第4話

 私は三日前の出来事が悪い夢であってほしいと思いながらベッドから起き上がった。頭に流れる悠介の声が私に、ごめんと言った。

 その言葉はどちらに言ったのだろうか。

 シャーペンを落としたこと? それとも、しばらく話しかけないでほしい、といったこと?

 分からなかった。悠介が突然、おかしくなった。まるで重病にかかってしまったかのように。

 ああなるのなら、放課後、引き留めなければよかったのかな。

 学校へ足が進まないのはあの頃と一緒だ。理由は違えど、人間関係だということに違いはない。



 私は引っ越してから、なれない土地の子たちの中に放り込まれた。

 中学生のときは周りの人と合わせるのが苦手だった。どうしても、気を悪くさせないようにと、考えすぎてしまう。その結果、周りは私に気を遣うようになって離れていく。

「何か美幸って、私らと友達でいたいって感じしないよね」

「分かる。表面上でしか関わらないって感じあるし」

 なかなか馴染めなくて、よく馴れない公園へ行ってた。場所は違うのに不思議だった。そこへ行くといつも悠介を思い出す。

「悠介くん」

 早くあそこへ帰りたい。ここは息苦しい。戻ってもそうかもしれない。けど、悠介と会いたい、そう願っていた。

 そして中学生も残り二ヶ月。卒業をしたら、周りから完全に孤立した私は帰れることになった。待ち望んでいた私は跳んで喜んだ。

 けれど、この数年で私はだいぶん変わってしまった。人に好かれるように、と自分を偽る癖がついてしまった。だから、本当は戻るのも不安だ。

 学校からの帰り道、私は公園へ行った。人はおらず貸し切り状態だった。普段は小学生の子どもたちが遊んでいる滑り台も今日は空いていた。

 私は周りに人がいないか確認して滑り台の階段に足をかけた。

「久しぶりだな、滑り台」

 私は最後の階段を上ると持っていた鞄を足元に置いた。冬の冷たい風が吹いていたはずなのに、そんなことがどうにでも良くなるくらいに気分は穏やかだった。

 すると、こちらに向かって声が聞こえた。

「オコジキサン?」

 私は滑り台から下を見下ろした。



「遅刻する!」

 突然なった携帯のアラームに私の目が冴える。考え込んでたら時間がギリギリになっていた。私は早急に支度をした。

 玄関前の鏡で身だしなみを整える。長い後ろ髪をゴムでくくり上げる。

 学校を休むのはだめだ。そう、自分に言い聞かせる。

 重たい足を持ち上げ歩くが気分は優れない。昨日、四時ごろまで寝れなかったのもあるだろう。それでも、普通にしていないといけない。平然としていないと。昨日だって、そうやって乗り切ったのだ。

 教室の扉を開ける。教室にはほとんどの人がすでに来ていたのに、一番先に目につくのは悠介だった。そこにいるのに声をかけれないのがもどかしい。

 悠介は一人で授業の準備をしていた。そこに牧野くんが話しかけに行っている。

 もう時間もないのに。誰かと上手くいかないのは高校に入ってから、上手くいくように改善したはずなのに。こんなのは久しぶりだ。

「香月? おはよう」

「あ、璃玖おはよう」

 廊下から顔を出したのは隣のクラスの田所璃玖たどころりくだった。昔、私の引っ越し先の公園で出会った人だった。そして、悠介を知っている人だった。



 オコジキサン?

