◇ Prepare yourself, please.


 ━━━━━ひと月ののち


 当然のごとく子などできなかった私の前に、あなたは笑顔で現れました。

 今夜はあなたが来ると知っていたから、寝衣を新調して待っていたのに、何の準備もない時に来るなんて、やっぱりあなたって腹立たしい人ですね。

 あんまり自然体だから、怒るのもなんだか馬鹿らしくなって、寝衣のことは絶対に言わないと決めました。


「今度はもう少し親しくなってからがいい、とお願いしましたので、」


 本来なら言葉を交わすどころか、姿を見ることさえないほど、私たちは隔たっているというのに。


「今日一日、ご一緒してもよろしいでしょうか?」


 あなたは断られるなんて、最初から思っていなかったのでしょう?


『優秀だ』という評価通り、本を読めば私の十倍以上早くて、私はあなたが図書室の本を全部読み切るつもりかと思いました。

 私のことなど忘れたように読み耽るものだから、とても面白くありませんでした。


「本なんて読むのはやめて、一緒に絵を描きましょう!」


 名残惜しそうなあなたから本を取り上げ、筆記具と紙を押し付けたのだけど、


「これは……熊?」

「猫です」

「猫がどうして二本脚で立っていますの?」

「……どうしてでしょうね」


 絵はあまりに悲惨で、同じくらい細かい作業もできなくて不器用で。


「あなたは何なら上手にできますの?」


 溜息をつきながら問いかけると、


「あれは得意です」


 と、部屋の隅にある遊戯盤を指さしました。試しにやってみると、何度やっても勝てません。


「少しゆるめていただけます?」


 結局それでも一度も敵いませんでした。あれは本当につまらない遊びでしたわ。

 全然面白くないのに、蜂蜜色の目が輝くのを見ていたくて、何度も何度も挑みました。

 あの日、私は一生分負けたと思います。


 ほんの数時間しかない私たちが出掛けられるのは、せいぜい庭の小高い丘まで。ここからは、広くて自慢の庭が一望できます。そこは、祖父がお抱えにしていた庭師が四十年かけて作り上げたもので、四季を問わず鮮やかな景色が見られるのです。

 一番見事な薔薇の季節は終わったけれど、私が生まれた時に作られた“白の庭”は、豊かな緑の濃淡の中に、白い紫陽花あじさいが満開でした。


「とても広い国のお姫様なのに、こんなに狭いところにしかいられないんですね」


 誇らしげな私の隣で、あなたの声は悲しそうでした。


「別に不自由はしてませんわ」


 哀れまれるようなことではないのに、あなたの表情はますますかげりました。


「他の国には、翡翠色の湖も、真っ白な気高い山も、どこまでも広がる青い海もあるそうですよ」


 そんなものは絵画の中で十分知っています。それで満足していたはずなのに、あなたの口から聞くととても魅力的に思えてしまって、


「では、あなたが見て、お話を聞かせてくれればいいですわ」


 と胸を踊らせながら答えていました。

 少し考えれば、それがただの夢でしかないことなどわかるのに、あの時の私は、いつまでもあなたがそばにいてくれるような気がしていました。


「自分でご覧になりたいとは思いませんか?」


 蜂蜜色の目に、別の色をたたえて、あなたはあの質問を、どんなつもりで言ったのでしょう?

 どんなつもりであれ、私の答えは変わらなかったけれど。


「私はずっとここにいます」


 これだけは負けずに、その蜂蜜を貫くように告げました。


「私の務めはここにあります。私にしかできません」


 きっとあなたはずっと迷っていたのでしょう。あなたにはこの話を断れない事情があって、他に選びようもないのに、ずっと迷っていた。それをあの時、決断したのですね。

 あなたにどんな事情があろうとも、迷う理由があろうとも、私の方でも引けないのだと、あなたにもわかったから。


 あなたは複雑だったでしょう。それはわかっていました。だけど私はひと月前よりもずっとずっと気持ちが固まっていたのです。国のためじゃなくて、何かのためじゃなくて、ただ単純に、あなたとの子が欲しい。そう思っていたから。

 ただ言われるままに生きてきた私は、それがどういう意味なのか、この時も考えることはしませんでしたけれど。


 この事実を知ったら、私は国中から責められるでしょうね。私だけではなく、王家そのものが末代まで唾を吐きかけられるかもしれません。これはそれほどに間違った道でした。

 私の前に差し出されたあやまち。でも、私は最後に自ら過ちを選びました。

 だからどうなろうとも、子々孫々まで危険な秘密を残そうとも、この道を進みます。


 本当は、あの夜を最後にしたくありませんでした。こんな日々がもう少しだけ続いてくれれば、と。そんな私の気持ちにあなたは気づいていて、だから最後の最後にもう一度躊躇ためらいましたね。


