第9話

 俺が美幸に連絡したのは、美幸と健人が俺の家に来てから一週間後だった。

 今日は家に俺しかいない。両親は朝から仕事に出かけた。俺は昼まで夢の中にいた。かといって、起きてからすることがあったわけではない。

 部屋のベッドの上でゴロゴロする時間は時として暇に思えてしまう。読み終わった漫画を机の上に置き、窓の外を見る。

 天気は大雨。警報でも出ていそうだ。一階のリビングへ行けば情報は得られるが、どうせ家にいるのだから知る必要はなかった。

 充電器にさしっぱなしだった携帯を取り、昨日の返事をすることにした。

『どこかの喫茶店でいいんじゃないかな』

 美幸から返事はすぐにきた。

『冗談はなし!』

 割と本気で言ったのだが、候補にすら入れられなかった。

 俺は八月に入ることを早く感じた。

 最近、自分の周りがうるさすぎて目まぐるしく感じる。でも、充実していると思わされる。その証拠に体は軽く、感情を表に出すようになった。思い返すと少しばかり納得がいかない。

『もう、八月に入っちゃうね。時間がないから早く決めよう。あみだくじでいい?』

 昨日の美幸が決めていた候補からか。別に決めてくれた方が楽だし。

『いいよ』

『決定しました』

 俺の返事と同時に着信が入った。メールを打ちながらすでに始めていたな。聞く意味ないな。

 俺の携帯に決定した行き先が送られてきた。



 バスを降りた俺たちは周りを見渡す。

 十日前の悪天候が嘘のようにカラりと晴れる。

「有馬温泉か」

「文句言わないでよ」

 美幸の耳につけている黄色の何かが揺れる。

「ピアス?」

 俺は耳を指して聞いた。

「そんなわけないじゃん。校則で禁止されてるし。イヤリングだよ」

 そんなものつける意味アルのか? 今日は温泉に入るから失くしそうだな。

 俺も美幸も有馬温泉へ来るのは初めてだ。ここまで来るのに二時間もかかった。

 現在は朝の十時。今日のプランは美幸が練ってきているようだ。俺は一切調べていない。

「まずはこの辺り歩いてみよう」

「温泉に入らないの?」

「まあ、そう焦らないで。時間はあるんだし」

 美幸は、行くよー、とノリノリで歩き出す。木でできた橋を渡る。京都にありそうな古風な感じだった。渡ると湯けむり広場というところに出た。

「見てみて、あれ誰の銅像かな」

 美幸はそのすぐ近くにある、正座をしている偉そうな人の銅像を指さして横断歩道を走っていった。

「太閤秀吉像?」

「豊臣秀吉だね」

 豊臣秀吉が湯治に訪れていたっていうのは何かのテレビで見たことがある。きっとそれなのであるのだろう。

「大阪でも豊臣秀吉公銅像は見たことあるけど、こんなところにもあるんだね」

 美幸は喜んで写真を撮っていた。

「ほら悠介、秀吉様の隣に立ってよ」

「俺は撮らなくていいよ」

「思い出でしょ、早く」

 俺はしぶしぶ豊臣秀吉の横に立った。美幸は撮った写真を見ながら、もっと笑いなよ、と笑った。

「カメラを向けられると構えてしまうんだよ」

