第13話 三角形
しゅんしゅんと、囲炉裏の
「まだ晩夏だっていうのに、囲炉裏が活躍するのも不思議ですにゃあ」
濡れた髪にタオルを乗せ、シャツと短パン姿に着替えたハッサは我が家のようなくつろぎようで胡坐をかいている。
いや。マイルズは内心で否定した。実際、ここは彼女の我が家だ。
「二人に任せたのは思いがけない正解でしたにゃあ。荒れ放題だった我が家は当時以上に手入れされて。気に入ってくれたようでなによりですにゃ」
薄く微笑んだハッサの一挙手一投足、一言一句にさえ、マイルズは棘を感じてしまう。
ルーシーはうつむいてハッサの顔を見ないようにしたままお茶を入れた。
「どうぞ」
「ありがとうですにゃ。なんだか茶器にも慣れて、すっかり大和撫子ですにゃ」
「そんな、とんでもないです」
ハッサは顔を背け続けるルーシーを見て、次にマイルズを見る。
「訊いてもよろしいですか」
「やめてくれ」
「初夜はいつでしたかにゃ」
「ひぃえいいぃぃっ!?」
引きつった悲鳴が上がる。
「ななな、なんっ、そっ、ちがっ」
白い肌に血合いが浮いて見えるほど顔を赤くして、ルーシーは哀れなくらいうろたえていた。過呼吸に陥っている。
ふむ、とハッサは唇を指で隠す。
「マイルズの抱き心地はいかがでしたか?」
「~~~~~っ! 知りませんっっっ!」
ルーシーは逃亡してしまった。
マイルズは頭を抱え、来客に目を向ける。
「……あのな。ルーシーはまだ十八なんだぞ。慣れてないんだ」
「あら。一つ屋根の下で暮らせば、そんなものでは?」
「そりゃあ酸いも甘いも知り尽くした大人にとってはな」
「優しいようなことを言いますにゃね。子どもに言い寄った変態が」
「大人らしいぞ。本人によれば」
「言い訳にもなってませんにゃ」
マイルズは片目を閉じて額を覆う。
ハッサは少し怒っていた。無神経にずけずけと口にしたのも意地悪だ。
「怒るのも当然だと思う。すまなかった」
「ほう? なにが当然で、なにに対して謝っているんですかにゃ?」
「研究が止まっていることも。止まっているのに知らせなったことも。ヘキサドライブの完成祝いに行かなかったことも」
「マイルズがロリコンであることについては?」
「じゃあそれもだ。でも、分かってたことだろ」
「ついに開き直りやがりますか」
「言い訳できないことが分かったからな」
言葉通り胸を張ってみせる。ハッサは呆れた目でマイルズを眺めていた。
ほうっと長く息をついて、ハッサは囲炉裏に目を落とす。
「気が済んだら帰ってきて、と言ったはずですにゃ」
「……そうだな」
「諦めたなら、帰ってきてくれればよかったのに」
その言葉は拗ねていて、なによりも寂しそうで。
マイルズは目を伏せてかぶりを振る。
「諦めてはいないんだ」
責めるような目を向けられ、肩をすくめた。
「いや、すまない。諦めきれない。そう言うべきだった」
この暮らしが楽しいことも。住まいに愛着を持ったことも。畑に目をかけることも。
ひょっとしたら、互いを大事に思うことさえも。
すべては諦めるべき研究にすがりつくための、言い訳でしかないのかもしれない。
「まるきり嘘ってわけはない。でも、やっぱり……研究室を構えなければ、諦めることもできたかもしれない」
設備はある。知識もある。部品加工も依頼する先にあてがある。足りないものはないはずだった。
だから、諦められなかった。
「どうしてここまでしてくれたんだ?」
ハッサは琥珀色の目をマイルズから外す。まるで責められているかのように。
「……甘やかしすぎましたかにゃ」
「感謝してる。本当だ」
「嬉しくないですにゃねぇ」
猫のように背中を反らして大きく伸びをしたハッサは、膝立ちで歩くとマイルズにしなだれかかった。
「おいっ?」
「どうせこの天気では帰れませんにゃ。
「このタイミングでいうか? もう無理だ」
「ひどいですにゃあ。私には
「捨てられるまでは立ててたよ……痛っ!」
肉をねじ切るような力で背中をつねられた。マイルズが涙のにじむ目で見下ろすと、うるんだ瞳と視線がかち合う。
「遊びで寝る女だとでも?」
声を詰まらせたマイルズは、顔を背ける。
「……いけず」
「とにかくだ! 卑怯だろうとなんだろうと、通す筋は通す」
「私だって筋を通すつもりですにゃ?」
は? とマイルズが胸の上のハッサを見ると、彼女はマイルズを見ていなかった。
奥のふすまを、その向こうで震えるルーシーを見ながら、マイルズの胸板に頬を添える。
「私もそれなりに長く生きておりますが……さんぴぃは、未経験ですにゃあ」
「納屋で寝ろッ!!」
もちろん本来の家主を冷遇できず、マイルズはその晩、憤然と自分の寝袋を納屋に広げた。
「やー、いいお湯でしたにゃ。ただのでかい鍋みたいな風呂を忌々しく思っていたものですが、誰かに沸かしてもらうとこんなに快適だとは」
夕飯を終え、マイルズを納屋に追いやった後。
風呂上がりのハッサはふやけた髪をタオルで揉みほぐしながら居間に戻った。マイルズのシャツをワンピースのように着て、タオルを首にかけている。
ルーシーはコップの麦茶を手渡した。
「今日は遠方から、ありがとうございました」
