第3話

 今日は天気予報が外れて雨だった。朝から降り続く雨の中、俺は家の傘立てから適当に取ってきたビニール傘をさして登校していた。

 靴箱の前で傘についた水滴を振り落とす。

 俺のほかにもこの時間に登校してくる人は少なからずいる。いつも通り一番に教室に着いた俺は照明をつけた。そして、教室の後ろにある傘立てに傘を置く。時計の針が八時を指す。

 雨は降り続き暑さと湿気がよどむ。

「おはよう、悠介」

 教室の後ろの扉が開いてた。

 今日は早いんだな。

 二番目に来たのは牧野健人まきのたけとだった。少し髪を濡らした健人は俺が仲良くしているクラスメイトだ。友達とはまた少し違う気がする。

「今日、部活なかったのか?」

 健人はバスケ部である。普段から朝練に出ていると聞く。

 健人は肩に下げるエナメルバッグを自分の机の上におろした。

「いや、朝練はあるけど。休んだ」

「珍しいな」

「それを言えば悠介こそ珍しいじゃん」

「何が?」

 自分に珍しいことへの覚えはなく首をかしげた。健人は取り出したタオルで自分の髪の毛をふきながら言う。

「香月美幸だよ、一緒に帰ってたんだろ?」

 一体、いつ誰が見ていたのだろうか。

「誰からそんなニュースを聞いたの?」

「えっと、嶋谷しまたにだよ」

 嶋谷? 少し考えれば、俺がほとんど人を知るはずもないことは分かる。クラスの人はさすがに分かるが、その他は分からない。部活をしていたり、コミュニケーション能力が高ければ話す機会もあるかもしれないが、今の俺には限りなくゼロに近い。

「お前知らないのか。あっちは田中悠介のこと知ってたぞ」

「いや、知らないな。多分」

 どこかで会ってたか。俺はあまり関わってる人、いないけど。

「昨日、話したって」

 話した? 昨日言葉を交わしたのは、美幸の他に健人しか……。

 俺は美幸が連れてきた影のように薄い男子の存在を思い出した。

「もしかして、影のような薄さの」

「そうそう!」

 健人は笑いながら言った。

 あの人か。やばいな。口止めでもしないと――。

「健人、ほかに何か言ってなかったか?」

「嶋谷か? 他は特に言ってなかったけど、青ざめた顔してたな。そんなに意外だったのかな」

 健人は、まあ意外だけどな、と白い歯を見せた。

「あれは偶然だから」

「何も言ってないだろ。それに別に話すくらい普通だろう」

「そうだな」

 少し焦った自分が馬鹿らしく思え、冷静になれた。けれど、嶋谷くんには口止めをしとかないと。今更かもしれないけれど。

 僕たち以外にも登校してきて、話が自然に終わる。

 話が終わって健人が部活を休んだ理由を聞くのを忘れていたことに気付いた。どうせ、もう一か月も活動しないからとかいう理由だろう。

 誰もいない校内は、昼間の騒々しさがなくて好きだ。しかし、騒々しさが始まると、今日も一日が始まってしまうんだ、と頭が重たく感じる。

 そこへ長い黒髪を揺らしやってきたのは美幸だった。来たばっかりなのか鞄を持ったままだった。

「おはよう」

「おはよう」

 俺は挨拶だけ返すと、トイレにでも避難しようかと席を立ちあがる。

「美幸、おはよう」

「あ、おはよう」

 美幸は他の人に手を振り返していた。

「悠介、待って」

 俺は美幸に止められた。小声で、間違ってても文句は言わないでね、と言うとすぐにその場から去って行った。

 机の上に置かれたプリントが昨日渡した数学のプリントだとすぐに分かった。

 本当にしてきたことに驚いた。計算式まで残してくれている。もっと最終の回答だけを書いてくるか、最悪、分からなかったという理由でしてこないこともあり得ると考えていた。

 俺は数学のプリントを机の中にしまう。

 美幸にこんなことをして何かメリットでもあるのだろうか。俺と美幸は違う。人と上手く関われる彼女と、他人と関わることを避ける俺。

 まだ、俺が小学生の時は誰かと関わることが苦手だと思うことはなかった。

 その頃の俺は一人の女の子と出会っていた。昨日、美幸と話している中で思い出す機会があった。

 彼女は元気だろうか。名前も忘れてしまった。けれど約束をしていた。また会ったら三つだけ願いを叶えてあげるって。会っても分からないだろうな。上手く言えないが、俺はほんの少し彼女と話して、彼女を好きになってしまった。



