第16話 好きだった王子様
意地になって馬車も使わずに王城グリンベルに辿り着いたティアレシアは、早速セドリックに会いに行った。すぐに会えるとは思っていなかったのに、何故か彼は門にいてティアレシアを笑顔で迎え入れた。
「いやぁ、ごめんね。シュリーの我儘で侍女になったのに、ろくに侍女の仕事もなくて」
「いえ、女王陛下もお忙しいと思いますので。私にできることがあれば、とこちらに伺ったのです」
侍女の仕事などはなから真面目にするつもりはないが、ティアレシアは謙虚で従順な娘を演じる。
「そうかぁ。でも、公爵令嬢に雑用なんてさせられないよ」
「しかし、せっかく女王陛下にお仕えできるというのに、何もできないのは心苦しいです」
「じゃあ、僕の話し相手になってくれないかな?」
セドリックはあの頃と何も変わらない笑顔で、ティアレシアに問いかける。どのみち、セドリックとは話をするつもりだったのだ。ティアレシアに断る理由はない。
「私でよければ、喜んで」
「じゃあ、少し散歩しながら話をしよう。君のことをいろいろ教えてもらいたいな」
そう言うなり、セドリックはティアレシアの手を取った。どうやらエスコートしてくれるらしい。クリスティアンだった頃は、セドリックに手を引かれるのは当たり前だった。しかし、裏切りを知った今となっては、セドリックに触れられていることに耐えられない。全身に鳥肌が立ち、クリスティアンとして笑っていられた日々が黒く塗りつぶされる。
「どうしたの? 震えているね」
「い、いえ……緊張しているだけですわ」
ティアレシアは必死に笑みを作り、セドリックの手に自分の右手を預けていた。嫌悪感からくる身体の拒否反応を止めることはできなかったが、セドリックの手を振り払いたい衝動は必死で抑えた。
「バートロム公爵家の屋敷は、ジェロンブルクにあるんだよね?」
「えぇ。王都ほどとは言いませんが、ジェロンブルクはとてもいいところですわ」
ジェロンブルクが平和なのは、シュリーロッドの影響から父ジェームスが守っているおかげである。少し嫌味を含めてティアレシアは言ったのだが、セドリックはただ穏やかに聞いていた。
「僕もね、ジェロンブルクには一度は行ってみたいと思っているんだ。バートロム公爵は家族も同然だからね。彼の治める地を見てみたい」
真摯な瞳でそう語るセドリックを見て、ティアレシアの胸はズキズキと痛んだ。かつて憧れた素敵な王子様が、大人になって素敵な国王になって現れたかのような錯覚を起こす。まだクリスティアンの心のどこかでセドリックを好きだという気持ちが残っているのかと自覚すれば、彼が自分を裏切ってシュリーロッドを選んだことに耐えられなくなる。クリスティアンに愛している、と言ったその唇で、シュリーロッドに触れている。そう思うと、胸が締め付けられて、甘かった恋心は復讐の炎を燃やす油になる。
「この庭、きれいだと思わないかい?」
その声に導かれるようにして顔を上げると、そこには赤や黄色、ピンクや白などの様々な色のかわいらしい花が咲き誇っていた。
「僕は毎朝、この庭に来てこの美しくも可愛らしい花たちを見るんだ。あ、これはシュリーには内緒だからね」
セドリックは、口元に人差し指を立てて片目を瞑って見せた。この庭の花は、クリスティアンのものだった。花のアーチをくぐると、クリスティアンの住まいだった〈紫黄水晶の宮〉がある。
だからこそ、ティアレシアの気分は悪くなる。クリスティアンの命を奪う手助けをしたセドリックが、クリスティアンの思い出がたくさん詰まった庭を見て笑っているのだ。
「……とても素敵な庭ですね」
「そうだろう? この庭はね、クリスティアンの庭なんだ。クリスティアンはとても花が好きでね、よくここで話をしたんだ」
愛おしい人を懐かしむように、セドリックはクリスティアンのことを話す。
「クリスティアン女王陛下は、国王暗殺と敵国との内通で処刑されたのですよね?」