「本当にいいんですか?」

「最初から覚悟はできていますわ」

「いいえ、できていないと思います」


 首を傾げる私の目を真っ直ぐに見つめて、あなたは繰り返しました。


「姫さまは、覚悟など全然できていらっしゃいません」


 私の心が揺るぎないことは、はっきりとわかっていました。だから少し不満を滲ませて聞き返しました。


「どうして?」


 あなたはどう言ったらいいのか、考えて考えて、


「これから先は、きっと苦しいばかりだと思いますから」


 とだけ言いました。


 あなたの言った通り、私は覚悟なんてできていませんでした。だからあなたに口づけられて、本当に驚きました。


「……何か、薬を?」

「まさか」

「え? でも、だって」


 ━━━━━私の知っている口づけと全然違う。


 少し触れただけで身体中がしびれてしまうそれが、ただの口づけであるなどと、にわかには信じられませんでした。だから何度も唇に触ってみたり噛んでみたりしたけれど、何の変化もなくて。安心してもう一度口づけをしたら、やっぱり駄目なのです。


「やっぱりおかしいわ。なんだかとっても変な感じがするの。本当にお薬を使っていない? さっきからずっと動悸も激しくて、もしかしたら病気かもしれませんわ」


 あなたはふわりと涙を湛えるような目で笑いました。


「大丈夫です。病気じゃありません」


 やさしく引き寄せられた胸の奥からは、私と同じくらい強く速い鼓動が、あたたかい体温とともに感じられました。


「だけどきっと治らないので、そのまま我慢していただけますか?」



 必要ないはずの口づけは、たくさんたくさんくれたのに、あなたは大切なことは何も教えてくれませんでしたね。あなたの気持ちも、この先、あなたの命に保障がないということさえも、何も言いませんでした。

 今なら、もう少しわかったと思います。あなたの体温が、言葉よりも雄弁に語っていた想いも。たどる指の意味も。唇に込められた願いも。見つめる蜂蜜色がひどく苦し気だった理由も。今ならもう少し、わかってあげられた。それで、私の生涯ただ一度の想いも、伝えられたと思うのです。

 だけど、この時の私は、自分から溢れ出るものに翻弄されるばかりで、あなたのことまで考えていられませんでした。

 もったいないことをしましたわ。




 ◇




 あんなに暴力的な朝を、私は他に知りません。

 何も知らされず、何も答えてもらえず、とにかくすべてが終わっていました。

 だけど私は高をくくっていたのです。きっとしばらくしたら、またあなたは呼び寄せられるだろうと。たった一夜で授かるはずがないと。

 私はあなたが来る日を心待ちにしていました。

 空気に百合の気配が強くなって、「早くしないと見頃が過ぎてしまうのに……」と落ち着かない気持ちで。また、今度は勝てるように、盤上遊戯の練習をしながら。次に会う時はどんな顔をしたらいいのだろうって、恥ずかしさに身をよじりながら。

 けれど、庭の色彩がまた色を変えても月のものはやって来なくて、あなたもやって来ませんでした。


 大きくなっていくお腹を撫でながら、「まだもう少し、遅くてもよかったのに」と母親失格なことまで考えて、ようやくわかったのです。

 あなたが私に授けたのは、この子だけではなかったのですね。


 あなたに出会うまで、私は確かに幸せだったのです。

『これから先は苦しい』とあなたが言ったように、私が知っていたこれまでの幸せは、小さく小さくしぼんでしまいました。考えたことのなかったこと、考えなくてよかったこと、たくさんたくさん考えましたわ。毎晩鍛練を積みましたから、声を出さずに枕を濡らすことも、ずいぶん上達しました。

 私、幼い頃ならともかく、泣くことなんてありませんでした。そんな不幸に遭ったことなど、なかったのですもの。これまで泣かなかった分をすべて吐き出すような涙でした。本当に、瓶に溜めてあなたに見せたかったくらい。

 あなたは何て言うかしら? 手巾を差し出すなんて芸当はきっとできないから、困って頭を掻くのでしょう。それとも「よく溜めましたね」って、驚いて目を輝かせるかもしれません。

 そんなことを考えたら、ふふっ、と笑えるようになって、それがだんだん習慣になりました。

 それでも『苦しいばかり』というのは、正確ではありませんでした。だって、苦しいけれど、私は前よりずっと幸せでしたから。

 あなたは私に本当に素晴らしいものを、たくさん残してくれました。たくさん教えてくれました。

 二度と会うことはなくても、きっとあなたはどこかで私たちを見ている。そう信じて。その時あなたを落胆させないように、背筋を伸ばして生きてきたつもりです。


 私にも夫にも似ていない息子は、母方の祖父にやや似ていると言われています。とても賢く、優しく、みんなから愛されて育ちました。


「この髪も目もお父様譲りね」


 そう言って撫でられる息子の左肩に、小さなほくろがあるのは、きっとあの夜私が何度も口づけたせいでしょう。

 幸せの形は変わったけれど、胸がつぶれるような苦しみも伴っているけれど、あなたと出会ったことを後悔したことはただの一度もありません。

 だけど、そうですわね。ひとつだけやり直せるなら、あの朝もっと早起きして、あなたと「おはようございます」と笑い合いたかった。何かに不自由を感じたことなどなかったのに、こんな些細な願いすら、私には叶えられないのです。


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