第40話 水の塊の箱
無意識のうちにスマートフォンを起動させていた。ふとした瞬間にスマホへ手が伸びてしまうのは、生活の一部となってしまっているからだろう。時刻は一時を過ぎたところだ。
不意に椎奈さんの腕時計が視界に入った。淡い桃色の革バンドと小振りな表示板が、カジュアルながらも主張しすぎないお洒落さを醸し出している。大層、似合っていた。
「そろそろ出るか」
俺が声をかけると椎奈さんは、うんと頷いて胸の前で手を合わせた。
ニットを着ているせいで胸の膨らみがくっきりとわかる。咄嗟に視線を逸らした。興奮よりも邪な思考を悟られたくない気持ちのほうが勝ったのだ。相手が椎奈さんだからそういう風に考えたのかもしれない。そう思った刹那、ごちそうさまと聞こえて、俺もすぐに反復した。
席を立って退店する。扉を開けると冷たい海風が頬を撫でた。昼のピーク時間を過ぎても、入り口付近は混雑している。
一歩踏み出した時、不意に左手の甲が何かと触れた。サラッとした生暖かい感触だ。それは紛れもなく椎奈さんの色白な肌であって、俺は右へ半歩ずれた。
心臓の高鳴りは興奮によるものなのか、緊張によるものなのか、判然としない。嫌な気分になっていないことだけは確かだった。
来た道をひたすら折り返す。椎奈さんは退屈していないだろうか、歩き疲れていないだろうか、そんな不安が周期パルス信号のように一定間隔で訪れた。
駅のコンコースは喧噪に包まれている。視線は終始感じるけれど、あまり気にならない。
やはり平日よりも男女の二人組が多い気がした。笑顔で話しながら軽めのボディタッチをする女性や、緊張した面持ちで真っすぐと道の先を見つめている男性など、千差万別だ。
それらすべての出来事が一瞬のうちに過去の記憶へと変換されてしまう。決してやり直すことも書き換えることもできない。雪がアスファルトの上に落ちて幻想性を失うのと同じように、そこには儚さが詰まっているだろう。
今のこの一秒を楽しめればそれでいい。そう思って横を見やると、椎奈さんが丁度こちらへ振り返った。
「なんだか今のこの感じって、デートしてるみたいだよね」
「不思議だよな」
「不思議ってなに、どういうことー? 嫌なの?」
椎奈さんは笑いながら冗談交じりに呟いた。嫌なわけがない。俺から誘っているのだから当然だ。素直に言葉にするのが恥ずかしくて、俺は「どっちだろうな」と惚けた。二言三言、文句を重ねる椎奈さんが妙に愛くるしい。
改札を抜け、電車へ乗り込んだ。ニ十分ほど揺られながら、海岸沿いをひたすら南へ下る。
駅に着くと、ホームの巨大広告が目に飛び込んできた。今から向かおうとしている水族館の宣伝だ。海の中から空のほうを向いて写真を撮ったような構図で、水面から光の帯が降っている。トンネルのような空間に人が立っていて、頭上のガラスにはペンギンの腹が映っていた。
駅を出て十分ほど歩くと、広大な駐車場が見えた。全国からの観光客を狙って、広めに設計されたのだろうか。大型のアウトレットモールの駐車場と同等レベルの面積に思えた。
さらにその奥には巨大なドーム型の建物とその周辺に台形の建物が二つ確認できる。屋根が真っすぐではなく斜めに傾いていて、曲線が美しい。修学旅行のときに見惚れた大阪駅の大屋根がふっと思い起こされた。
椎奈さんのほうをちらっとみやる。俺と同じように遠くの建物を眺めている気がした。
「あの屋根、すごいね」
「だよな。どうやって作ったのか謎過ぎる」
「きっと、こう……」
そう言って椎奈さんは胸の前で手をこねくり回した。ドンだとかガシャンだとか、寄せ集めの擬音が飛び出す。そこには迫力など一切ない。
やがて満足したらしく「こんな感じなのかな」と呟いた。どんな感じなのか露ほども分からなかった。
カップルや親子連れに紛れながら、十分ほど歩いただろうか。遠くから見えていたドーム型の建物が目の前に聳え立っている。外壁はコンクリートではなく全面ガラス張りのようだ。街中のビルに使われている藍色のものと同じだろうか。
中へ入ると、青色のタイルで作られた内壁が目に入った。水族館へやって来たのだな、と小さな感動を覚えさせるには十分だろう。エントランスは大きく開けている。テーマパークや映画館というよりは美術館に似ていた。
プレオープンということもあって、チケット売り場は封鎖されていて閑散としている。会場への入場ゲートで入場券の確認が行われていた。お花を摘みにいかなくていいかどうか椎奈さんに確認し、順番待ちの行列に並んだ。
列が前に進んでいくと、従業員のお姉さんが視界に入った。キャビンアテンダントのような衣装に身を包み、ゲート前で来場者に笑顔を振りまいている。
かなり美形だ。何かしらのミスコンでグランプリを獲得していても不思議ではない。澄んだ瞳は仄暗い中でも輝く星のようにきれいだ。思わず視線が引っ張られてしまう。
「据衣丈くん、チケット貸してくれる?」
「え?」
突然、椎奈さんがはっきりとした声で言葉を発した。俺の体の前には椎奈さんの手のひらが差し出されている。物理的には小さいのに、どこか巨大な力を感じた。
「何か確認するの?」
「まあ」
言いながら俺はポケットに右手を突っ込んだ。それと当時に列が移動した。お互いに二歩ほど前進したけれど、椎奈さんは伸ばした手を全く収めようとしない。おかげで俺の腹の辺りに少し触れた。それでも椎奈さんは
チケットを差し出した。書かれていることには一瞥もくれず、腕を下げて前を向いた。
「え、何も見ないのか」
「まあまあ」
上手く
「私、右にいよっと」
「はい?」
そう言って椎奈さんは列の右側へ移動した。俺は軽く押しのけられる形で左側へ移る。俺の意思に反して二人の位置が入れ替わってから、ふと気が付いた。お姉さんは右側に立っているのだ。
つまり――
「どういうこと?」
「右側に立つほうがしっくりくるんだよね」
「なんか、芸人みたいなこと言うな」
俺はそれ以上、何も言わなかった。
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