自分からクリスティアンの話題を出したくせに、セドリックはティアレシアの言葉を聞いて何故か悲しそうな顔をする。自分が関与しているとも言えないのだから、それぐらいの演技は必要だろう。ティアレシアは冷めた心でセドリックを見る。
「あぁ。とても悲しい出来事だった」
「クリスティアン様のこと、どう思っていらしたんですか?」
「愛していたよ、心から。シュリーのことももちろん大切だが、気付けばいつもこの庭に来てしまう。忘れられないんだ、あの美しい娘のことが」
なんて自分勝手な言い分だろうか。ティアレシアは本気で怒り狂いそうになった。愛していたのならば……何故クリスティアンを守ってくれなかったのか、何故シュリーロッドを選んだのか。
「セドリック様は、自分勝手なのですね」
今度の呟きは、はっきりとセドリックにも届いていた。ティアレシアに向けていた笑顔に、怪訝そうな色が混じる。
「どういう意味だい?」
「愛した人や大切な人がいるのに、他にも女性を囲っていらっしゃるんでしょう?」
王城から帰ってこない娼婦たち。仮面夫婦であるために、セドリックが若い娘を囲っているのではないかという噂。ティアレシアは感情を抑えこんで、噂の真偽に意識を移す。
「私、聞きましたの。セドリック様が若い娘を囲っている、という噂を……」
探るようにエメラルドの双眸を見つめ、意味深ににっこりと笑ってみせると、初めてセドリックの顔から笑みが消えた。
「……君は、本当に僕がそんな男だと?」
「いいえ、ただの噂ですもの。でも、嘘とも言い切れないのではないかと」
ティアレシアは口元に薄く笑みを浮かべたまま、感情のない淡々とした声音で話す。
「どうしてそう思うんだい?」
平静を装って、セドリックがティアレシアにぎこちない笑みを向ける。先程までの自然な笑顔とは明らかに違っていた。
「王城に連れていかれたはずの若い娼婦たちが、誰一人として帰ってきていないようなんです。もしセドリック様がご存じないのでしたら、王城でとんでもないことが行われているかもしれませんわ。女王陛下はこのことをご存じなのかしら? やはり、ご報告した方が……」
「やめろ!」
セドリックがティアレシアの言葉を遮るように叫んだ。焦りを含んだ声と、苦しげに歪んだ表情を見て、ティアレシアはセドリックが関わっていることは間違いないと確信した。
「どうしてですの? まさか本当にセドリック様が女性たちを……?」
ティアレシアは眉根を寄せ、非難じみた視線をセドリックに向ける。
「君はまだ社交界デビューしたばかりで、好奇心が勝ってしまうのはよく分かる。でもね、世の中には知らなくていいことが山ほどある。迂闊に首を突っ込めば、君の美しい身体が血に染まることになるかもしれないよ?」
柔和な態度を崩すことのなかったセドリックだが、追求するティアレシアに対して恐ろしく冷たい眼差しで、脅すような言葉を吐いた。おそらく、これ以上踏み込んではいけない、という警告なのだろうが、そんなものティアレシアは怖くない。
「それは、クリスティアン様のようになる、とおっしゃりたいのでしょうか?」
怯むことなく告げたティアレシアの言葉に、セドリックは表情を硬くした。
「どういう意味だ?」
「セドリック様ならお分かりでしょう?」
「お前は、何を知っている?」
「さあ。私はただの公爵令嬢ですもの」
どんどん激しくなるセドリックの口調にも、ティアレシアは薄く笑ってはぐらかす。何をどこまで知られているか分からない、というのはかなり焦るだろう。いつも余裕の笑みを浮かべるセドリックしか知らなかったティアレシアは、彼が取り乱す姿を見ることができていい気分だった。
「知っていることを何もかも話した方がいい。それとも、僕よりもシュリーに話したいか?」
セドリックはティアレシアの肩に置いていた両手を細い首にかけ、ティアレシアの耳元で囁いた。ティアレシアのことなど簡単に殺すことができる、と言いたいのだろう。普通の令嬢であれば、泣いて助けを求めたはずだ。しかし、ティアレシアはセドリックのことなど怖くはない。脅える様子のないティアレシアを見て、セドリックは怪訝そうな顔をした。