「うそー、私なんか証明写真撮る時、笑いこらえないといけないんだよ?」

 そう言って、自分の筋肉を手で押さえつける。

 その顔が面白くて、笑いがこぼれた。美幸も押さえつけた手を放して笑う。

「悠介って笑ったらエクボできるよね」

「そうなのか」

 知らなかった。俺は自分の口元を押さえてみる。

「そういう顔してればいいのに。感じ良いよ?」

 今の笑っていない顔からはエクボは消えていた。

「そうだ! お互いに写真撮ろうよ。私は悠介を撮るから悠介は私を撮ってよ」

「いいよ」

 俺は自分の携帯を鞄から取り出して、美幸に向けてみた。美幸は快くピースサインをこちらに突き出しす。

「この調子でどんどん行くよー!」

 夏休みということもあり、観光客がいっぱいいた。日本人が多数だが外国人も少なくなかった。

「日傘持ってこればよかったー」

 美幸は持ってきていたお茶を鞄から取り出して飲んだ。

「日焼け止めは塗ってきたけど。悠介はちゃんと日焼け止め塗ってきた?」

「塗ってない」

「焦げるよー」

 焦げはしないだろ。

 でも、今年は去年よりは日焼けするだろうな。

「見て、あっちに赤い橋があるよ」

 赤い橋の前に行ってみると、また銅像があった。今度は女性の銅像だ。これは誰だろう。

「ねね様だって」

「誰それ?」

 そんな人いたっけ。

「秀吉様の正妻だよ」

「ねね様、そうなんだ」

 知らないな。そんなに有名なのか? 一応、写真撮っておくか。

 赤い欄干のねね橋を渡り、温泉に向かう。

 五分ほど歩くと茶色い板に金色の字で、金の湯、と書かれている建物に着いた。

「ここだね」

「温泉とか久しぶりだな」

「私も。小学生以来だもん」

 三十分ほど散策し、建物の中で靴を開いている鍵付きのロッカーに入れる。

 入浴券を自動販売機で買って受付に持っていくようだ。

「大人は六百五十円だね」

「そうみたいだね」

 入浴料を払い終わると、暖簾へ向かう足が止まった。。

「じゃあ、一時間後に休憩ロビーでいい? 短いかな」

「いや、大丈夫」

「あ、携帯持ってたよね」

 美幸はそう確認すると大学ノートの表紙ほどの大きさの、何か入ったビニール袋を取り出して俺に押し付けて走った。

「じゃあ、ここで一時間後ねー」

 受け取るべきでないものを押し付けられたのではないか。俺の慌てる様子をカメラに収めて行ってしまった。

「何なんだよ」

 俺はロビーにあった、ここの湯の効能を見つけて入る前に一応見ておくことにした。いろんな効果がある。こんなにあるのか。

「筋肉痛か」

 夏休み前にしたバスケを思い出す。他にも冷え性があった。

 冷え性だからな。これに効き目が合ったら毎年、通いたいものだ。

 他も目を通したが俺には関係なかった。

「俺も入ろう」

 二階で、一応美幸に渡されたものを確認した。

「これって……」



 湯加減は少しばかり熱かった。あんまり長く入るとのぼせてしまいそうだったので、十五分も浸からないうちにあがってしまった。髪を乾かしたりしても三十分強でロビーに戻ってこれた。

