第10話

 夏休みもあっという間に終わってしまう。八月も下旬に差し掛かり、気がつけばもう九月だ。まだ、やり終えていない学校の課題から目を背ける。三年生だから、てっきり課題はないものだと期待していた。そんなわけもなく、こんもりと出された。教科は国語、数学、英語、それと体育だ。でも、今年は出されても悪い気はしない。

 外へ出ると足が悠介の家へ向かう。道に一輪だけ咲いていたピンク色のコスモスは、咲くには時期が早い、と気づいたのか散ってしまった。もしくは、寒さの厳しい冬を乗り越えて、この夏まで頑張って咲いていたのかもしれない。

 私は高校に入って初めて悠介に話しかけた日のお願いを思い出す。残された時間が分かっているなら後悔のないように過ごしたい。だから、残された三ヶ月で悠介と仲良くしたいと思った。

 十月、残暑のまだ少し垣間見える頃、私はまたこの街を引っ越さなければならない。

 時間がないのだ。夏休みも学校だったらな、と初めて考えた。あの時と同じように引っ越してしまう。

 ありがとう、その一言さえも伝えられなかった。次、会えても同じように話せるのではないか、という甘い考えでいたからだろう。でも、実際は違っていた。

 悠介は私のことを覚えていなかったのだから。

「香月さん?」

「え」

 呼ばれて振り向くと牧野くんが小学生低学年くらいの女の子と手を繋いで立っていた。女の子は肩までの短い黒髪で、白い肌をしていた。それに丸くてクリっとした目が可愛かった。手にはバスケットボールを持っていた。

「こんにちは、やっぱり香月さんだ。何してるの?」

「おつかい頼まれて」

 私は本当のことをいうのが気恥ずかしくて嘘をついた。本当はおつかいなんか頼まれていない。

「妹さん?」

 私は牧野くんの隣に立つ女の子を見て聞いた。

「うん、そうだよ。楓っていうんだ」

 楓というその子は目がお兄ちゃんである牧野くんとそっくりだった。でも、人見知りなのか目を合わせてくれなかった。

「こんにちは、楓ちゃん」

 私は楓ちゃんの前にかがむと、その丸い目と合う。よく見るとその目は泣きはらしたように赤くなっていた。半パンから出る白くて細い足の膝からは赤い血が出ている。傷はかすり傷だった。

