第8話 実家

 山のなかに道路が通っている。

 左右を高い木立がふさいでいるため薄暗い。雑草を噛んでしまうキャリーケースを担いで坂を進み、やおら現れた脇道を回ってようやくたどり着いた。

 ルーシーが不安げに地図と周囲を見比べる。


「ここ……でしょうか? 本当に?」


 それらしいものは他にない。

 ハッサ教授は実家と言った。民家であるに違いない。

 マイルズは呆れのあまり天を仰いだ。


「いつから帰ってないんだ、ハッサ教授」


 平屋建ての瓦葺きには枯葉が積もる。化石のように埃で固められた鎧戸よろいどはツタが這っていて、ススキのような雑草を足元に履いていた。

 その邸宅は廃墟だった。

 ご両親が介護サービス付きマンションに転居して以来、権利をとどめつつも誰も手入れしない状況が続いた空き家。

 売りに出そうにも買い手がつく見込みはなく、情報インフラの届かない疎外地では隠居さえも難しい。不法占拠されても文句が言えない状況だが、賊が出るほどの人口がない。

 はぐれ物件がここだった。

 二倍も年上という事実を今さらながらに実感して、マイルズは瞑目した。意を決したルーシーが歩を進める。


「とにかく、様子を見てみましょう」


 錆びついた鍵を慎重に開けて、ガタつく引き戸を開けていく。

 何年振りかの空気を吸った屋内の埃は想像を絶していた。まるでゴミ箱だ。覗き込んだルーシーが口元を押さえる。


「すごいですね。埃と蜘蛛の巣が……」

「母屋の掃除は骨が折れそうだ。隣も見てみよう」

「隣……ずいぶん立派な納屋ですね」

「教授はこれを車庫と言っていたぞ。車どころかトラクターだって並べられる」

「表に畑もありますし、いっそのこと家庭菜園もやりましょうか」

「兼業農家になれそうだな」


 言い合いながら、二人は敷地をあちこちと見て回って点検した。

 荒れ放題に放置されていたわりには、状態は最後の一線でなんとか踏みとどまっている。しっかりと均された土に雑草は意外なほど少ない。辛うじて廃墟ではなく空き家だった。草除けのまじないでもかかっているのかもしれない。