 突然投げかけられた言葉に驚いた。私は滑り台の下にいる人を見た。男の人。制服を着ていた。中学生? 誰だろう。

 私は滑り台から下りた。すると、その人は話し出した。

「僕、昨日引っ越してきたばかりなんだけど、前いたとこの公園でさ滑り台の下に毎日来ている同級生がいて。遊ぶわけじゃないんだよ」

「そうだったんですか」

「君、昨日も滑り台のところに来てたでしょ?」

 私は、昨日は滑り台に上っていない、と思いながら頷いた。今更ながら、滑り台で遊んでいるようで少し恥ずかしくなった。

「毎日来ていた子は誰かを待っていたんでしょうか?」

「友達を待ってるとか言ってた気がする」

 別に特別なことじゃないじゃないか。私だって、友達を公園で待っていたことくらいある。

「だから、皆そいつをオコジキサンって呼んでたんだよ」

 ひどい話だな。いじめじゃないか。

 私は暇をつぶすようにして璃玖と名のるその人と話していた。寒いので、風の封じられたところへ行きたい、と思いながらも、寒さを感じてなさそうな璃玖と一緒に公園のベンチに座った。

「私も引っ越してきたの。もう六年前の話なんだけど」

 そこで初めて悠介の話を璃玖にした。

 会いたい思いが溢れかえった。

「オコジキサンだったりしてなー、そいつ」

「どうだろうね、田中悠介っていうの」

 私の言葉に璃玖は、えっ、と言った。

「同姓同名?」

「どういうこと」

「田中悠介だよ、オコジキサン」

 話を聞いて驚いた。私は小学校が同じだった。悠介がオコジキサンと呼ばれるようになったのは私が引っ越した後からだったようだ。

「一か月とか二か月の話じゃないんだよ、四年くらいずっといたな」

 正直、二か月が待てないくらい長く感じた。

 引っ越しの日、荷物の整理よりも何よりも、すぐさま公園に向かって走った。けれど、オコジキサンと呼ばれていた悠介の姿はなかった。

 高校に入って、また会えた。その悠介は私のことを忘れてしまっていたけれど。

 璃玖もこっちに戻ってきていることを高校の入学式で知った。



「香月、どうしたんだ?」

「何でもないよ」

 今は悠介に、話しかけるな、と言われた以上何もできない。

 悠介は今もなお、香月美幸を待っていてくれてるのだろうか。もう、忘れてしまっているのかもしれない。期待はしてる分、裏切られたとき絶望に変わる。

「どうかしたの?」

 私は、こっちの教室にめったに来ない璃玖に聞いた。

「ああ、英語の辞書借りにきた。香月でいいか。借りてもいいか?」

「いいよ、ちょっと待ってて」

 誰でもよかったようだ。

 私は後ろのロッカーに辞書を取りに行った。

「はい。私も次の時間使うから授業終わったら返しに来てね」

「分かった。ありがとう」

 璃玖に辞書を貸すときの一瞬、悠介と目が合ったような気がした。私が見たときには一人で本を読んでいた。

「あ」

 私は思い出したようにして璃玖を止めた。

「ねえ、嶋谷くんって人知ってる?」

「嶋谷なら同じクラスだけど」

「本当に!」

 私は悠介に頼まれた、二つ目のお願いを忘れていた。ちゃんと果たさないと。

 隣のクラスだったんだ。全く知らなかった。

「何かあったのか?」

「別に何もないよ」

「そっか。香月あれだよな、嶋谷から聞いたよ。田中とちゃんと話せ――」

「ちょっと!」

 私は璃玖を廊下に押し出した。悠介のいる前で普通に話そうとするからだ。璃玖には悠介との約束の話をしていた。油断した。特に今はバレたくない。

 私は教室の扉を閉めて言った。

「教室に悠介いるから」

 璃玖は目を丸くしていた。悠介がいることに気付かなかったからじゃない。私の悠介への呼び方だ。当時、私たちが出会ったときは、悠介くん、と呼んでいた。いきなりだから驚いたのだと思う。

