第8話
夏休みに入って三日が経った。約束の日が待ち遠しかった。その日が来るまで毎日、部屋の壁にかかっているカレンダーと睨めっこした。
「やっと二十三日だ。今日かー」
いよいよだ。一人、緊張が高まる。もうすぐ待ち合わせの時間だ。私は玄関前の鏡で自分がおかしくないか確認する。慣れていないメイクは濃すぎないだろうか。昨日選んだ、淡い水色のワンピースは大丈夫だろうか。昨日切った前髪はガタガタじゃないか。
いらぬところまで気になってしまう。枝毛一つ見つけてしまえば、入念な確認はより一層強化される。
時間が許す限り私は鏡の前で確認した。待ち合わせの十一時はもう迫っている。
「大丈夫かな」
私は待ち合わせの公園に行く前に洋菓子店に寄って行った。歩くスピードを上げて公園に向う。
先に公園に来ていたのは牧野くんだった。牧野くんはキャップをかぶって、公園を囲うフェンスにもたれかかっていた。
「牧野くん、こんにちは」
「こんにちは。悠介はまだだよ」
「よかった。それにしても、暑いね」
日差しが容赦なく降り注ぐ。私たちは木陰に入って悠介を待った。蝉の声がやたらうるさかい。汗をハンカチで拭うときにファンデーションも落ちてしまう。
「あ、悠介来たよ」
私は牧野くんに言われて顔を上げる。
「ごめん、遅れた」
悠介はシャツと半パンとラフな服装で来た。
「大丈夫だよ、私たちもさっき来たところだし」
「そうそう。さあ、行こう」
私は二人の後に続くようにして歩く。早く涼しい部屋へ行きたい。
「大丈夫、香月さん? 元気ないっぽいけど」
振り向いた牧野くんが私に聞いた。緊張しすぎてるせいか、いつものように明るく振る舞えない。
「全然大丈夫。緊張してきたから」
「何も緊張するような家じゃないぞ」
悠介は呆れたように言う。私だってここまで緊張する予定じゃなかった。
歩いて十分ほどして悠介の家に着いた。住宅地の中に並ぶ、普通の一軒家だった。表札には隷書で、田中と書いてあった。
悠介は私に心の準備をする時間すら与えずに、さっさと家に入って行ってしまった。牧野くんも普通に入って行った。
「いらっしゃい」
悠介のお母さんが向かえてくれた。イメージと違う。悠介と全然違うからかもしれない。
「こんにちは、香月美幸です」
「こんにちは、お構いできないけどゆっくりしていってね。美幸ちゃん」
悠介くんのお母さんはニコリとほほ笑んだ。
「これ、心ばかりの物ですが良かったらご家族で召し上がってください」
「いいの? ありがとう」
私は洋菓子店で買ったマカロンを紙袋から出して手渡した。
肩から力が抜けた。
「健人くん、久しぶりね」
「ご無沙汰してます」
「また、身長伸びた?」
悠介のお母さんは手のひらを自分の頭上に言った。
「少しだけですよ」
牧野くんは笑った。私もあれくらい普通に話せたらな。そう思っていると、その様子を一通り見ていた悠介と目が合った。
「上がったら?」
「うん、お邪魔します」
私は靴を脱ぎ、そろえた。私たちは階段を上る悠介の後を追った。
悠介の姿が見えなくなった階段に向かって、悠介のお母さんが頼んだ。
「悠介、お茶を取りに来てね」
「分かった」
悠介は自分の部屋の扉を開ける。クーラーがついていて涼しい。
「どうぞ」
何となく頭を下げるようにして入る。部屋にはほとんど物がなく、すっきりとしていた。勉強机とベッド、本棚しかなかった。フローリングの床は冷たくて気持ちかった。
「変わってないなー」
牧野くんはクーラーの前に立つ。
「お茶取ってくるから適当に座ってて」
「うん」
私は今いる、扉に近いところに鞄を置き、座った。
「健人、机出しといてほしい」
「了解」
悠介はまた階段を下りて行った。牧野くんは本棚の横に立てかけてある、折りたたみの丸机を取り出し、部屋の真ん中に持ってくる。
戻ってきた悠介はグラスに入った麦茶と三つのイチゴのショートケーキを持ってきた。
「本当に何もないよ、俺の家」
私は部屋の中を見渡した。
「卒業アルバムは? 中学校の」
「見るの? 美幸、分からないでしょ」
「知ってる人いるかもしれないでしょ」
悠介は仕方なく本棚の一番下から雑誌に混じって入っていたアルバムを取り出して、丸机の真ん中に置いた。
「懐かしー、卒業以来見てないな」
牧野くんは懐かしみ、ページを開く。
「二人は何組だったの?」
「俺は三組で、悠介が一組だったよな」
私はイチゴのショートケーキを口にはこびながら聞いた。
「うん。でも、健人はしょっちゅう一組に来てたから一部の二組の人には一組だって思われてたよな」
「そうそう、俺は勘違いされることが多かったんだよな。バスケ部なのに、バレー部に遊びに行ってたら間違えて練習試合に連れていかれそうだったこととか」
「牧野くん、バレーできるの?」
私は嬉しくて前のめりになった。バスケ部もバレー部も同じ体育館で活動する。だから、一番目に入る。それ故に互いに興味を持っても仕方がない!
