第5話 選ぶ道
ルーシーがキャットウォークからドックを見下ろしている。
資料を留めたボードを持っていない彼女の姿を初めて見たことに気づいて、マイルズは彼女がずっと気を張っていたことをようやく知った。
隣に立ち、柵に腕を乗せる。
眼下では変わらずオーダーシックスの整備と改修が進められている。忙しない技師の動きを見下ろしながら、マイルズは尋ねた。
「よかったのか」
ルーシーはマイルズを見ずに、ゆっくりと首を振った。
「正直、勢いで言ったところがあります。これからどうするか、なにも思いつきません」
「ははっ。今なら謝れば許してもらえるんじゃないか?」
「自分の気持ちを偽ったつもりはありませんよ。オーダーシックスに……魂食らいのシステムには協力できません。私は研究を続けます。……困りましたね」
困ったものだ、とマイルズもうなずく。なによりも自分のその信念に。
妥当なところなら他企業への持ち込みだ。
だが、他所の研究資金で得た成果を売り込む不義理を働いたら、あっという間に研究者として干上がるだろう。発展が成熟した昨今、どこも技術流出には敏感だ。
しかし、ルーシーが目指しているものは子どもの自由研究とはわけが違う。先端技術の開発だ。設備も場所も、必要なものはあまりに多い。
「マイルズはこのあと、どうするつもりですか?」
ルーシーは考えることに疲れたような、覇気のない声で尋ねた。
軽くマイルズは応じる。
「オーダーツーに協力するよ」
「馬鹿は止してください」
「俺は、自分が恥ずかしいと思ったんだ」
ルーシーの碧眼が苦笑いするマイルズを小さく映す。
「さっき、きみはハッサ教授に啖呵を切っただろう。俺はあの時、オーダーツーを諦めるつもりだったんだ。諦めて、協力するつもりだった。賛同できないと思いながらだ」
「恥ずかしいことなどありません。それはリスクコントロールでしょう。なにもかも思い通りにならない以上、次善の策は当然の選択です」
「だがきみは選ばなかった」
ルーシーは顔を背けた。
その白い横顔をマイルズは振り向く。覗き込むようにして、問いかけた。
「なぜ、そこまでしてオーダーツーにこだわるんだ?」
ハッサに向かって、出世に興味がないと言い切った。そして実際、得られつつある評価と実績を捨ててまで、研究を続けようとしている。
なにが彼女をそこまで駆り立てるのか。
ルーシーはそっと息を吐いて、口を開いた。
「イデア・グレースを、知っていますか?」
「もちろん。オーダーワンを開発して消息不明になった天才技術者だろう。なんでも徹底して自分の存在を隠していて、写真の一枚すら残っていないと聞いたことがあるな」
幼少期は王立孤児院にいたらしいこと。女性らしいこと。そこでの証言が正しければ、今は二十代といったところだ。卒院以来の足取りは途絶えていて、実績だけが点々と残されている。
マイルズの言葉にルーシーは曖昧なうなずきを返す。
「……実は私、イデア・グレースを知っているんです」
むせた。
咳き込むマイルズを、ルーシーは冷たい目で見つめている。見下している気配はなく、当然の反応と静かに受け止めているようだった。
咳払いして呼吸を整え、マイルズはルーシーに向き直る。
「ええと、そのイデア・グレースっていうのは、そこの青いオーダーワンに関係する天才イデア・グレースであっているんだよな?」
「天才と呼ばれるとは、夢にも思いませんでした」
ルーシーはあっさりとうなずいた。
マイルズの口から間抜けな声が漏れる。教科書に載るだろう人物と知り合い、という気分は想像もつかない。
「といっても、ほとんど覚えていませんけどね。孤児院のお姉さんでした。子ども心に、とても丁寧な方だと感じたのを覚えています」
「孤児院だって。きみが?」
「よく驚かれます。……イデア・グレースは間もなく孤児院を去りました。私が大きくなって、オーダーワンとともに彼女がニュースになったとき、とても驚きました」
