第42話 束の間の休
「本当に大きい。他にもいろんなお魚がいるね」
「ああ」
相槌を打った。気の利いたことが言えない。苦しくて、もどかしい。すぐ右には椎奈さんの白くて小さな手がある。ためらいなく握ることが出来るなら楽なのに、それも到底できそうになかった。
「水が綺麗だな」
「うん。私も同じ事思った」
透き通った高音だ。目の前をイワシの大群が通り過ぎる。
「水の塊を美しく表現できる水族館が私は好き。だから、この水族館はすごく……好き」
椎奈さんなりのこだわりなのだろう。へへへっと声が漏れるのを聞いて、激しく素顔を見たい衝動にかられた。
「変なこと言っちゃったかも、恥ずかしいなあ」
「全く変じゃない」
シリンダを押したら空気が洩れるように、言葉が口から出た。俺はマンボウがゆったりと横に流れていくのを眺めながら、呼吸を整える。
「俺はマンボウが好き。変じゃない?」
微笑みながら横をちらっとみやった。椎奈さんは吹き出すように笑い声を上げた。
「それはちょっと変わってるかも。でも、いいじゃん、マンボウ可愛いし」
「でもってなんだよ、でもって」
椎奈さんはごめんごめん、と囁いて笑い続けている。
「どういうところが好きなの?」
マンボウは当然喋ることができない。俺が彼――もしくは彼女――の気持ちを代行して、椎奈さんに良さを知ってもらおう、と心の中で意気込んだ。
「多すぎて全部は話せないから
「マンボウのこと以上に据衣丈くんの好き度がよく分かったよ」
非常にまずい。引かれただろうか。椎奈さんは、うん、うん、と相槌を打ってくれていた。気持ちよくなってつい喋り過ぎてしまったのだ。
「熱が入ってしまった。ちょっと恥ずかしいな、こういうの」
「面白かったよ? 据衣丈くんがマンボウ好きなんて初めて知ったし。ふふっ、マンボウって……ふふふ」
見ていると楽しんでくれているように思える。けれど、無理して取り繕ってくれている可能性も否定できない。顔を見たい、その気持ちをグッと唾と一緒に飲みこんだ。
巨大水槽に背を向けて、順路を進んだ。再び薄暗い通路へ差し掛かる。暗がりには青色のLED照明がよく映える。夜空の下で輝くイルミネーションを彷彿とさせた。今日はクリスマスイブなのだ、夜になると街全体が同じような雰囲気になるだろう。
真っすぐ進み続けると、しばらくして曲がり角に差し掛かった。曲がると同時に、少しだけ明るさを取り戻す。
最寄り駅で見た水中トンネルだ。頭上をペンギンが泳いでいる。
「わ! ちょっと待って、やばい! ペンギンじゃん!」
椎奈さんが今日一番の大声を上げた。それと同時に、俺は何の前触れもなく椎奈さんの通学鞄を思い出した。
波乗りペンギンだ。サーフボードとデフォルメされたペンギンが一体となっているキーホルダーを鞄に付けていた。椎奈さんはペンギンが好きなのかもしれない。
「ペンギン、可愛いな。マンボウほどじゃないけど」
「マンボウを引っ張りすぎだよ! てか、めちゃくちゃ可愛い! はああ、すごい、真上を泳いじゃってる、据衣丈くん、見て見て!」
清々しいほどに無邪気だ。まるで幼児が憑依したかのようで、見ている側も楽しくさせるような力がある。俺は微笑んで、椎奈さんの指差す先を眺めた。
円形のトンネルはすべてガラス張りになっている。床は真っ白に装飾されていて、クリスマス仕様だろうか。空気を吸いながら海の中の雪道を歩く、そんなカオスな状況に仕上がっていた。
水中トンネルを抜けてからは、世界の珍しい魚やふれあいゾーンを巡った。館内の展示はそこで終わりのようだ。
外へ出ると目の眩むような明るさに包まれた。スマートフォンの画面で時間を確認する。おおよそ一時間ぶりの日光だ。併設されているカフェで休憩することにした。
重厚感のある木目調の扉を開けると、巨大な円柱型の水槽が目に飛び込んできた。まるで太い木の幹が店内の中央を貫いているようだ。
水槽の中には海洋生物が全くいない。入っているのはクリスマスツリーと思われる一本の樹だけだ。水中ということもお構いなしに、飾り付けがされている。スノードームが巨大化したらこういう光景になるかもしれない、とふと思った。
店員さんに案内され、窓側の席に座った。店員さんの目が泳ぎすぎている。椎奈さんの顔面はそれだけ衝撃的で恐怖を駆り立てるのだ。こういった反応はもはや見慣れたものだった。
しばらくして、注文したドリンクが運ばれてきた。お互いに同じタイミングでグラスを持ち上げる。
特に意識することなく、お互いのグラスを宙でぶつけた。呼吸するのと同じぐらい、それが当たり前であるかのように。からんと音を立てて、茶色の液面が波打つ。
「お疲れ。ちょっと歩き疲れたな」
「お疲れさまー、今年一笑ったんじゃないかってぐらい笑ったよ」
「チンアナゴ」
俺がにやけながら呟くと、椎奈さんはマスクに手を当てて笑い声を上げた。肩の震えは腕に伝搬し、やがてグラスを持つ手を揺らした。液面が振動し、ストローがゆらゆらと上下左右に踊っている。その様子はまさに――。
「ストローの動きをちゃんと見て……チンアナゴみたい」
「ぷっははは! や、やばい、ツボっちゃった! あはは、はあはあ」
椎奈さんは体をくの字に折り曲げて、顔を机へ近づけた。肩がゆっくりと上下している。呼吸を整えているようだ。
こんなにも愉快な気分でいていいのだろうか。得体のしれない後ろめたさが頭の片隅から離れてくれない。
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