第7話 失敗
ビードロの紙袋を両手で抱くルーシーを見て、ふとマイルズはキャリーケースを引く手を止めた。
立ち止まったマイルズをルーシーが振り返る。
「どうしました?」
「ルーシー。きみ、そんなに軽装だったか?」
「え?」
言葉の意図を計りかねるように眉をひそめたルーシーは、すっと自分の手を見た。
軽い。
顔色を失う。辺りを見回し、ビードロ屋の店先を見る。顔を蒼白にしてルーシーは口を震わせた。
「まっ、マイルズ! 私、キャリーケースを!」
「落ち着け。まずは道を戻っていこう。どこかで忘れたんだ。ぶらついて回ったんだから無理もない」
白いワンピースの肩を軽く叩く。
頭の中に没頭しないためには身体刺激が一番だ。背中を押して、足を動かす。
道なりに店舗を訪れて店主らに尋ねて回った。分かったのは、かなり早いうちに忘れたということだ。
「見覚えがない」「
道路を早足で戻るルーシーはうつむいてしまっていた。
「積み忘れたんでしょうか……」
「いや。電車から降りるときにはあった」
車両とプラットホームのあいだを持って下ろしたマイルズは確言する。
マイルズは失敗したなと苦く噛みしめる。浮かれていたらしい。ルーシーの荷物の変化に気付かなかった。
「もしかして」
閑散とした道路を見渡して、ルーシーは眉尻を下げた。
「持ち去られてしまったんじゃ」
「心配を大きくするな。大丈夫さ。ビードロ屋もこれまでの店主も、みんないい人だっただろう。この国は犯罪が少ないことで有名なんだ。ましてやこの片田舎。杞憂だろう」
慰めではあったが、それ以上に本心だった。
時間さえもゆっくり流れているような街で盗みを働くなど、想像しにくい。ハッサの田舎でもある。
「とにかく、探してみよう」
通った道をそのまま戻り、駅舎まで入っていったものの、ルーシーの赤いキャリーケースは影も形もなかった。
駅前の雑草がホイールの形にへこんでいて、この時点まで持っていたことは間違いないと確認したマイルズは立ち上がる。バス停や駐車場をぐるりと眺めた。
「探し忘れた場所でもあったかな」
「もういいです」
かたわらのルーシーはうなだれている。
ひと気のない駅舎の前で、マイルズを前に取り繕う余裕もなく立ち尽くしていた。
「私がバカでした。意識があまりにも足りていません。こんな私では、たとえどんな研究をしたところで……成果なんて……」
「あーあー、大袈裟だぞルーシー。俺はきみを信頼している。たとえきみ自身が否定してもね。それに、ボンヤリしていたのは俺も同じだ。諦めるにはまだ早いさ」
「いいえ、ダメです。私が自分を許せません。だって……」
細い手が顔を隠す。泣き顔を隠すかのように顔を覆ってうつむいた。
「だってキャリーケースには、持ち込んだ研究資料が入っていたんですよ。私……私は、自分が何者なのか、なんのためにここに来たのか……まるで考えていない……!」
手を伸ばしかけたマイルズは、その手で自分の額をなでる。
なるほど、落ち込むわけだ。
ため息を吐いた。まるで気の弱い少女を相手にするかのように、行動に任せて慰めようとした自分を恥じる。彼女は聡明で、自律心が強い。
だが、マイルズにしてみれば、それでも些細な問題だ。
「なあ、俺はちょっとばかりきみより長く生きているから、今ばかりは偉ぶらせてもらう。ルーシー、ひとつ聞かせてほしい」
ルーシーの暗い目が向けられたことを確認して、マイルズは尋ねた。
「きみ、研究者になってから、どのくらい遊んだ?」
「遊んでなどいません! ハッサ教授のような研究者に追いつけるよう、勉強と研究に専念して……」
ルーシーの眼前に立てられた一本指に口を閉ざして、怪訝そうにマイルズを見上げる。
マイルズはゆっくりと深くうなずいてみせた。
「今日の失敗は、それが原因だ」
「……どういう意味です」
「きみは遊び慣れていない。たとえば俺は毎週二日は必ず休んで街まで降りていたし、ハッサ教授だって似たようなものだった。というか、彼女は息抜きがうまい。いつ研究して、いつ遊んでいるのかよく分からないくらいどちらでも見かけた」
ルーシー自身、優秀さを認めるハッサのことだ。彼女が遊んでいた、という例示に顔を曇らせる。
がむしゃらな熱意と青臭さ。この優秀すぎる女性は本当に若いのだな、とマイルズは相好を緩める。
「きみは浮き足立つことに慣れていないんだ。それじゃあ注意力が鈍るのも仕方がない」
反論を探すように口を開いたルーシーは、しかしなにも言わず口をつぐむ。
マイルズは微笑んだ。
「この旅行が楽しくなったなら、それは素晴らしいチャンスだ。思いっきり楽しんで、これまでの遅れを取り戻すといい」
「……納得はできません」
「構わないさ。俺の意見を頭に留めてくれればいい。きみのように目標へと真摯に臨める人はなかなかいない。どちらが正しいのかはきみ自身が決めることだ。……さて、小休止はおしまい。バスの時間までは探すとしよう」
ルーシーは非難も
まったく、とひそかにマイルズはため息を吐く。
口うるさい説教など、若かりし頃はあんなに嫌ったことなのに。今まさに自分がしたことはなんだ?
「歳は取りたくないもんだ」
こっそりとつぶやいた。時間は万人に平等だ。
バスの時間まではまだ余裕がある。いくらでも探す時間はあった。
「それにしても見つからないな。ちょっと喫茶店でお茶にしようか」
「小休止はおしまいじゃなかったんですか」
ルーシーが失笑してマイルズを見た。バス停を通り過ぎて、ルーシーが急に立ち止まる。
紺碧の目を大きくして口を開けた。
「あっ」
「どうした、ルーシー?」
「思い出しました。水です」
ルーシーは手でペットボトルの形を示す。それでマイルズも思い出した。
フランチャイズでありながら田舎独特の侘び寂びをかもしだしていたコンビニ。
ルーシーはその店で水を手に店を出た。
「行きましょう!」
ルーシーが駆けだす。マイルズもすぐに並走した。
コンビニまでそう遠くもない。
店員のおばちゃんは駆け寄る二人を窓越しに見つけると、大はしゃぎで手招きを繰り返す。そのしわくちゃな笑顔にマイルズは思わず笑った。
「ハッサ教授の田舎だけはある。いい人ばかりだ」
キャリーケースは無事、何事もなくルーシーの手に戻った。
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