 近々、引っ越すという彼女に会いたい。その頃の俺はすぐに会えると思っていた。今日はいるのではないか、そんな期待をして毎日学校帰りにその公園の滑り台の足元で待っていた。次、彼女が泣いてしまった時を考え、ハンカチも用意してきていた。けど、彼女は来なかった。心の中が寂しかった。

「来ないのかな……」

 小学生にしては根性強く待っていたと思う。公園をのぞくだけの日もあったが、それは大抵は雨の日だった。

 晴れの日は毎日、来ていた。

「悠介、何やってるの?」

 公園に遊びに来る同じ学校の子たちに聞かれたことがあった。

「友達を待ってるんだ」

「気持ち悪い」

 毎日いる俺にその子たちは口をそろえて言った。俺を見る目が怖かった。

「え」

 俺は毎日そこにいるからという理由で周りの人からオコジキサンと言われるようになった。

 初めは何を言われているのかなんて分からなかったけれど、不潔だの、菌だの、貧乏神だの言わるうちに彼らの言うオコジキサンがどういうものなのか知った。彼女が来てくれたら、そんな嫌な思いも報われる。そう思って待ち続けた。



 チャイムが鳴って授業が始まった。俺は重たい頭を持ち上げてノートをとった。

 そうしていれば放課後なんてあっという間だ。

 俺は相変わらず、一人で机と椅子にくっついて過ごす一日だった。

「悠介」

 帰る用意をする俺は健人に呼ばれた。健人はすでに帰る用意を済ませていたようでもう教室を出ようとしていた。

「健人、部活?」

「えー、うん」

 気が抜けた返事が返ってきた。

「で、どうかした?」

「いや、何でもない。一緒に帰る人が出来てよかったな」

 そう言われて振り返ると後ろに美幸がいた。

「何してるんだよ」

「何も。待ってるだけ」

 健人は、じゃあなー、教室の扉を開けてと部活へ行ってしまった。

「部活頑張ってねー」

 美幸は健人の閉めた教室の扉に向かって言った。

 俺は今日こそは帰ろうと荷物を持ち上げる。その後ろを美幸が何も言わずについてくる。

「何してるの」

「一緒に帰らないの?」

「家、逆方向なんでしょ?」

「校門までは一緒に行けるよ。それにまっすぐ帰らなくてもいいじゃん」

 それで俺は思い出した。

「あのさ、健人に聞いたんだけど。俺たちが昨日一緒に帰ったって嶋谷くんが言ってたらしい」

「嶋谷くん?」

 まるで今朝の自分を見ているようだった。嶋谷くんの名前を言う声が小さい。美幸も知らなかったのか。さすがに知っていると思っていた。

「昨日、美幸がふった人だよ」

「あ、さえない顔の彼か!」

 俺は頷いた。

「いいんじゃない? 別に気にすることじゃないでしょ」

「少なくとも俺は気にするよ」

 やはりは美幸とは合わない。

 美幸はいいかもしれない。でも、これが引き金になって居場所をなくすことにはなりたくない。信用したところで報われるような出会いなんて滅多にない。片手で数えるにも指が多すぎるくらいだ。俺にとって、そんな出会いはあの日だけだ。

