ワンス・アポン・ア・ナイト
木下瞳子
◇You are my one and only princess.
あなたに出会うまで、私は確かに幸せでした。
◇
初めてあなたに会ったのは寝台の上でした。窓の隙間から春の終わりの湿った空気が入り込み、薄い寝衣にまとわりつくような夜のことです。
私よりいくつか若いあなたは、まだ少年の面影を残していました。大きくもない目を見開いて、固まったように私を見下ろしているから、「無礼だ」と叱られていて。
礼儀も知らないなんて、ああ、なんて賤しい人、と残念に思ったものです。
押さえつけられながら床に跪くあなたを見下ろして、私はひとつひとつ確認していきました。
髪の色。毛質。背の高さ。一瞬だけどしっかり見えた目の色も、琥珀のような茶色だったから大丈夫。肉付きはやや悪いけれど、きっとまだ成長途中だろうから、この程度は許容範囲。
「肌の色が……」
私がつぶやくと、彼を押さえつけていた者がよれよれの襟刳りを、さらに大きく引っ張っりました。服に隠れた部分は顔や腕よりずいぶん白く、そのせいではっきりと見えた左肩のほくろが、なんだか妙に気になりました。
「日焼けはしておりますが、地黒ではありません」
「では、結構です」
あなたから視線を外し、私は寝台に横たわりました。いつもそうであるように、心はどこまでも凪いでいました。
扉が閉まった音がして、部屋には私とあなたのふたりきり。その時を待って、私はそっと目を閉じました。
ふっと目を覚まして、寝ていたことに気づきました。寝台には私ひとり。
首を巡らすと私の顔を覗き込むあなたと目が合って……。あなたは顔を赤らめて逃げ出し、床に跪きました。
「あまりに遅いので寝てしまいましたわ」
身体を起こして責めると、あなたは更に頭を深く下げました。
「はあ、すみません」
「いいから早くしてくださらないかしら?」
眉間に皺を寄せて催促しても、あなたは全然動こうとしません。
「ちゃんと説明は受けましたわね?」
「……はい」
ここに来る前、隣室で淡々と語る声がしていました。
王家の直系が私しかいないこと。叔父でもある夫では、子どもができないらしいこと。外見的要素が夫と同じで、優秀で、性格的問題もないあなたが、国中から選ばれたこと。
たくさんの条件と引き替えに、あなたは私に子を授けるため、今夜ここに連れて来られたはずでしょう?
「まさか方法を知らないの?」
「いえ、それは、……知っています」
「では問題ありませんわね」
ほっと溜息をついて、私は再び寝台に身体を沈めました。
「また寝てしまうところでしたわっ!」
床にへばりつくようにしているあなたに、とても苛立ちました。世の中の殿方とは、これほどまでに意気地がないのかと。
「とにかくここに座ってくださらない? この体勢では話もしづらいの」
寝台の端を叩くと、あなたは気重そうにやってきて、申し訳程度に座りました。
近くで見つめ合った瞳は、本当に夫とよく似た色で見慣れたもののはずなのに……。
━━━━━全身がざわっとしたのを、今でもはっきりと覚えています。
「あの、本当によろしいのですか?」
「もちろんよ」
「俺のことをよく知りもしないのに?」
「知らなくても子は為せますわ」
「参ったなあ」とあなたは頭を掻いて。そんな仕草は初めて見たので、少しだけ驚いたのです。
「俺は、できればもう少し親しくなってからの方がやりやすいんですけど」
王家の繊細な事情は他の誰にも漏らせません。このことは夫さえ知らないのです。だから私の病気療養という名目で、田舎の避暑地まではるばるやってきたのに。
「こういうことには時期というものがあります。今夜を逃せばひと月先になりますわ」
「そうですけど……」
結局あなたは煮え切らなくて、私の方が折れたのでしたっけ。
「では、ひと月後で結構です。それまでに心の準備をしてくださる?」
どうせ一度でできるはずないのだから、私はそう提案して。