「悠介は覚えてないよ。私があの時の人だって」

「え! 何で言ってないの?」

 さっきよりも驚かれて私はうつむくしかなかった。

「今は言えないから」

「そっか。びっくりするだろうな、知ったら」

「どうだろう。もう、忘れてしまってるかも」

 私は笑って言った。それも、もう限界だ。けど璃玖は平然として言った。

「忘れるわけないじゃん。あれだけ待ってて、オコジキサンって言われても待ってたんだぞ。よっぽど、会いたかったんじゃないのか?」

 期待が風船のように膨らむ。

 廊下の暑さがしんどくて私は、閉め切っていた扉を開ける。涼しい風が流れ込んでくる。ソフトクリームのような大きな雲が青空に浮かぶ。

「涼しー」

「香月」

 私は璃玖に呼ばれ、振り向くと教室から嶋谷くんが出てくるところだった。

「ありがとう」

「じゃあ」

 璃玖は嶋谷くんとすれ違いで教室に入っていった。私は嶋谷くんに用件だけ伝えると教室に戻った。

 膨らみ続ける風船が割れてしまう前にちゃんと伝えなければ。私が悠介と約束した相手だと。

 次の授業が始まる前、璃玖はちゃんと私の辞書を返しに来た。

「ありがとう」

「次は忘れないようにね」

 璃玖は、分かってるよ、と言いながら教室の中にいる牧野くんに手を振っていた。

「仲良かったっけ」

「部活一緒だから」

 そうだったんだ。璃玖がバスケ部だってことは知ってたけど、牧野くんもだったんだ。それにしても、牧野くんの顔が引きつるのが気になった。まるで、今の無理している私を鏡に映したようだった。璃玖を疑うわけじゃないけれど、私はそれが良くないことに繋がっているように感じた。

 牧野くんと話す悠介と目が合った。けど、すぐに逸らされた。

 何だかそんな上手くいかない時間が今日の放課後まで続いた。六時間目のチャイムが鳴って皆が帰る用意をしだす。

「今日も部活?」

「あ、うん」

 悠介が牧野くんと話していた。悠介は気の抜けた牧野くんの様子を変だと思わないのか。目を見ても分かる。

 隠しきれていないのはお互い様だが、かなり無理しているようだ。部活に力を注ぎ過ぎているだけならいいのだが。

「じゃあ」

 牧野くんが悠介と別れると私は鞄を教室に置いて、エナメルバッグを持つ牧野くんの後を三メートルほど間をあけてついていった。

 牧野くんは階段を降りると靴箱で靴に履き替えた。体育館へは行かないのか。私の勘違いか。肩透かしを食らった気分だった。私の気にし過ぎかと思ったときだった。

「健人、もう帰るの?」

 全然、知らない男子が三人ほどやってきた。体操服を着ているから同じバスケ部の人だと思う。

「塾があるから」

「またかよ。大会出れなくなるぞ」

「分かってるよ」

 私はその様子を階段の下から隠れて聞いていた。

 牧野くんは急いでいた。何か焦るように。

「今日はバレーが外だから、体育館練習だぞ。シュート練習しないのか」

 他の二人が笑った。

「健人がいないと練習できないじゃん」

 尊敬されて言われているのとは違う気がする。

 牧野くんはいつも気さくで穏やかな人だ。だから、あんな顔をしているところを見るとおかしいことくらい分かる。

「今日体操服持ってないの?」

 一人が牧野くんの鞄を開けて見る。

「あるじゃん」

「それは、今日体育があったから」

「行くぞー」

 三人は牧野くんを体育館に連れて行こうとした。

 どうしよう。私が出しゃばることじゃないかも。とりあえず、璃玖にとめてもらおう。それがいい、と思い教室の方に引き返そうとすると四人の他に声がした。

「健人、早くしろよ。また、用事あるのか?」

「塾だって」

 え? 璃玖だ。

「早くしろよ。健人の用事なんてどうでもいいし」

 何を言ってるの? 本当に璃玖なの?

 私は靴箱の方を覗いた。間違いなかった。疑う私の目は真実を知らされて大きく見開いた。

 階段を下りてくる人たちが私を変な人を見る目で見てきた。その中の一人が声をかけてきた。

「何してるの?」

 私は振り返る。心臓が止まってしまうかと思った。


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