「二つ目のお願い」

 美幸は俺の言葉に反応し、目をしっかりと合わせる。そして、息をのむ。

「嶋谷くんに口止めしてきてほしい」

 美幸は不思議そうな顔をした。でも、すぐに満足のいかないとでも言いたげな顔をした。そんなに考えさせることを言っただろうか。

「分かった、でも今日は」

 出来るだけ早くがいい。

「嶋谷くんも帰っちゃったかもしれないし」

 確かにもう校内にはいないかもしれない。俺はため息をついて、明日でもいいかと思った。無理に今日探すのも馬鹿らしくなった。

「早めに頼むよ」

「了解です」

 彼女は窓から顔を出して雨を降らす雨雲を見て言った。

 雨も止んでいないのか。今日一日は降っているのだろう。こんな暑さと湿気に耐えれる自信もない。

 俺は教室の傘立てに置いていた自分の傘を取る。美幸は傘を持っていないのだろうか。傘立てから傘を取らなかった。

「傘いいの?」

「傘? 私、折りたたみ傘だから」

 美幸は鞄からビニールに入れた青色の傘を取り出した。

「そうなんだ」

 教室にはほとんど人が残っていなかった。残っていた人たちも、もう帰る用意を済まし出ていくところだった。

 こんなに遅く教室を出ることはめったにない。多分、今までにない。俺は部活も委員会も入ってないので残る用事なんてなかった。

 早く来て、早く帰る。

「じゃあ、帰ろうか」

 校門までなら別にいい。

「折角だからさ、ちょっと残ろう」

「何をもって、どうせなの?」

「教室誰もいなくなっちゃったじゃん」

 美幸は何の根拠のなく言い張った。誰もいなくなったから帰るんだよ、と思いながら教室に戻された。

「残って何するつもり?」

「何しようか」

「決めずに引き留めたの?」

「だって、私だっていきなりのことで……」

 それなら、どうせて引き留めたのか。不思議で仕方ない。

「あ、これしよう!」

 美幸は鞄から日本史と書かれたノートを取り出した。テスト勉強でもするつもりだろうか。板書したページをどんどんめくっていき、白紙のページを俺に向けた。

「絵しりとり」

「絵は苦手なんだけど。せめて普通のしりとりにしてほしい」

「言葉だけじゃ悠介に負けそうだもん。私も絵は得意な方じゃないけど語彙力よりは自信ある」

 言葉が浮かんでも、絵が相手に伝わらないとお手上げだ。

 自慢じゃないが、俺は美術の成績で三以上を出したことがないんだぞ。

「じゃあ、私からいくよ。しりとり、だから『り』からだね」

 美幸はすぐに筆箱からシャーペンを取り出して描きだした。

 渡れたノートを見てそれが何かはすぐに分かる。

「リンゴだね」

「正解!」

 美幸が描いたリンゴの横には矢印が書かれていた。『ご』で始まるもの。俺はノートと一緒に渡されたシャーペンを持ち上げる。

「尻尾みたいになってるよ」

「だから、苦手だって」

「それに薄いね」

 俺の絵を指さし、馬鹿にして笑う彼女は、まさにゴーストだね、と見事に当てた。

 美幸の絵は美術部だったのかと思わせるものだった。絵心がある。今もサラサラと迷いなく描いている。

「はい」

「トースト」

「正解。次、悠介だよ」

「分かってるよ」

 頭ではしっかりとイメージ出来ているのに、描くとなると上手くいかない。

「鳥?」

「そうだよ」

「そんなのより、扉の方が簡単じゃん」

 美幸に笑われてたが正論で、反論できなかった。長方形と丸を書けばいいだけなのだから。

 俺はつい必死になってしまった。あの時のようだ。

 あの日も必死になった。彼女を笑わしたくて。彼女は結局笑わなかったっけ。今なら、自分の絵で笑わしてあげられるかな。そう、目の前で笑っている美幸のように。

「はい」

 彼女はまたもすぐに絵を描いて返してきた。

「滑り台……」

「正解」

 まさかな。タイミングが良すぎる。

 美幸からシャーペンを受け取ったとき、小指が触れる。電流でも流れてきたかのように手が大きく反応して、シャーペンから手を放してしまう。

「あ」

 シャーペンは床に転がる。

 美幸は、大丈夫? と転がったシャーペンを拾い上げる。

「ごめん」

 一瞬、雨音がこの空間を占領した。その音を心にできた隙間に流し込みたかった。でなければ、あの頃に引き戻されてしまいそうだった。

「悠介」

 美幸の方を見る。

「大丈夫?」

 俺は頷いて、絵しりとりを続ける。なぜ、こんなに必死にならなければいけないのか分からないが、とにかく描いた。

「椅子だね。次は私か」

「スイカ」

「正解」

 美幸は半月の形をしたスイカを描いた。でも、そのスイカには種がなかった。美幸は実と一緒に食べてしまうから、描かなくてもいいやとでも思ったのだろうか。

 美幸は、満足した! とわざとらしく大きな声を出してノートを閉じ、立ち上がった。

 俺も立ち上がる。そして、言った。

「三つ目のお願いがある」

「何?」

 俺から目を離さない美幸は息を飲んで聞いてきた。美幸の癖だ。

「しばらく話しかけないでほしい」

 美幸は目を大きく見開いた。

「じゃあ、先帰るから」

 そう言って美幸を置いて帰る俺は、お願いをする自分の全身に力が入っていたことに驚いた。

 家に帰って、その力が抜け、脱力感と心苦しさが俺を襲う。

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