第12話 夜

「ルーシー、きみもどうだい?」


 どんっとちゃぶ台に瓶ビールを乗せたマイルズを、ルーシーは冷ややかに見た。向かいに正座したまま、卓の上に視線を落とす。


「なんですか、これは」

「奮発しようと思ってね」


 卓いっぱいにホットプレートが載せられ、牛肉や豚肉、鹿肉がずらりと大皿に並べられている。


「和の国流のバーベキューパーティ、ヤキニクだ。これでウサヒビールを呑むのが乙らしい」

「ずいぶんな風流ですね」


 素っ気ないルーシーの目元はまだ赤く涙の跡が残っている。冷たく顔を背ける口の端に恥ずかしさが残っているのが見て取れた。

 マイルズは栓抜きを王冠に引っかけ、力をこめる。コォン、と清々しい音がした。


「うむ。レトロムービーでよく見た光景だ」

「はぁ……私は飲みませんからね」

「そういえばルーシーが呑む姿を一度も見たことがないな。おっとっと、泡立ちがすごいなこれは……」

「焼き始める前から呑んでどうするんですか」


 ルーシーは呆れ顔でホットプレートを温め、油を準備する。ちりちりとホットプレートが熱せられる音と、虫の音。テレビは黒く沈黙している。

 油を引きながらルーシーは言った。


「そもそもお酒なんて呑んだことがありません。未成年ですから」

「は?」


 マイルズはコップを落とした。奇跡的に垂直に落ち、こぼれずに留まる。


「うわ。なにしてるんですか? 気を付けてください」


 ルーシーの注意など、マイルズは聞いていなかった。がたっと膝立ちに勢い込む。


「ルーシーきみ、子どもだったのか!?」

「子どもじゃありません。もう十八ですよ」

「子どもじゃないか」

「子どもじゃありません」


 そうかぁ、と腰を下ろしたマイルズはビールに口をつけた。十八歳が子どもだと感じるようになったのはいつからだろう。思えば確かに、子どものころは十八ともなると成熟していると考えていた気がする。