 俺はロビーの椅子に座って美幸を待つことにした。

 美幸に去り際、渡されたビニールの中は鉄紺の浴衣だった。

 着ないと、後からさんざん文句を言われて着ないといけなくなる。だったら最初から大人しく借りておく。

 着たことがなかったから、携帯で調べながら着た。とは言え、特別難しいわけではなかった。

「早かったね!」

 美幸の声がして顔を上げた。

「浴衣、ちゃんと着れててよかった。サイズも問題なさそうだね。」

 美幸は山吹色の生地に紺色の花が刺繍された浴衣を来ていた。帯も俺より綺麗にしばれている。いつもおろしている長い髪は簪でまとめ上げていた。

 美幸は俺が着ている浴衣に手をかけ、襟のしわを伸ばした。その時、ローズの匂いがふんわりとした。

 いつも騒がしい美幸だが、大人の女性に見えた。

 朝、イヤリングを見た時、そう思わなかった。俺の家に来た時も、メイクをしていたが気付いても美幸の印象が変わることはなかった。

「どう? 似合ってるでしょ」

 美幸はクルッとまわって見せた。

「似合ってる」

「本当?」

 キャーっとわざとらしく言って両手で頬を押さえた。

「何か食べに行こう」

「そうだね。昼ご飯、まだだもんね。じゃあ、行こうか」

「どこに?」

「悠介はお蕎麦、好き?」

 お蕎麦屋さんに行くのか。

 金の湯を出て、俺は美幸の横を歩く。

 浴衣で歩く人は他にもいるが、どうしても周りの目が気になってしかたない。

「悠介!」

 美幸に呼ばれて顔を横に向けると、カシャッとカメラを向けてニッとしていた。

「五つ目のお願い」

「はい!」

 美幸の歩くスピードが遅くなった。美幸の目は前でなく俺の目を見ていた。息をのむ音が人の声に紛れて聞こえなかった。

「今日、俺の写真はもう撮らないこと」

「何で? そんなに嫌だったの?」

 別に嫌だったとかではないけど。

 美幸が俺の顔を覗き込む。いつもは平然としていられるが、今日は目を背けてしまう。よく分からないが、美幸の目に吸い込まれてしまいそうなのだ。

 満足出来なさそうではあったが、このお願いを取り下げるわけにはいかず、しぶしぶ口をつぐんだ。

「分かった。でも、悠介は私を撮ってくれるんでしょ?」

 そこまでは断る必要がなかった。

「それは、いいよ」

「でも、本当に嬉しい」

「何が?」

「全部」

 美幸は左の空に浮かぶ白い雲の方を見つめて言う。本当に雲を見ているのかは分からないけど。たぶん、雲なんて見ていない。

「何かあった?」

「え」

 健人を追いかけていた日の不審だった美幸に声をかけたあの時と同じだった。驚いていた。そして、何か言いたげな顔でもあった。

 俺は正直、その反応に困ってしまう。

 美幸は平然として聞き返してきた。

「何かって?」

「いや、思い違いだった」

「そっか。あ、よい湯まんじゅう!」

 美幸は、温泉饅頭の売っている店に入って行った。

「二つくださいな」

 美幸は店の人に頼んだ。

「昼ご飯、食べた後のほうがいいんじゃない?」

「固いこと言わない。大丈夫だよ」

 目の前のお饅頭を蒸している蓋が開けられ、モクモクと湯気が現れる。その中に、黒糖のような色をしたお饅頭を二つ取り出し、紙にはさんでくれた。

 一つ、八十円だった。

「ほら。お一つ、どうぞ」

 美幸は二つのうち、一つを俺に渡した。

「いいよ、買ったの美幸だし」

「早く、熱いんだから」

「ありがとう」

 受け取ったお饅頭は確かに熱かった。でも、味は美味しかった。

 美幸も熱そうに指を動かしながら、お饅頭を手で半分に割って食べていた。

 俺たちはまた歩き出した。

「でも、甘さが足りないよねー。控えめなところが売りなんだろうけど」

「そうだな」

 まあ、これはこれで全然美味しい。大きく口を開ければ一口で食べられるが、三口に分けて食べた。美幸の方は一口で食べていた。

「たぶん、もうすぐだと思うんだけど……あれは何かな?」

 また、美幸は別の店に入って行った。団子か。

 美幸は、片っ端からメニューをよんで言った。

「みたらし団子と焼き餅と金泉だんごと銀泉だんごを一つずつください」

「どれだけ食べるんだよ」

「大丈夫、帰りに食べる分込みだから」

 買った団子は全部、鞄に入れる。しかし、焼き餅は自分の手に持って、パクパクと食べた。

「ん、あった。あそこだよ」

「着いたか」

 蕎麦 土山人。

 店内は喫茶店のような感じだった。シックな雰囲気だ。

 店は混んでいず、すんなりと入ることが出来た。美幸はすでに食べるものを決めていたようで、メニューも見なかった。