「お、これはどうもありがとうございます。お礼なんて言わないでくださいにゃ。連絡もなく急に来たのですし、遠方に送り込んだのは私。そもそも実家です」
「どうしてあんなに荒れるまで家を空けていたんですか? とてもいいところなのに」
ルーシーの無邪気な問いに、ハッサは声をあげて笑う。
「いいのは今だけですにゃ。どんなに嫌な場所か、病気になったらすぐわかります。それと、やりたい仕事ができたときにも」
ルーシーはハッと顔を上げる。
どの研究所で勤務するにせよ、この立地からの通勤は現実的ではない。
「……教授がよくしてくれたのは」
ルーシーはためらいがちに言葉を選んだ。
「マイルズだからですか」
「それもあります」
あっさりとうなずく。
「私はマイルズを信頼していますにゃ。だいたい、うら若き乙女ひとりをこんな僻地に送るなんて、とても許されることではありません」
「それは……確かに、マイルズがいなければ、とても暮らしていけなかったと思います。いえ、私が聞きたいのはそういうことではありません」
「関係を持ってしまうのもやむを得ないと思っていましたにゃ。一人で廃墟に住まわせて不埒者に襲われるより、信頼のおける変態のほうがまだマシです。優れた研究者の消息を見失う事態だけは避けねばなりません」
「あの、も、持ってません……。そういうことでもなくて……」
ルーシーは魚があえぐように声を絞り、なんとか話を遮った。
「ハッサ教授は」
一瞬だけ、ためらって。
「教授は、マイルズが好きなのではありませんか」
核心の問い。
ハッサは飲み終えたコップを卓に乗せる。落ち着いた呼吸のまま、薄く微笑んだ。
「大人になると、恋をするのは難しくなるんです」
ルーシーは泣きそうな顔で口をつぐんだ。
どうあっても確たる返事をするつもりがない、という返事。
ルーシーは長い髪を揺らして首を振る。
「私にはわかりません。さっきの、ハッサ教授がマイルズに抱き着いたことさえ私には耐えられなかったのに。マイルズが嫌そうでなかったのが、こんなにも……」
声が震える。自身の胸をかき、細い肩をかき抱いた。
分かっていたはずだ。マイルズは浮名を流すほどではなかったが、男女関係を当たり前に持っていた。デリカシーゼロドライブの呼び声は、男女交際のなさを示していない。むしろ、恋人の甲斐性のなさを慈しむ言葉だ。
理性がいくら道理を説いても無駄だった。
このひと夏で、ルーシーの感情はずいぶんと尊大になっていた。
「私はこんなにも器の小さい、嫌な女だったのでしょうか」
「逆ですにゃあ」
くいと、頭を引き倒される。
ルーシーはハッサの胸に抱き寄せられた。
「まったく。前途洋々な若者は、どうしてこうも愛らしいのやら。いいですか、嫉妬深さは女のたしなみ。使い方さえ誤らなければ、自分と相手を引っ張っていく強い力になりますにゃ。大事にしなくてはいけませんよ」
「それなら。ハッサ教授はどうなんですか」
「私だって嫉妬しますにゃ? 嫉妬深くて狂おしいほどですにゃ」
「嘘です。だって、矛盾しています。私とマイルズを一緒にしたのは、ハッサ教授なんですよ」
ルーシーの率直すぎる言葉にハッサは苦笑して、優しく首を振る。
「私の嫉妬は、愛する人を射止めるために働くのではないのですよ。仕事に生きると決めた女の、最初で最大の過ちでした」
ルーシーは即座に反論を求めるように口を開いた。だが、言葉にすることはできなかった。
過ちだと言った。
なのに彼女は、今なおマイルズを本当に振り向かせようとしていない。
恋も遊びも知らないような青二才が叫ぶ言葉など、とっくに通り過ぎているはずだった。
微笑の奥でハッサが何を思っているのか、つかめない。
「私は……」
ルーシーはぽつりとつぶやく。
「まだまだ子どもなんですね」
「そうですにゃあ。まだまだ甘える特権が使える年ごろで、うらやましい限りですにゃ」
冗談交じりにハッサがうそぶく。
ルーシーはキョトンとハッサを見上げた。
「年齢の特権なんですか? 教授も、マイルズには甘えているように見えましたが」
「それは女の特権ですにゃ」
つまりルーシーは、子どもの特権と女の特権を併せ持つ利権の怪物だ。
ハッサはルーシーを抱いたまま肩をすくめる。
「女の特権は、そう万能でもありませんよ」
「そうなのですか?」
「そうなのですよ」
ルーシーは曖昧な顔でうなずく。そんな彼女を見守って、ハッサは目を細めた。
ふと体を起こしてルーシーが口を開く。
「ところでハッサ教授。昔から気になっていたのですが」
ハッサの目を覗き込み、ルーシーは疑問をぶつけた。
「どうして狐なのに、語尾に『にゃ』をつけているんですか?」
ハッサは悪戯っぽく口の端を吊り上げる。
「マイルズの好みですからにゃ」
ルーシーは笑わなかった。
それどころか、不貞腐れるように目を伏せる。
「……やっぱり、マイルズのこと好きなんじゃないですか」
「ふぁーあ! そろそろ夜も遅くなってきましたね。一緒に寝ましょうか、ルーシー?」
「いえ、遠慮しておきます」
「そう言わないで。存外、女の子同士というのも気持ちよくなれるものですよ」
「寝るってどういう意味か確認させていただけますか!?」
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