そうだろう。マイルズは思わずうなずく。
ルーシーはうつむいて柵を握る自分の手を見つめた。先達を目指して伸ばし続けた手は、研究所で実験モデルの開発を主導するにまで至り、今また当てもなくさまようことになる。
「なぜ姿を消さねばならなかったのかは分かりません。けれど、同じ道を志していたのは、きっと運命なんだと思いました。オーダーワンに込められた願いを、ゼロドライブに対して突きつけた反抗を汲み取るのが、私の使命なんです。……イデアさんは、私のことなど覚えていないでしょうけど」
ぎゅ、と柵を強く握る。
細い指は研究と資料に追われ、紙だこで節くれ立っている。
マイルズは声をかけようとして、言葉を見つけることができなかった。彼女が背負っているものはとても個人的で、密やかで、しかし重く大きいものだ。
「……少し、一人で考えます。またあとで」
ルーシーは遅れ髪をするりと引いて立ち去った。
「まったくお人好しですにゃ」
ルーシーの足音が消えるのを待って、ハッサが立ち尽くすマイルズに声をかける。マイルズは驚いて彼女を振り返り、彼女の皮肉げな笑みにつられて笑う。
ハッサはマイルズに歩み寄り、ルーシーが立っていた側とは逆の隣で立ち止まった。
「やっぱりマイルズも辞めるつもりですにゃね。協力してほしいことは、たくさんありましたのに」
「悪いな。俺はあくまで、オーダーツーに協力していただけみたいだ」
「話が違いますにゃ」
「今だいぶ盛った。だが、非侵蝕型に期待したいのは本当だ」
「さみしい話ですにゃ」
肩をすくめるハッサは、袖で口元を隠す。
「ま、仕方ありませんにゃ。マイルズはロリコンですからにゃ」
「……ん?」
マイルズはハッサを振り返った。
ハッサは愁いを帯びた目を細めてマイルズに流し目を向ける。琥珀色の瞳にはハッキリと、からかっていると書かれている。
「マイルズが若い研究者に尻尾を振ることくらい、予想してしかるべきでした。私の落ち度ですにゃね」
「待て。違うぞ。年齢は理由じゃない」
「マイルズが成人女性を女として見れない変態でも、生きていればきっといいコトもありますにゃあ」
「謂れのない誹謗中傷をもとに慰められた!?」
頭を抱えるマイルズをひとしきり笑うと、ハッサは紙片を手渡した。
文字と数列。住所が記載されている。
「これは?」
「どうせ当てもないでしょう? 私の実家ですにゃ。山の中で交通も流通も悪いですが、自然豊かで、なにより周りに人がいませんにゃ。好きなだけ試験や検証ができると思いますにゃよ」
「い、いいのか?」
手を伸ばすことに躊躇するマイルズに、ハッサは微笑む。
「気が済んだら、戻ってきてくださいにゃ」
笑顔に押されるようにマイルズは紙片を受け取る。
ハッサは用が済んだとばかりに背を向けた。ひらひらと手を振って歩き去る。
マイルズは彼女の背中に深く頭を下げる。踵を返し、ハッサとは別の方向へと足を踏み出す。ルーシーが立ち去ったほうへと。
その足音を聞き届けて、ハッサは足を止めた。
「……本当のところを言うと」
狐耳をぺたんと寝かせる。うつむいた。
振り返らないまま声をこぼしていく。
「マイルズを引き留めたいです。テストパイロットとしても。……私個人としても」
ふと腕を掲げて、自分の手を見る。
まるで穢れひとつ知らないうら若き乙女のような細い指。
自嘲気味に笑った。
「でも、まあ……その気持ちは、自分の研究と引き換えにするほどではありません。悲しい
ハッサは振り返った。
もう、誰もいない。
ただ無人の鉄橋が無機質に続いているだけだ。
「……ばーか」
そしてハッサは再び足を踏み出した。
彼女の研究室に向かって。
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