「シュリーに脅えることもなく、この状況でも笑っていられるとは……その澄ました顔が恐怖を浮かべる様を見てみたいな」
シュリーロッドのような言葉を吐いて、セドリックは黒い笑みを浮かべた。クリスティアンには見せることのなかった裏の顔を見た気がした。
「本当におもしろい娘だな。シュリーの侍女にしておくのはもったいない。僕のものにならないか?」
ティアレシアの首に手をかけたまま、セドリックは問いかける。拒否権を与えないようなその問いにも、ティアレシアはただ人形のように冷たい笑みを浮かべて首を横に振る。
「私には、もう先約がおりますの」
ティアレシアは誰のものでもない、ルディのものだ。この魂は、彼のおかげでここに在るのだ。だからこそ、この状況下でもティアレシアは冷静に笑っていられる。
「婚約者か。問題ないな。ヘンヴェール王国の王子で、ブロッキア王国女王の夫だ。悪いようにはしないよ」
「では、どのようになさるのですか? 王城に来た女性と同じように私も世間から消されるのでしょうか?」
「消したのは僕じゃない」
自分が関わっていることを否定することは諦めたのか、セドリックは溜息と共に言葉を吐いた。
「……女王陛下、ですのね」
シュリーロッドは知っていた。セドリックが若い娼婦たちを王城に連れてきていることを。そして、その娘たちを消した。娘たちの生死はまだ分からない。もし生きているのなら、救い出してあげなければならない。
「でも、大丈夫。君だけは僕の側にずっと置いてあげるよ」
急に甘く囁いたかと思うと、ティアレシアの頭を優しく撫でた。その行為に鳥肌が立ち、ティアレシアはセドリックの手をおもいきり払いのけた。女性慣れしたその手が、気持ちが悪い。自分を魅力的な男だと信じ込んでいる様が、気持ち悪い。セドリックと一緒にいて我慢していた嫌悪感と苛立ちに、ティアレシアはついに耐え切れなくなった。
「私に触れないでください。汚らわしい」
「汚らわしい? この僕が?」
「えぇ。セドリック様は誰のことも愛せる。セドリック様には本物の愛がないのです」
クリスティアンに愛していると言ったのも、所詮この程度のことだったのだ。顔も見ずに使者を送り、娼婦を連れてくる。その女性達に何をしていたのかは知りたくもないが、薄っぺらい愛情しかセドリックは持っていないのだ。そんな愛情を大切に胸の中に閉まっていたかつての自分が馬鹿みたいだ。
「ふ、君に僕の何が分かる? 心から愛していた者を失って、僕の心はいつも愛に飢えているんだ。それを埋めてくれる女性を探して何が悪い?」
振りほどいたティアレシアの手を掴み、セドリックが迫ってくる。あまりに自分勝手な物言いに、ティアレシアは言葉を失う。
「でも、君なら……僕の心の隙間を埋めてくれる。初めて君を見た瞬間から、そんな気がしていた。僕の心を満たしてくれないか?」
勝手すぎる。そう一蹴してしまいたい。しかし、セドリックが本気で懇願しているのなら、ティアレシアの手駒にすることができる。怒りで震える身体を抑え、高ぶる感情を抑え、ティアレシアはセドリックに聖母のような笑みを向けた。
「失礼な物言いをした私を許してくださるのですか?」
「あぁ、君の言葉は僕の心を動かしてくれる」
「セドリック様の心に私が入る隙間があるのでしたら、入れてほしいです」
喜びに目を輝かせたセドリックの顔が近づいて来た時、ティアレシアは彼の唇に人差し指で触れた。
「でも、一つ条件がありますわ」
セドリックの口づけを笑顔で拒み、ティアレシアは言った。
「シュリーロッド様を消して」
呆然とするセドリックを残して、ティアレシアはクリスティアンの庭から立ち去った。
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