 一通り見て、住めないことはなさそうだと判断した二人は悲壮な顔でうなずき合う。


「暗くなる前に掃除をしないといけませんね」

「建材が腐ってないといいんだが」


 そうと決まってからも試練は多い。

 納屋から掃除道具を取り出すだけで一苦労だ。納屋を開けて埃まみれの道具を払い、とにかく母屋の玄関回りだけでもと埃を掃き出したところで日が暮れた。


「えぇ……」


 都会人ルーシーが戸惑った声を出している。

 マイルズは苦笑した。急に街灯のない世界に放り出されると、夜の暗さに面食らうものだ。街灯の明かりというものは、見た目以上にしっかりと広く照らしている。

 まだ空の端は赤いのに、山のなかは暗闇が垂れこめていた。


「夜間の作業は無理だな。ここで寝よう」

「え、っと」


 ルーシーはうなずき損ねて、埃のなくなった空間を見る。上がり框の周り、本当に玄関先だけだ。

 この狭い空間で寝ようとするなら、二人が並んで寝なければならない。

 マイルズは自分の荷物から寝袋をひとつだけ床に敷く。


「ルーシーはここで寝るといい。俺は表で寝るよ。元軍人だからな、野宿くらいお手の物さ」

「でも野ざらしというわけには」

「埃の中よりマシだ」


 玄関より向こうの廊下を見て苦笑する。

 まるで手が回らず、うずたかい埃がまるで雪のように降り積もっている。

 玄関から離れようと背を向けて、マイルズは足を止めた。

 服の裾をルーシーがつまんでいる。


「ルーシー?」

「……どちらにせよ、信頼しなければ始まらない状況です。なら、どこで寝ていただいても同じことです」


 そっと指を解いたルーシーは目を逸らしたまま、玄関の床板を指し示す。

 マイルズは躊躇する。

 うら若い乙女と寝床ねどこをともにするのは、なにより彼女の自尊心が許すのだろうか。

 尋ねようとしてマイルズは気づく。

 山奥でひと気がない状況だ。

 どこで寝ようが意味がない。結局、マイルズが邪悪な人間かどうか、そしてルーシーが気にするかどうかが問題なのだ。

 マイルズはばりばりと頭をかく。

 複雑な心境をまとめて丸めてため息とともに吐き捨てた。ルーシーの隣に寝袋を広げる。


「明日は早く起きて掃除をしよう。それじゃお休み、ルーシー」

「ええ。……おやすみなさい」


 寝袋に入ったマイルズは、こちらに背を向けて息を詰めるルーシーの気配を耳に察した。

 彼女の警戒心は正しいものだ。事実、四肢も細くしなやかで肌も透き通るような美女を、魅力的に感じないことなどできないのだから。

 ため息を心に留めて目を閉ざす。

 胸中の感情を潰して仮眠する技術を訓練してよかったと、マイルズは改めて軍役ぐんえきに感謝した。




 翌朝、日の出とともに起きたマイルズは隣に目を向けた。

 やつれた顔で眠るルーシーの青白い首に苦笑する。

 結局なかなか寝付けず、しかし最後には力尽きるように眠ったらしい。


「水……キッチンまで行くのは無理か。裏に井戸があったな」


 マイルズは音を殺して玄関から離れた。

 家の裏手には、地下水を汲み上げる古式ゆかしい手漕ぎポンプの井戸がある。水道も地下水から引いているらしい。

 何度もレバーを漕いでみると、咳き込むようにパイプの口から水が吐き出された。


「ほう、こりゃすごい。なんか和ノ国を描いた映画がそのまま出てきたみたいだな」


 冷たい水で顔を洗い、両手に溜めて水を飲み、腕で拭う。大きく息を吐いて改めてポンプを見た。

 和風映画で見かけるポンプが、観光地の再現でもないのに実在して、しかも現役で利用できる。たいしたもんだ、と小さくつぶやいた。


「さて、掃除を始めるか」


 マイルズは腕まくりをして、ルーシーが寝ている間にと取り掛かっていく。

 鎧戸を窓から外し、屋内の家財建材問わず片端から表に運び出す。そういえば床は板張りだ。畳じゃない屋敷もあることに改めて驚かされる。和ノ国、アメイジング。

 納屋に眠っていたはしごを使い、瓦葺きの屋根から枝や枯葉を払った。瓦は割れたり取れたりしていない。葺き直す必要はなさそうだった。

 そこまでやって日が高くなったころ、ルーシーがふらふらと玄関から出てくる。

 マイルズは屋根の上から声をかけた。


「おはよう、お姫様」

「おはようございます……あれ? 今何時です……?」

「日を見る限りだと十時くらいかな」


 あいまいにうなずいたルーシーは、さっと顔色を変えて目を見開く。


「すっ、すみません! 私、とんだ寝坊を……!」

「目覚まし時計のない朝は初めてかな。気にすることはないさ。言ったろ? 楽しめ!」


 マイルズが握り拳を突き上げて、ルーシーは困ったように口許を緩める。


 ルーシーも頭に三角巾を巻いて袖をまくり、掃除に加わる。

 二人がかりではりや天井から埃を追い落とし、床に積み上がったゴミを外に出して、柱や長押なげしを磨いていく。


「結構、手慣れていますね」


 大きな肩を伸ばして梁を豪快に拭うマイルズを見上げて、ルーシーが言った。


「なまじ優秀なもんで、大陸全土の基地を転々としたんだ。そのときに色々とね」


 マイルズは誇るでもなく言って肩をすくめる。彼はこう見えて空軍屈指のエースパイロットだった。

 ルーシーが雑巾を手にうつむく。


「なんだか、自分が情けなくなりますね。つくづく私は研究以外に何もしてきませんでした。専門職であるマイルズが、こんなにも多芸なのに」

「俺の場合は違うさ。できることが多いのも職能のうちだ」

「私が研究職であることは、できないことの言い訳になりませんよ。……そう、思いました。今」


 金バケツで雑巾を絞り、柱の前に膝を突いて拭う。丁寧に、隙間に入った汚れをかき出すように。


「だから、私ももっとたくさん挑戦して、自分を試してみたいと思います。これからは」


 マイルズは手を止めた。

 目の前の仕事に懸命に臨む若い女性は、一挙手一投足に効率を確かめるような思慮深さがある。

 微笑んでマイルズは自分の仕事に戻る。

 なんて立派な人だろう、と称賛を心に謳いながら。

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