「大丈夫? 痛そうだね」

「転んだの」

 楓ちゃんは小さな声で言った。

「ちゃんと前見ずに走って行くからだろ。手、ついてなかったら顔も怪我してただろ?」

 楓ちゃんの手のひらからも少し血が出ていた。

 牧野くんは笑って楓ちゃんの頭をポンポンと叩いた。楓ちゃんは嫌だったのか、その手を払いのけた。

「もう小学生なんだから泣くなよな」

「もう泣いてないもん」

 楓ちゃんは牧野くんを睨みつけて言うが、牧野くんはヘラヘラと笑っていた。面倒見がいいんだろうな。私のお兄ちゃんと大違いだ。

「香月さんは宿題終わった? 俺、やっと半分まで終わったんだよ」

「私もそのくらいかな」

 というのは大嘘だ。本当は半分も終わってない。やっと体育のレポートが終わったところだ。

 流れた汗が地面に落ちる。私は話を逸らそうと空を見上げた。太陽がギラギラとしている。

「それにしても本当に暑いよね」

「そうだな。もう休みも明けるっていうのに、夏休みらしいこと何もしてないや。香月さんは何かした?」

 三人で遊んで以来、悠介と有馬温泉には行ったけど、夏休みらしいことなのかな? 違う気がする。

「私も特に何もしてないなー。何か出来たらいいんだけど」

 もうすぐ、近くの公園でお祭りがあるから、悠介とは行こうと思っているけど。

 学校で話しているのを見られるのは大丈夫なんだけど、二人で遊ぶのを知られるのは少し恥ずかしい。悠介もあまり知られたくないみたいだし。

 前まではあまり気にしていなかったはずなのに。心が乱れる。

「そうだ!」

 牧野くんが良い案を思いついたのか声を上げた。

「夏祭りに行こう。悠介もまじえて」

 え? この辺りでお祭りを行う公園は一つしかない。

「どうかな」

 牧野くんは期待を膨らませたよな目をしていた。

 断ろうした時、一瞬頭をよぎった。悠介と二人で行ったとして、牧野くんと会ったらどうしようか。

 牧野くんに目を向ける。これほど楽しみにしているのだ。楓ちゃんや他の友達と来る可能性だってある。

 牧野くんの目がキラキラとしている。

 まあ、悠介もいるし……。

「全然大丈夫だよ」

「じゃあ、悠介には俺から伝えておくよ」

 その話を聞いていた楓ちゃんが私たちの顔を見る。

「お祭り、楓も行く!」

 握っていた牧野くんの手を握り、揺さぶった。妹が羨ましくなった。こんな可愛い頼まれ方したら、頷くしかできないよ。

 でも、牧野くんはきっぱりと言った。

「楓はお母さんか友達と行って」

 楓ちゃんは不機嫌そうに俯いた。しかし、楓ちゃんはどうしても行きたいらしく、引き下がる様子はなかった。私は別に楓ちゃんがいても気にしないのだけど。

「着物、着たいんだもん。楓も行く」

 着物か。私は着るけど、悠介のどうしよう。持ってないって言ってたし。

 有馬温泉で浴衣を着せたのと同様に、今回も着物を着せさせようと思っている。家にお兄ちゃんのがあったのを覚えている。高校を卒業してから着てないし、ずっと使う様子もない。

 牧野くんに会う前に支度させれば大丈夫だろう。

 私は、楓ちゃんがバスケをしたいというので付き合うことにした。

 しばらくは楽しそうにボールをドリブルさせていたがバスケに飽き、遊具の方に走っていった。牧野くんにゲームをしよう、と誘いを受けた。

 以前、悠介のバスケを見てた時、牧野くんとは一度してみたいと思っていた。

 偶然にも近くの公園にはバスケのゴールがある。一つしかないが、二人での勝負なら十分である。

 一本目は一歩も動かずに、かなりの距離からあっさりとゴールに入れられた。

 ふつふつと滾るやる気が全身に流れた。負けっぱなしは性に合わない。

 二本目、またも一発で決めようと牧野くんは構える。放ったボールはゴールへ緩い弧を描いて飛ぶ。私は両手でブロックした。

「もしかして、香月さんってバレー部だったりした?」

 牧野くんはボールを止められ、苦い顔をした。私は笑ってやった。

 ブロックはあまり得意でなく、アタックを専門的にしていたが経験者には変わりない。素人よりかはマシなブロックが出来る。でも、何よりもジャンプに自信があった。地面を蹴るのではない。地面を押すのだ。それくらいの意識がないと高いジャンプは出せない。

 私は一度地面に落としたオレンジ色のボールをシュートした。



 私が牧野くんたちと別れたのは十試合が終わってからだった。さすがに現役バスケ部には勝てなかったけど、それでも四本は勝ち取った。

 終わった後、二人とも息が切れていた。まさか、こんなすぐに牧野くんと試合できるとは思わなかった。久々に動かした体は、悠介のことを笑えない状態になっていた。

 帰ってからすぐに私はリビングで雑誌を読む母に尋ねた。

「ねえ、お兄ちゃんの着物あったよね」

「お兄ちゃんが、もういらないって言うから友達の息子さんにあげちゃったわよ」

「え、嘘!」

 最悪だ。これじゃ、二人でお祭りに行けたとしても着てもらうことが出来ない。

「もうないの?」

「どうして、一人に二枚着物があるの。必要だったの?」

 お母さんは雑誌から目を離して聞いてきた。

「絶対的に」

「仕方ないなー」

 お母さんは立ち上がって自分の寝室へ行った。そこにある古っぽいタンスの一番下の引き出しを引っ張った。

 実はあったりするの? そう、期待した。

 お母さんは一番上にあった紺色の生地を取り出した。私の喜びは最高潮まで達した。

「着物は自分で作れるのよ。作ってみたらいいじゃない」

 お母さんが出したのは着物の縫われる前の生地だった。肩が落ちる。

「何、腑抜けた顔してるの?」

「そんな簡単に言われても……ていうか完成品の着物が出てくると思ってたのに!」

 お母さんは、教えてあげるから大丈夫だって、と自信満々に言った。

 私は裁縫が得意なわけではない。器用な方でもない。家庭科の成績も普通。人に誇れるような腕前ではない。とは言え、今更やめるのは嫌だ。悠介のためだと思って作る分には、手が血だらけになっても構わない。

