた。

 同時に、自分の歪みや黒い心を暴かれやしないかと脅えてもいた。天使のような彼女を穢してしまうのではないか、と思うと恐ろしかった。セドリックはクリスティアンが信じていたような王子様ではない。そのことは、自分が一番よく分かっている。

 初めてクリスティアンに会った時も、第二王子である自分の立場を少しでもアピールしたくて、父からの評価を得たくて、国を動かすほどの実権を握りたくて、優しい王子を演じただけだった。王女なのだから、クリスティアンも同じだと思っていた。

 しかし、クリスティアンは本当に素直で、純粋だった。裏であれこれ考え、万人受けする“王子”を演じていたセドリックにとって、その反応は新鮮で、初めて心から優しくしたいと思えた。その純粋さに恋をした。そして、セドリックから婚約の話を父に持ち出したのだ。クリスティアンの側にいれば、自分も彼女のように純粋な人間に変われると思ったから。しかし、物事はそう簡単にはいかなかった。純粋なクリスティアンは、セドリック以外の者に対しても真っ直ぐだった。女王になれば、クリスティアンはもっと多くの者を虜にしてしまうだろう。

 クリスティアンは、どうしたってセドリックだけのものになってはくれない。

 愛しすぎたから、歯車が狂ってしまった。

 シュリーロッドはきっとセドリックの強すぎる独占欲、心の葛藤、それらに気付いていたのだろう。


『わたくしに協力してくれるなら、クリスティアンをあなただけのものにしてあげるわ』

 嫉妬に狂っていたセドリックは、シュリーロッドの誘惑に簡単に負けた。シュリーロッドの指示に従い、動いた。

 その数日後、国王が暗殺され、クリスティアンが女王になってしまった。話が違う、とシュリーロッドに訴えると、今度はクリスティアンが投獄された。クリスティアンはどんどんセドリックから離れていく。どうすればいいのか、分からなかった。シュリーロッドはもう少し待っていればクリスティアンは帰ってくると言った。セドリックには、待つことしかできなかった。そして、クリスティアンはシュリーロッドの言葉通り戻って来た――首と胴体が離れた状態で。

 あの瞬間から、セドリックの心は何も感じなくなった。

 だから、クリスティアンと同じぐらいの年齢の娘で、心にぽっかりと空いた穴を埋めようとした。クリスティアンだと思って、何人の娘をこの腕に抱いただろうか。どの娘も、クリスティアンと同じではなかったけれど。


(当然だ……僕は、クリスティアンにはキスすらできなかったのだから)

 あまりにも美しいクリスティアンを目の前にすると、邪な心を持つ自分が許せなくて、触れることすらできなかった。自分の心に渦巻くどす黒い独占欲が、きっとクリスティアンを苦しめてしまうから。それに、こんな自分をクリスティアンに知られるぐらいならば死んだ方がましだと思っていた。先に死んでしまったのはクリスティアンだったけれど。

 はじめから、セドリックの心にシュリーロッドなど存在しないのだ。セドリックから愛する人を奪った女を、本気で妻だとは思っていない。しかし、もう他の誰のものにもならないクリスティアンをくれたのも、シュリーロッドだった。だからこそ、セドリックは仮面夫婦を演じている。


「この心からシュリーを消せば、彼女は僕のものになるのかな」

 セドリックは、クリスティアンが好きだったピンク色の薔薇に呟く。そして、やわらかな風に揺れるその花弁を容赦なく握り潰した。セドリックの手の中でぐしゃぐしゃになっている花は、もう誰の目を楽しませることもない。セドリックだけのもの。気の強いティアレシアも、きっとセドリックのものになる。

 笑みを浮かべ、セドリックはティアレシアが歩いて行った方へ足を進める。カラフルな花で彩られたアーチをくぐれば、そこにはかつてクリスティアンと過ごした〈紫黄水晶の宮〉がある。ふと視線を上げると、セドリックの瞳に再び銀色の髪が映った。手を伸ばすが、届かない。当然だ。セドリックは地上にいて、ティアレシアはバルコニーにいる。閉鎖されているはずの宮殿に、どうやって入ったのだろうか。そんな疑問がちらと頭に過ぎったが、すぐにどうでもよくなった。

 早く近づきたい。突き動かされる衝動に、胸の奥が熱くなる。ティアレシアがセドリックに気付き、ふっと頬を緩めた。セドリックを見下ろして微笑むその姿に、どういう訳か泣きたくなった。どうして、そんな哀しい目でセドリックを見るのだろう。

「セドリック様、この宮殿でとんでもないものを見てしまいましたわ」

 あぁ、彼女は”あれ”を見てしまったのだ。だから、哀しい目をしているのだ。下から見上げるセドリックには遠くてよく見えないが、きっとティアレシアは泣いている。

「今すぐに、僕は君のものになる!」

 思わず、そう叫んでいた。自分のものにしたかったのに、考えるよりも先に言葉が出ていた。きっと、これがセドリックの本心だ。自分のものにするのではなく、自分が彼女のものになりたかった。クリスティアンの時も、セドリックが自由に動けないくらい縛り付けてほしかった。あまく優しいぬくもりだけでは、セドリックは満足できない。

 しかし、ティアレシアなら、きっとできるはずだ。ティアレシアは、クリスティアンのように純粋でありながら、強い覚悟と信念を胸に抱いている。闇を知らない娘ではない。明るい表の世界だけしか知らないクリスティアンとは違う。ティアレシアは両方の世界を知っている。そんな気がした。だから、セドリックは自分の立場や身分を捨てて、地に膝をついて懇願した。

「僕を、君のものにしてほしい。なんでもするから、近づくことを許してほしい。君の涙を僕の手で受け止めたい」

 セドリックの叫びに、ティアレシアの表情は固まっていた。

「残念だな、王子様。うちのお嬢様の涙は俺が受け止める」

 感情を殺そうとするティアレシアの姿に見入っていたセドリックの視界に、突如黒いものが舞い降りてきた。視界を遮った者は、黒い服に身を包んだ従者だった。畏怖を覚えるほどに整った顔立ち、自信満々の態度、そして何よりぎらぎらと威嚇するような漆黒の瞳に、セドリックは一歩身を引いた。

「それでもいいってなら、この先へ行け」

 どういう訳か、この不遜な態度をとる従者を見て、セドリックはティアレシアのあの言葉を思い出した。


『私には、もう先約がおりますの』


 ティアレシアのいう先約とは、この男のことではないだろうか。

 憎々しい気持ちで美し過ぎる従者を見つめ、セドリックは立ち上がった。そして、彼の肩をぐいっと横へ押しやって、宮殿の入口を目指した。

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