「とりあえず、今夜は一緒に眠ってください。朝まで出ることは許されませんから」
あなたは小さくなりながら、恐る恐る私の隣に入ってきました。
あの時、本当は少しだけ、私も緊張していたの。
「王妃さま……って言いにくいので“姫さま”でいいですか? 市井ではそう呼ばれてましたし」
もう呆れて言葉も出ませんでした。こんな状況でなければ、何らかの罪に問われていましたわ。
私の反応など気にも留めず、あなたは勝手に、私を“姫さま”に決めてしまいました。
「姫さまは、ずいぶん割り切っていらっしゃるんですね」
天蓋を見上げながらあなたが言う意味が、あの時はわかりませんでした。
「それが私の務めですもの」
「好きじゃない男との子でも?」
「別にあなたのことは嫌いではありませんわ」
「国王陛下と似ているから?」
「条件は似ていますけど、夫とは別人です。だけど、子を為すのは誰とでもできるでしょう?」
あなたはとても驚いたようで、私の顔をまじまじと見ます。
「陛下を愛してはいらっしゃらないのですか?」
あなたの瞳を見たまま、私は考え込んでしまいました。そんなことを聞かれたのは、初めてだったのです。
「考えたこともありませんでした」
「なぜです?」
「だって、生まれた時から決まっていましたもの」
生まれた時からの婚約も、その相手が父親ほど年が離れていることも、血が近いことも、王家ではよくあること。
「陛下との間では本当にできないのですか?」
「恐らく。他にいる恋人たちとの間にもひとりもできていないようなので」
「え!?」
あなたが驚いたので、私も驚きました。
「仲睦まじいご夫婦だとばっかり……」
「仲はとてもいいですわ。だって家族ですもの」
両親を大切に思うように、夫のことも大切に思っています。当然でしょう?
「姫さまは、それでお幸せなのですか?」
この人は、どうしてさっきから変なことばかり聞くのだろうと、ほとほと呆れていました。
「不幸だと思ったことは一度もありません」
「これは庶民の考えかもしれませんが」と控えめに前置きして、それでもあなたは確信を持って私に告げました。
「こういうことは、本来、想い合った相手となさるべきですよ」
あまりにきっぱり言い切るものだから、私は言葉を返せなくて、結局あなたと同じように天蓋を眺めました。
「つまり……あなたは私を好きではないから無理だ、と言うの?」
言葉に出してみると、なんだか胸が痛くて。あなたが何て答えるのか、知りたいような、知りたくないような。祈る気持ちで見ていたから、あなたはとても困ったように慌て出しましたね。
「あー、えーっと、その、あの、その点は、ご心配ない、です。むしろ……」
「むしろ?」
「…………」
「…………?」
「あ、いや、何でもないです。忘れてください」
「そう?」
「……はい」
「顔が真っ赤ですわよ?」
「それは、姫さまも同じです」
「……鏡がないからわかりませんわ」
「でもほら」
あなたは恐る恐る私に手を伸ばして、ほんの少し、かすめるように私の頬に触れました。
「熱いです」
あなたの指は固くてくすぐったくて、鼓動がとても速くなりました。
よくよく見ると、あなたの目は夫のものよりわずかに濃くて、ちょうどモミの木の蜂蜜のような、とろりとした褐色です。
そう思ったら、顔だけじゃなくて、手も、足も、このあたり全部が、熱くなりました。そんなこと、言えるはずがありません。
「あなたの指先が冷たいのですわ」
「では、そういうことにします」
「ええ」
あなたはあの夜眠れましたか?
私は全然眠れませんでした。
あなたの呼吸で寝具がわずかに揺れる、その振動を、ずっと感じていました。
朝方いつの間にか眠っていた隙に、あなたはいなくなっていて。
あれは、実は夢だったのではないかと、半分本気で思ったり。まんまとあなたのことばかり考えて、ひと月過ごしてしまいました。
本当に腹立たしい人!
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