「健人は何でもできるぞ」
「そんなことないよ」
牧野くんが謙遜しているようにしか見えない。根拠はないが、出来そうな余裕が牧野くんの笑いから見える。
牧野くんはアルバムのページをめくっていく。
「ここからクラスごとの写真だね。一組!」
私はアルバムを覗き込んだ。
「悠介、髪の毛短い! 幼いね」
「部活してたから、短髪だったな」
今はどちらかと言えば、ふさっとしている。何だか面白くもない仏頂面なのに笑ってしまう私を見る悠介の顔が、アルバムと同じ仏頂面で余計におかしくなる。
「俺はもういいだろ」
悠介はアルバムのページを三組までめくる。
「これ、牧野くん? メガネかけてたんだ。雰囲気違うね」
「たまにね。部活引退するまでは今もだけどコンタクトだったよ。この写真を撮ったときはすでに部活引退してたから」
私の知らない頃の悠介を見るのは楽しかった。
「部活動の写真はないの?」
「あるよ、ほら」
牧野くんはページをめくる。
「悠介がユニフォーム来てる」
新鮮だ。こう見るとスポーツマンに見えてしまう。不思議と制服よりも似合ってる。
「懐かしいな」
「悠介、朝弱かったからなー。朝練、サボりまくってたな」
悠介って朝弱いんだ。朝練とか私は楽しみで飛び起きてたけどな。
「それは今の健人だって変わらないだろ」
「それは……」
私は牧野くんが黙ったので、璃玖のことを思い出した。
「璃玖と何かあったの?」
牧野くんの顔が私に向けられる。香月さんこそ何を知ってるんだ、とでも言いたげだ。私は何も知らない。
「まあ、悠介のことも香月さんのことも信頼してるしいいかな」
「璃玖って誰?」
悠介の疑問に牧野くんはため息をついて教える。
「あのバスケ部だよ。ほら、以前香月さんとうちの教室で話してた」
「あ、分かった」
私もその時のことは覚えていた。悠介はそれで璃玖の顔を知っているのか。最近は璃玖を警戒することが多くなった。とは言っても会ったら挨拶する程度しか話してない。
「田所は俺を敵視してるんだよ」
よかった。別にバスケが嫌いなわけじゃないんだ。
「仲悪そうだったもんな」
「まあ、関わりたくないんだよな。顧問の先生がいる時は大丈夫なんだけど、生徒だけの時は練習にならないから」
「何かされたりしてない?」
「殴るとか蹴るとかはないよ。パス練習の時にわざとボールをぶつけられることはあるけど。まともな練習をさせてもらえないだけだから。ちっぽけだよな」
ニッコリと笑って見せる牧野くんを見るのはしんどかった。だって、璃玖たちと会ってる時の牧野くんは別人のような顔をするんだもの。それって――。
「健人が本気でバスケしたいからだろ?」
「私もそうだと思うよ。一回だけど、牧野くんがバスケしてる時キラキラしてたもん!」
牧野くんは照れたようにして、頭を掻いた。
何で璃玖は牧野くんを敵視してるかなんて本当の理由は知らないけど、きっと璃玖は羨ましいんだよ。楽しんでバスケをする牧野くんがどんどん上達していく姿に。
「ありがとう。別に部活で練習出来なくても、近所の小学生に混じって公園とかで練習してるからな」
「練習相手になるのか?」
悠介に聞かれて、この前は小学六年生に五点も決まられた! と言って笑われていた。
「情けないな」
「悠介もやれば分かるって。あれは将来大会とかで上位に勝ち上がっていくぞ」
私たちはイチゴのショートケーキを食べる。