 店員さんが注文を取りにきた。

「俺はかけ蕎麦で」

「私はすだち蕎麦で」

 店員さんは笑顔で注文を取って、厨房へ戻っていった。

「悠介はどこか行きたい所ある?」

「何があるか分からないからな」

「調べていないの?」

 俺が黙ると、呆れられた。

「日帰りとはいえ、そのやる気のなさはね」

 店内にお客さんが行き来する。

 しばらく待つと、目の前に俺たちの頼んだものがきた。俺のものには湯気がたっていた。熱そうだ。

「本当にすだちでお蕎麦が見えない!」

 美幸のものには、お蕎麦の上に大量の薄くスライスされたすだちが乗せられていた。色合いがすごく綺麗だ。

 俺が割りばしを割り食べようとすると止められた。

「どうした?」

「写真撮ろう。ほら、撮って」

 五つ目のお願いを思い出した。俺は携帯を取り出して、美幸にピントを合わせる。

「悠介も映ってよ」

 俺は携帯を持ち換えて一枚撮る。

「ブレてない?」

「大丈夫」

 美幸は、食べるぞー、と謎の気合を入れて、箸ですだちの中からお蕎麦をつまみ上げた。俺も、お蕎麦をすする。

「おいひー」

「おいしいね」

 美幸は俺と違いよく笑う。でも、カメラを向けれなかった。でも、度々美幸は、写真を撮ろう、と言う。絶対に美幸からは撮ってこなかった。お願いだから。

 客の入れ替わりがほとんどなくなるころ、俺たちも店を出た。

「お土産、見たいな。湯本坂、歩こうか。食後の散歩」

 異論はない。

 慣れてきた浴衣の袖から涼しい風が流れた。

 まるで美幸は知り慣れた道を歩くようだった。俺にはどこからが湯本坂かすら分からない。ただ、人とすれ違う中で興味を引くものを美幸と話しながら、何も考えずに歩くだけだった。



「もう、十六時か」

 美幸は腕時計を見て言った。

「かなり歩いたな」

「うん、お土産はもう十分だよ。ちょっと休憩しない?」

 そう言って向かったのは甘味屋さんのようなところだった。

「お豆腐屋さんのソフトクリームだよ。美味しいんだって」

「豆乳ソフト」

「一番ノーマルのだね。私はどうしようかなー」

 美幸は迷って、俺と同じものにした。

 あまり空いてはいなかったが、店の中にある椅子に肩を並べて座って食べることにした。

「甘い」

 もっと豆腐の味が強調されているのかと思っていた。まろやかな舌触りだ。

「本当だー。悠介――」

「写真でしょ?」

 美幸はニッと笑った。

 今回の旅で美幸がよく食べ、かつそのスピードが速いことを知った。今も、俺がやっとコーンを食べようとしているところなのに、美幸はコーンの半分まで食べていた。

 食べ終わった後は行く先々で一緒に写真を撮った。俺が、もういいよ、と断っても、思い出だよ! と言い半強制的に撮らされた。それでも、言うことを聞いたのは、俺に心境の変化があったからかもしれない。

 帰りも行きと同じで二時間かかるので五時にはここを出た。

「楽しかった?」

 帰りの電車で美幸に聞かれた。

「楽しかった……」

 言葉が続かなかった。別に、恥ずかしかったわけではない。けど、言葉にならない思いが心の中で煮えていた。

「私も楽しかった」

 帰り道はお互いに撮った写真を見ながら帰った。

「悠介、目つぶってるよ」

「美幸が悪い」

「え! 私が悪いの?」

 そうやって、互いに馬鹿にし合って美幸は寝てしまった。俺の瞼もかなり重く感じるようになった。いつの間にか俺も寝ていた。

 俺は目的の駅に着く前に意識が戻った。でも、すぐに目をつぶった。

「欲張っちゃうな、私」

 先に起きていた美幸の声が聞こえた気がしたからだ。

 何の話か全く分からなかった。でも、声のトーンはさっきとは全然違っていた。だから、狸寝入りをしていた。でも、それに気づいていたのか、まったく何も話さなくなった。

 目的の駅について、電車から降りると二人だけだった車両には誰もいなくなった。

 ホームを出て、改札の前で向かい合った。

「今日はありがとう」

「こちらこそ」

「悠介」

 美幸はしばらく黙っていた。

「やっぱり何かあった?」

 俺がそう聞くと、美幸は迷ったように言った。

「やっぱり、覚えてないの?」

 何をだろう。

 美幸は俺が返事に困っていることを察して、お祭りの日はまた連絡するから、と笑った。

「じゃあね」

 美幸は笑っていた。俺も作り笑顔でいいから、そんな顔が出来たらよかったのに。もしかして、と思う気持ちが邪魔をしているのかもしれない。

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