第39話 味の有る時
目の前のご馳走に視線を移した。椎奈さんの注文したバーガーは見るからに豪快だ。バンズからはベーコンがはみ出ていて、皿の上に垂れている。
その隣には俺のバーガーが置いてあった。艶のあるチーズと肉汁溢れるパティがバンズから顔を覗かせている。たいそう、うつくしい。
「いただきます」
「いただきます!」
何気なく呟いた言葉は椎奈さんの活気ある高音と重なった。
椎奈さんは両手でバーガーを持ちあげる。このままではマスクが邪魔で食べられないだろう。本人も重々承知しているらしく、右手だけでバーガーを掴めるように持ち替えた。宙ぶらりんとなった左手は純白のマスクへ近づいていく。ただじっとその様子を凝視した。まるでマジックの種を見破ろうとしているかのようだ。
マスクの下部を人差し指と親指で摘まむ。俺の喉元からごくり、と音が鳴った。
椎奈さんは微かに顎を引く。マスクと顔面の間に隙間が出来ているようだ。真正面から見ていても皮膚の部分は一切垣間見えない。ハンバーガーがマスクの裏側へゆっくりと吸い込まれていった。見えているバーガーの部分は満月がかけたような状態だ。
「うわっ、めちゃくちゃ美味しい!」
顎の動きと連動してマスクも揺れている。食事中であっても椎奈さんがぼろを出さないことは周知の事実だ。今は椎奈さんの素顔についてあれこれ考えるのは止そう。
俺もバーガーを持ち上げて、一口かじりついた。
チーズの濃厚さとパティのガツンとくる旨味が口の中に広がる。それらだけでは重くなり過ぎるだろう。フワフワなバンズがくどさを包み込んで、うまくバランスを取っている。飲みこむと、得も言われぬ満足感が、ふっと身体の底に積もった。
「うっま!」
思わず声が漏れてしまった。真正面に座る椎奈さんが、ふふ、と声を漏らす。
「そんなに大きな声出すの、珍しいね」
恥ずかしい、とは思った。感情を抑制せずに表へ出すことは珍しい。一歩引いた距離で他人と接していると、知らないうちにストッパーがかかるのかもしれない。
「椎奈さんのやつがうつったのかも」
「病気みたいに言わないでよ!」
椎奈さんは大仰に笑い声を上げた。つられて俺も思わず口元が緩む。
不意に窓ガラスのほうをみやった。全面ガラス張りになっていて、テラスの様子が
「今日、晴れてよかったな」
「だね。昨日、てるてる坊主作ったんだよ! それが効いてるのかも」
「てるてる坊主に借りを作っちゃったのか」
「もう、ゴミ箱入りしたから借りは返せないね」
てるてる坊主は死去したらしい。セミよりも短命だ。心の中でてるてる坊主の冥福を祈り、密かに感謝した。
そういえば、と椎奈さんが呟く。右手に持っていたバーガーを皿の上に置いて、顔を上げた。
「天気で思い出したけど、水族館へ一緒に行こうって誘ってくれた日、雨すごかったよね」
ああ、と声が漏れる。下校する頃にはバケツの水をひっくり返したような雨となっていた。数十年に一度の記録的豪雨だったらしく、都心でも全域で浸水被害を受けたと報道されていた。折り畳み傘では全く歯が立たなかったのを覚えている。
「全身びしょ濡れで帰宅して、芹花に罵声を浴びせられたよ」
「あはは、なんか簡単に想像できちゃう。芹花ちゃん、しっかりしてるよね」
「たしかに、しっかりと女子中学生を全うしてるな。生意気がすぎる」
「それがまた可愛いんじゃん」
椎奈さんは奴の面倒さを理解していないようだ。声をかけただけで機嫌を損なうのだからどうしようもない。可愛い妹などこの世に存在しないと俺は思っている。
唐突に椎奈さんが、あ、と呟いた。世間の妹に対する見方を改めたのだろうか。ぜひそうであってほしい。
「あの日の朝、琴平くんたちと話してたじゃん?」
琴平? 誰だろう、と一瞬思ったけれどすぐにそれがピアノのことだと気づいた。
「ああ、そういえば話したな。というか、揉めてしまった」
「私のことで……だよね」
「え!?」
「実は聞こえてて」
思わず目を見開いてしまった。前を歩いていたのが椎奈さんかどうか半信半疑だったけれど、どうやら間違っていなかったようだ。口ぶりから察するに、会話の中身も把握されてそうだ。
「そうか。内容とか不快だったよな」
「大丈夫、もう気にしてないよ? それに」
そう言って椎奈さんは微かに俯いた。艶めく前髪がはらりと振れる。まるで絹糸のようだ。
「ありがとう。いろいろと」
椎奈さんはへへっと吐息を漏らす。「恥ずかしいな」と囁いて、ジュースのストローをマスクの裏へ忍び込ませた。
何に対して感謝されたのか。明言していないから確信はないけれど、ぼんやりとした予想は立っている。
俺は一言、うん、と呟いた。
バーガーを食べ進める速さはお互いに緩やかだ。しきりに会話を挟んでいるのだから無理もない。
椎奈さんは入浴する時だけマスクとアイマスクを取り外すらしい。裏を返せば、家の中でも顔を見せないということだ。家族にも隠しているのだから、俺が入り込む余地など本当にないのかもしれない。
より深いところまで聞き出したくなってしまう。出かかった言葉をジンジャーエールと一緒に飲み下した。
早まっては駄目なのだ。俺は話を逸らしたくて質問を繰り返した。
休日は滅多に外へ出ないらしい。漫画やゲームにどっぷりつかり、体が固まってくるとストレッチをするようだ。ストレッチ!? と食い気味に問うてしまった。椎奈さんは「え……そんなに反応しなくても。なんかやだな」とくぐもった声で呟く。目を合わせると石化してしまうような冷たい視線が浮かんでいるのだろうか。アイマスクに助けられて、ほっと胸を撫でおろした。
気付けば、満月のようだったバーガーが石ころみたいに小さくなっていた。最後の一口を惜しみながら飲みこむ。結露したグラスの中で、からん、と氷のぶつかる音がした。
「美味かったな。地球最後の日は迷わずこれを食べるレベル」
「地球最後の日なんてビッグイベントなのに、かなり安上がりだね」
椎奈さんは右手を軽く握ってマスクのほうへ近づけ、ふふっと笑った。俺もつられて口角が上がる。
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