「お願いします」

 私はお母さんに頭を下げた。

 やれるだけやってやる。それで失敗しても着てもらう。

 着物作成はその日から始まった。作業は型取りからだ。針を通す前に不器用さは明らかになっていた。



 その数日後、悠介から連絡が来た。お祭りの前夜だった。

『健人からお祭りのこと聞いた。ごめん、行けない』

 携帯の画面にそう表示された。確かに悠介から届いたものだった。

『その日は先に別の予定が入ってて。あと、健人が待ち合わせは公園の入り口で十七時だって』

『分かった』

 私はその一言だけ悠介に送って携帯を閉じた。その後、悠介から返信が来たが無視した。多分、ごめん、とか、ありがとう、とかだからである。そんな言葉はいらないから見ない。言われたくない。

 私は怒っていた。この日まですごく楽しみにしていた。

 勝手だけど、悠介のために縫った浴衣も、昨日の朝に完成させた。失敗したところは何度も糸をほどいて縫い直した。完成品は、私のものと一緒に部屋でハンガーでつるしてある。

 毎日、何時間も作業して、集中して。手の指にはいくつも絆創膏は貼られていた。

 あんなあっさりと。もう、こんなこと最後かもしれないのに。

 悲しいし、苦しいし、悔しいし、ムカつく。

 ベッドに座る。俯く私の目からは涙はでなかった。胸の中のものを抜き取られてしまったかのように空洞のようなものを感じる。自分の嘆きだけが響く。ガランとしていて洞窟の中のようである。

 携帯の着信を知らせる緑色の点滅だけが、電気を消した部屋に光っていた。



「牧野くん」

 家が公園に近いこともあって、公園に行く前から外はお祭り状態だった。近所の小学生たちがスーパーボールを跳ね飛ばして走り回っていた。

 あずき色に金色のラインが入った着物の帯を整える。髪の毛は編み込みポニーテールを揺らし歩く。久しぶりに履く着物用草履は足に合わなくなっていた。右手に小さな籠の鞄を持つ。

