第41話 広く暗い海
一歩一歩、着実に入場ゲートまで近づいている。すなわちお姉さんに近づいているのだ。椎奈さんとオープン前の水族館を楽しめる期待感とお姉さんの顔を間近で見られる高揚感が胸の内で混ざり合った。
ようやく順番がまわってきた。俺の右隣には同級生、さらにその右側にはお姉さんだ。なぜだか妙に緊張した。お姉さんの美貌に対する緊張だけではない。椎奈さんの格好を見たお姉さんの反応が問題なのだ。
ふぇ、と素っ頓狂な声が漏れるのを聞いた。これまでニッコリ笑顔だったお姉さんの顔が引きつっている。椎奈さんの不審者染みた格好がそうさせているのだろう。
「ご、ごご、ご来館ありがとうございます」
明らかに動揺している。水族館は基本的に暗がりを歩く仕様になっているはずだ。こんな危なげな人を入れていいのだろうか、と困惑しているのが伝わってきた。ちら、とお姉さんは切れ長の目を俺のほうへ向けた。俺は小さくため息を吐いた。
「中って結構暗いですよね」
「え、は、はい。水の美しさを最大限に活かすために照明の量を抑えております」
「そうですよね。はぐれないように気をつけます」
俺は微かに口角を上げた。連れがいるのだから問題ないだろう、と判断したのか、お姉さんはゆっくりと笑顔を戻していく。
「失礼いたしました。招待チケットを拝見いたします」
深みのある落ち着いた声音だ。作り物めいた元気さがなくて心地良い。薄めの唇はくいっと上がり、白い歯が寸分のずれもなく綺麗に並んでいる。
「お願いします!」
「ありがとうございます。プレオープン記念とクリスマス記念を兼ねまして、館内は特別に装飾いたしております。ごゆっくりとご観覧くださいませ」
椎奈さんはチケットを差し出し、パンフレットとチラシのようなものを受け取った。
ゲートをくぐり抜け、真っ暗な地下トンネルのような通路へ入り込む。不意に後ろを振り返ると、美形のお姉さんはすでに次のお客さんの対応をしていた。
椎奈さんの見た目に対する赤の他人の衝撃などその程度なのだ。夜景を見たときの感動は一瞬でピークに達し、その後は蛇足となってしまうのと大差ない。
今のところは全く混雑していない。プレオープンチケットの配布枚数が多くないのだろう。そう思うと、今から過ごす時間は本当に貴重なものに思えた。目に焼き付けようとする気持ちがより一層高まる。
「うっわ、すご! 据衣丈くん、見て、これ!」
「おお、でかいな」
椎奈さん声を上げて、大きな魚の模型を指差した。俺も思わず声が漏れる。
模型は四角いボードにはめ込まれている。尾ひれを下にして垂直に立つさまはまるで半魚人だ。けれど足は生えていないし、何の特徴もない一般的な魚であることは間違いない。
ふと、横に書かれてある文字が目に入った。
――マグロと背比べ!――なるほど、マグロらしい。ボードにはメモリが書かれている。210cmの巨大マグロだ。
「最近、身長測ってないんだよねー。伸びたかな」
椎奈さんはマグロの顔を見上げながら横に並んだ。カップル、と呼ぶにはあまりにも無理があるかもしれない。彼氏のほうが驚くほど無表情すぎる。俺は椎奈さんの頭上に視線をやった。
「156cmぐらいだな」
「なっ!? 2cm縮んでる!」
こんな簡易的なボードで正確な計測など出来るわけがない。おそらく158cmが正しい身長なのだろう。小柄だな、と感慨に耽った。
「おっきいなあ、君はー」
そう言って椎奈さんはマグロの胴体をぽんぽんと叩き、ボードから離れた。
先へ進むと、小さな水槽が壁に埋め込まれるようなかたちで、ずらっと並んでいる。
小型の海洋生物が展示されているエリアなのだろう。深海に住む生物や熱帯魚など、日常生活では見かけることがなく魅力的だ。それは海の生き物だけでなく陸の人間にも同じことが言える。
展示物に対する椎奈さんの反応は、見ていて飽きない。チンアナゴを指差して「波平の大切な髪の毛みたい」と腹を抱えて笑い、クマノミを見て「君は偽物だ! だけど可愛いから許す!」と上から物を言う。オジサンという名称の魚を真正面から見て、再び腹を抱えて笑ったりもしていた。ひたすらに楽しんでいるようだった。
館内はほどよく盛り上がりを見せていて、早く出たくなるほどの喧噪はない。薄暗さも相まって、どこかリラックスできる空間に思えた。
じっくりと小型生物のエリアを見て回ると、やがて大きく開けた場所に出た。
言葉を失った。空が落ちてきたような、海がせり上がってきたような、澄んだ青色が目に飛び込んでくる。
視界の範囲には縦も横も到底収まらない巨大な水槽だ。一体、何人分の高さだろうか、少なくともビルの二階分はあるように思える。人間の体のちっぽけさを痛感させられた。
中央で巨大な何かが優雅に泳いでいる。黒い三日月だ、と思った。刹那、修学旅行で訪れた大阪の海遊館での光景がフラッシュバックした。
俺はこいつを知っている。
周囲にも数十種類ほどの生物がゆらゆらと漂っているけれど、巨大な胴体が放つオーラは圧倒的だった。初めてこの位置に立った者の視線を無条件で惹きつける、そんな力がある。
「ジンベエザメだ」
椎奈さんがぼそっと呟いた。海遊館のほかにも国内数か所で見られる、水族館のカリスマ的存在だ。
魚たちが泳ぐ水中には真上から光が差している。まるで水の中で半透明のカーテンが漂っているようだ。
椎奈さんが水槽のほうへ近づいていった。後ろ姿は真っ黒い。寂寥感の塊に思える。幻想的な水の塊の前では人間など細部を塗りつぶされた黒色にしかなり得ないのだ。
椎奈さんの形をしたシルエットが水槽と重なって、穴が開いているように見える。そんなわけがないと分かっているのに、そう錯覚してしまうのはなぜだろう。
この世から椎奈さんは消えてしまっていないだろうか。この喪失感はどこから湧いてきているのか、どうしてこんなにも悲しさが押し寄せてくるのか、明確な答えが欲しくてたまらない。
俺は椎奈さんの隣まで歩いた。
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