 それにしたって、ルーシーはまだ十八か……とマイルズはルーシーの整った目鼻立ちを見る。


「大人びているな」

「マイルズが子どもっぽいだけじゃありませんか」

「否定はしない」


 つまみに開けたモロキュウをつまんで口に放り込む。キュウリの青々とした風味に滋味のある味噌がしみ込んで薫り高い。和風ビールに合う味だ。


「箸使って食べてください」

「いいじゃないか。ルーシーはモロキュウ嫌いだろう」

「別に嫌いじゃありませんよ。積極的に食べるほど好きじゃないだけで」


 子どものわがままみたいなことを言う。ルーシーはいつも大人びているのに、妙に子どもっぽい――実年齢に比しても幼い言動が混じる。

 こうして暮らしてみるまで、分からないことはたくさんあった。

 暮らしてもまだ分からないことはたくさんある。

 楽しいな、とマイルズは思う。

 ルーシーと一緒にいるのは楽しい。


「鹿肉って、焼き肉でも美味しいんですか?」

「さあ? 実は俺もヤキニクは食ったことがない。試してみようじゃないか」

「行き当たりばったりですね……」


 きっとルーシーも楽しいと思っているはずだ。

 でなければ、研究を疎かにしてこの暮らしを続けているはずがない。彼女は本来、ハッサに正面から啖呵たんかを切るほど情熱的な研究者だった……。

 マイルズはビールをあおった。

 忘れよう。今は、自分たちが何者かなど考える必要はない。

 目の前にいる、ありのままのルーシー・ベルトランだけでいい。

 それで十分だし、それ以外のものは邪魔でしかない。この家が本来は誰のものなのか、ということさえも。


「ルーシー、左の方そろそろ焼けたんじゃないか?」

「ちょっとマイルズ! 取る前に肉を乗せないでください。さっきから肉ばっかりじゃないですか……野菜も食べないとダメですよ」

「おいおい、この料理の名前はなんだ? 焼き肉だぞ? 肉を焼かないでなんとする」

「ピーマンやニンジンの風味を味わってから言ってください。美味しいですよ」


 楽しいな。マイルズは笑っていた。




 食後の一休みを終えて、交代で入浴を済ませたマイルズは暗い居間を見まわした。

 月明りに、縁側で夕涼みに腰かけるルーシーの姿が浮かびあがっている。夏月に照らされる彼女は、浴衣姿で保険会社のうちわをあおいでいた。


「どうしたんだ、こんなに暗くして」


 声をかけるマイルズを、ルーシーのシルエットが振り返る。

 彼女の目は、マイルズを通り越して屋内を見回した。懐かしそうに。


「……この家に来た日の夜は、真っ暗でしたね」

「そうだな。水道は井戸水だったのが救いだが、完全に廃墟だった」


 マイルズはうなずきながらルーシーの隣に腰を下ろす。

 掃除して手入れして修理して、機材や家具を搬入していくうちにどんどん快適な暮らしができあがっていった。今ではすっかりなじんでいる。

 ルーシーが黒ずんだなにかを掲げて、手首を揺らした。


「なんだ、それ?」

「月明りに透かして見たら綺麗かと思ったんですが。ちょっと光量が足りませんね。ビードロです」


 コトン、と床板に置いて音が鳴る。

 この街に降り立ったその日に手にした民芸品。ルーシーのものとマイルズのもの。どちらがどちらか、暗くて分からなくなっていた。

 月に雲がかかる。

 かすかな光さえ遮られて、目を開けても閉じても何も見えない。

 マイルズの手に熱が触れた。

 細くしなやかな温かさ。ルーシーの手だ。


「……マイルズは、どうするつもりですか?」


 同じ問いを、マイルズは彼女から受けたことがあった。

 研究所を出ることが決まったときだ。あのとき、マイルズは「オーダーツーに協力する」と即答した。マイルズには、そしてもちろんルーシーにも、嘘はなかったはずだった。

 もう、なにもかも違っていた。

 国も、季節も、目的も、境遇も。

 二人の関係さえも。


「仕事を探そうと思う」

「っ! そ、う……ですか」


 叫びを飲み込んだような声で、ルーシーはうめく。

 今は二人の貯金で暮らしている。成果が出ればそれを元にスポンサーを募る予定だった。いつまでもこのまま暮らし続けることはできない。

 この場所での生活を続けるのか、否か。


「マイルズ」

「なんだい、ルーシー?」

「私は……」


 雲が開けた。

 月明りを吸い込んで、マイルズを見つめるルーシーの碧眼が夜に浮き上がる。


「あなたが一緒に来てくれて、よかったと思っています」


 マイルズの胸に彼女の手が乗せられる。肩と肩が触れ合った。


「ここにいるのが、あなたでよかった」


 マイルズの手が伸びかけて、止まる。

 だが、その武骨な手を細い指が引いた。導くように。

 ルーシーのふっくらした唇が震える。


「月がきれいですね」


 ふっと。どちらからともなく笑いが漏れて。

 二人の影は重なった。

 そばにいる理由を作るために。

 そして、怠慢の罪を舐めあうために。


 §


 翌日は台風だった。


「盆地だから滅多に来ないって話だったんだが……いざ来るとすごいもんだな」


 朝も遅いというのに、夜明け前のように薄暗い。

 マイルズがキッチンでコップに水を汲む間じゅう、ガタガタと窓を蹴破ろうとするかのように揺れている。


「雨ですか?」


 肌着にブラウスを羽織った姿のルーシーがふらふらと眠そうに現れた。

 どぱん、と大きく窓が鳴ってルーシーは肩をすくませる。目をぱちくりとしばたたいた。


「すごいですね」

「和風ハリケーンだそうだ。これが毎年のことだっていうから大したもんだな」


 麦茶を注いでルーシーを手渡す。両手でコップを持ったルーシーは電源のついていないテレビを振り返った。


「予報では夜ごろじゃありませんでしたか」

「ああ。急に速くなったらしい。朝から気が滅入るな」


 マイルズは肩をすくめる。

 玄関がばんばんと鳴った。暴風が通り過ぎて、風の合間に再び玄関扉が鳴る。


「――ごめんくださぁい……」


 音が風ではないことに気づいて、マイルズは飛び上がって驚いた。


「客だ!? おいおいこんな天気に……はいすぐ開けます! ルーシー、タオルを持ってきてくれ」

「分かっています。行ってください」


 マイルズは玄関に駆け込み、鍵とつっかえ棒を外して扉を開けた。

 膨大な雨のあまり、固形にすら思える強風を引き連れて雨合羽あまがっぱに包まれた小柄な影が玄関に飛び込んだ。マイルズはすぐ戸を押し閉める。

 扉を閉めても、小柄な姿はかたわらに立っている。滴る雨で床が濡れていった。幻覚でも亡霊でもないらしい。


「ひゃあ、すごい雨。まったく、夜まで台風は来ないとか言ったのは誰ですかにゃ」

「その声……」


 ばさりとタオルが落ちる音。廊下に来たルーシーが取り落として絶句していた。

 ルーシーを見上げて「にゃっ」と笑いのような声をあげ、合羽を脱ぐ。

 濡れた狐耳がふるるっと震えた。整った鼻筋に張り付いた髪から水が垂れる。細めた琥珀色の目を弧のかたちに緩めた。


「久しぶり、ですにゃあ? こんな天気の日に急に、ごめんなさいね」


 ルーシーは声を震わせる。


「ハッサ、教授……」


 ハッサがそこにいた。

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