 公園の入り口に黒色の着物を来た牧野くんが先についていた。楓ちゃんの姿はなかった。

 こちらに気付いた牧野くんは元気よく手を振っていた。生憎、私は寝不足により気分が優れていない。いつも以上に猫を被っている。

「遅れた、ごめん」

「いいよ」

 牧野くんは優しく笑う。悠介ならありえない。同じセリフを言う悠介を想像するが真顔だった。

「着物、綺麗だね。準備に時間かかったでしょ?」

「すぐだよ。このくらい慣れてるし」

 十七時の空はまだ明るかった。あと一時間もすればすぐに暗くなるだろう。時間の流れが遅く感じる。

「今日は悠介来れなくて残念だよな。家の用事って言ってたし。美幸に謝っといてくれ、ってめっちゃ言われたよ」

 私の機嫌が悪いの見抜いてるのかな。でも、別に怒ってない。

「行こうか、屋台いっぱい出てるよ?」

 私は牧野くんの横を歩く。確かに今年は去年よりも屋台が多い気がする。

 いつも、学校に履いていく靴と違い歩きづらい。歩幅が狭くなる。

「牧野くんは夏休み中も部活行ってたの?」

「うん。でも、練習試合だけだけど」

「いいな、練習試合か」

 私たちは屋台を見回った。

「やっぱり、どこも高いね」

「そうだね。だから小学生の時、お小遣いを祭りのために一年間ため続けてたからね」

「小学生の時か」

 悠介と約束してたんだけどな。やっぱり、違ったんだ。私にとってはとても大きな出来事だった。時が経っても、あの日滑り台の上で悠介に涙を拭ってもらったことは忘れない。

「あ、リンゴ飴!」

 私は、リンゴ飴と書かれた屋台に駆けた。三百円と交換した。

 舌で舐める。甘かった。

「美味しい?」

「美味しいよ。とっても甘いけど大丈夫?」

「リンゴ飴は大丈夫だよ」

 牧野くんも一つ買ったようだ。

 人混みはしんどいな。いつもは大丈夫だけど。吐く。しんどい。

「どこか座れるところに行こうか」

「そうだね」

 こんなに気が狂うのは初めてだな。喜びを知りすぎたからかな。欲張りすぎた。私は時間がないからって悠介に迷惑ばかりかけた。牧野くんにも。

 もう、やめよう。私も限界だ。

 でも、せめて最後の時は、最後だ、って分かって一緒にいたかった。そしたら、後悔せずにさよなら出来たかもしれない。一緒に着物を着て屋台を回って、かき氷を食べて、花火を見て。ちゃんとあの日の感謝を伝える。あの約束があったから私は頑張ってこれたんだって。

 私は屋台の並ぶ公園の広場から出たベンチに着いた。リンゴ飴を食べつつこの二か月を思い返す。牧野くんもリンゴ飴を食べる。その時間だけは時間が静かに動いている。

「私、かき氷も食べたい」

「え、かき氷?」

 私は口を押さえる。

「夏と言えばかき氷だね。俺、食べたくなってきたから買ってくるよ。待ってて」

 私は頷く。牧野くんは歩いて行った。私はベンチに座って、牧野くんの座るスペースに自分の鞄を置いた。

「夏と言えばスイカかな……アイスもいいけど」

 たまらなく懐かしく感じた。

 私は鞄の中の携帯を取り出した。悠介から来ていたメールを開ける。

『美幸は約束を覚えてますか?』

 メールはそれだけだった。

 約束?

 私は予想外の言葉に、心臓が一瞬止まったような気がした。悠介は私のことを覚えていたの? 途端に目まいがした。目の奥がゴロゴロする。脳が揺さぶられるように痛い。

「香月さん!」

「あ、牧野くん。戻って来てたの?」

「大丈夫? 顔、赤いよ。熱あるんじゃない」

 そういえば、少し熱い気がする。でも、それは夏だからだとばかり思っていた。体がだるい。きつく縛った着物の帯を早く外したい。

 私は帰ることにした。牧野くんは、家まで送る、と言ってくれたが断った。帰る前に寄りたい所があるのだ。

 私は悠介と出会った公園へ行った。祭りのせいか、その公園には誰もいなかった。滑り台の上に上る。もうすぐ、花火が始まる。ここから、花火大会の会場はちょっと遠い。だから、この滑り台の上から見る。悠介は知ってるだろうか。ここの滑り台から花火が見えること。

「オコジキサン?」

 私は滑り台の下から聞こえた声に驚いた。

「璃玖、どうしているの?」

「香月、何してるの?」

「たまたま。あの時と一緒」

 私は滑り台から降りた。璃玖はよく分からない。突然、わけの分からないことを言いだす。

「また引っ越すのか?」

 当てずっぽうにしては、確信しているような言い方である。

「引っ越すよ」

「いつ?」

「九月中だって言われた」

 会話は途切れた。

「田中には言ったのか?」

「言わない」

 言ったら甘えてしまう。自分のことだから目に見えるように分かる。

 花火の音が聞こえる。微かに花火の上の部分だけが見えた。昔は見えなかったのにな。

「私、もう帰るね」

「何で、花火終わってないぞ」

「熱あるの。しんどいし、帰ってベッドの中で大人しくしとく」

 璃玖は、お大事に、と言って公園を出て行った。本当に何しに来たんだろう。頭が痛い。これは熱のせいだけではないと思う。私はリンゴ飴を食べながら、履き慣れない着物用草履の鼻緒が当たって痛むのを堪えた。

 帰ってからはラフな部屋着に着替えてクーラーの付いた自室のベッドに倒れた。体温計で体温を測るのも面倒だった。氷を一つ口の中で転がすことで体温が下がらないか、と思いながら涼しい部屋で体を休ませた。

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