アルバムをめくっていき、いろいろな写真を見る。修学旅行や体育大会、文化発表会。最後の方にはメッセージを書けるフリースペースがあった。
「いっぱい書いてある。悠介のことだから牧野くんだけかと思った」
「本当だ。でも、これあれじゃん」
一瞬、驚きを見せた牧野くんは説明しだした。
「これ、部員で書こう、ってなってアルバムを回しながら書いたんだよ」
「じゃあ、これクラスの人とか友達だとかじゃないんだ」
私は、やっぱり悠介だな、と思った。悠介は反論出来ず、ただイチゴのショートケーキを食べていた。
「生クリーム足りないな、このケーキ」
「え、十分だろ。俺は生クリーム苦手だから、多いくらいだよ」
甘党の悠介に反論する。でも、悠介の言い分はよく分かる。私も市販のケーキでは甘さが物足りない時がある。
「私も足りないなー」
「二人とも甘党だったもんね」
「私、家で食べる時はホイップクリームと砂糖を上からかけて、ショートケーキだとハチミツもかけて食べるよ」
「……それいいかも」
悠介は珍しく私の意見にかたよった。次はそれしてみよう、と言い軽く頷いていた。
「吐きそうだよ。何その拷問並みにやばそうなの」
牧野くんは想像して、本当に気分を悪そうにしていた。
「ホイップと砂糖と何だっけ?」
「ハチミツだよ」
悠介は明日にでも実行しそうだ。
そんなに喜んでくれるとは思わなかった。
「二人とも病気になるよ」
牧野くんの心配をそっちのけで私は満足していた。お土産に持ってきたの、マカロンにしてよかった。夏休み中にスイーツバイキングに行くのもありだな。それなら悠介も喜んで来てくれるだろう。
あんまり人の家に長居するのも良くないので五時頃にお暇することにした。
悠介のお母さんは、もっといても良いのに、と言ってくれたが甘えるわけにもいかなかった。
悠介は見送る、といい私たちと一緒に待ち合わせ場所だった公園まで来てくれた。クーラーのついた部屋から出て、ものの数分後にはまたクーラーが恋しくなる。その途中で牧野くんとはお別れになった。私は公園に着く前に取り付けたい約束があったのを思い出した。
「そういえば、悠介はどこに行きたい?」
「どこって、やっぱり行くの?」
「そりゃあ、行くよ! 私、楽しみにしてるんだから」
道に一輪だけ咲くピンク色のコスモスが不思議で目に入った。
「行くなら近くがいい」
「うん。日帰りで探してるんだ。そしたら、行きたい所がどんどん増えてきて……」
「一つにしてよ」
分かってる。私だって何回も行ける余裕なんてない。それに時間もない。
「とりあえず、もう少し考えてみたいから連絡先交換しない?」
「いいけど」
私は悠介と連絡先を交換した。とにかく、これで連絡手段が出来た。あとは、行く場所を決めるのみ。
メールで迷っている候補を送ってみた。
『六甲山、有馬温泉、嵐山、友ヶ島、竹田城跡、天橋立、熊野古道、城崎温泉』
メールに気付いた悠介は、何これ、と心底どうでもよさそうに言った。せめて乗り気じゃなくても、考えようとしてほしいものだ。
「近くだとこの辺りがいいなーって思って。ここ良いなって思ったらいつでもメールしてね」
「分かった」
暗くもないのに、公園まで送ってくれた悠介は来た道を引き返して家へ帰って行った。私は携帯を握りしめ、足取り軽く、夏の日差しの下を歩いて帰った。
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