第43話 雪の白と告
間違いなく楽しいのだ。家にいる時間と比べてみても、引けを取らないほど居心地が良い。椎奈さんの濁りのない笑い声を聞くと安心さえする。たとえ顔面を覆い隠していても、楽しさや喜びは声だけで感じ取れるのだ。
素顔を見る必要などないではないか。そうやって本心を丸め込もうとしても、脳内にかかった靄は決して晴れてくれない。意図的に自分を偽る辛さは、天災のやるせなさに似ている。
背後からひそひそと話す声が聞こえた。内容までは聞き取れない。やがて俺たちの席の横を男女二人組が通り過ぎた。椎奈さんの顔を見て、あれこれ言い合っていたのだろう。
「ペンギンもめちゃくちゃ可愛かったよね。一生に一度でいいから、いつか抱きしめたいんだ! お腹のあたりとか柔らかそうじゃない?」
「ん? ああ、そうだな」
「太すぎず細すぎず、ちょうど可愛い体形してるし。ペットとして飼えないかな、無理かな?」
「どうだろうな」
机の上を見ながら呟いた。
しばらく待っていても返答がない。不意に顔を上げると、椎奈さんが首を微かに傾げていた。それと同時に俺は再び視線を落とす。据衣丈くん、と囁く椎奈さんの声はひどく儚い。
「私と一緒にいて、嫌な気持ちにならない?」
「え」
全く関連性のない話に切り替わって、思わず言葉が詰まった。
「ど、急にどうした? そんなの、全くならない」
「でも……私といると目立つし、陰で嫌なこととかも言われてると思うんだよ」
俯いて呟く椎奈さんは普段よりも一回り小さく感じた。学校では元気で明るい姿ばかりを見ていたけれど、常に楽観的でいるわけではないのだろう。
「たしかに視線は感じるし、話し声が聞こえるときもあるから少し息苦しくはなるけど」
僅かに息を吸い込んだ。
「周りなんて関係ない。俺は楽しいよ、一緒に水族館に来れてよかった」
「そ、そか……ありがとう」
全身が急速に熱を帯びた。内部で火を起こしたかのようにカッと熱くなる。
「えと、というか、椎奈さんこそ俺と一緒にいて大丈夫? つまらなくない?」
椎奈さんは「ん? ダメかも」と囁いて顔を上げた。
甘い香りが空気の中へ溶け込んだ。発散するのではなく漏れ出てしまうように。
「楽しすぎて苦しい」
小さな声だけれど、かろうじて聞き取れた。先生にたしなめられて渋々自供する小学生のような声音だ。
楽しいのに苦しい、その表現は矛盾しているように思える。けれど、それは違うのだとすぐに気づいた。
特別な事情を抱えていない限り、これらの感情は同時に生まれないはずだ。裏を返せば椎奈さんは例外ということになる。マスクとアイマスクを同時に身に付けて街中を歩き回る人間は間違いなく何かを抱えているだろう。
他の誰のものでもない、椎奈さんの言葉だからこそ、そこに矛盾は生じていない。
「なんで、苦しいの?」
俺は静かに呟いた。口から出た言葉は声というよりも息に近いだろう。声量を抑えれば気を悪くさせないとでも思ったのだろうか。無意識のうちにそんなことを考えてしまう自分が嫌いだ。
静まり返った。店内全域がそうなったわけではない。周囲の喧噪は相変わらずすさまじいのだ。
二人の間の空間から音が消えた。代わりに気まずさが溜まっていく。しばらくして椎奈さんの深呼吸する音が聞こえた。
「みんなと同じように楽しめてるのに、みんなと同じようには絶対になれないからだよ」
「みんなと同じ」
椎奈さんの声はか細く、悲壮感が漂っている。黙っているのが耐えられなくて、俺も呟いた。
気持ちの悪い言葉だ。みんなとは誰のことを指すのか。みんなと同じであれば正しいということになるのか。みんなとは何なのだ。椎奈さんの口からは絶対に聞きたくない言葉だった。
「それは見た目の話だよな」
俺が呟くと椎奈さんはくぐもった声でうん、と囁いて頷いた。
「マスクもアイマスクも本当は外したくて仕方がないんだよ。だけど、外せない」
「事情があるのか」
「うん」
話がトントン拍子で進んでいく。敢えて勢いを殺す必要はないだろう。俺は椎奈さんのアイマスクをみやった。
「外したいなら外せばいい、って思ってしまう」
声を張ろうとしても、声量は勝手にしぼんでいく。胃の辺りがキリキリと痛んできた。身勝手がすぎるだろう。吐き出した言葉の中には椎奈さんへ寄り添う優しさが全くない。
それでも俺は言ったことを取り消そうとは思わなかった。椎奈さんから事情を聞きだすためには、じっと待っているだけでは駄目なのだ。
「私のことを知らないからそうやって言えるんだよ」
その通りかもしれない。だからこそ――。
「知らないから教えて欲しい。椎奈さんのことをもっと知りたい」
「……うん」
椎奈さんの顔をじっと見た。きっとマスクもアイマスクも付けていなければ、こうやって見つめることはできないだろう。気持ちを伝えるには今のままの椎奈さんのほうがいいのかもしれない。
椎奈さんが頷くのと同時に、ピアノの旋律が店内に響いた。
音のしたほうへ振り向く。中央に設置されている巨大水槽が青く発光していた。何が起きたのだろう、と床から天井へ向かって水槽をみやる。すると、上から三分の一あたりの位置に丸いアナログ時計が設置されているのを見つけた。針は三時を示していた。
数秒か、数十秒か。音の鳴っていた時間は正確には分からない。けれど、俺にはその時間が果てしなく長く感じた。
早く鳴り止んでしまえ、と心の中で叫んだ。
音が徐々に小さくなっていく。
「私は据衣丈くんのことが好きだよ」
不意に聞こえたその囁き声は、ピアノの旋律に負けないぐらい心に染み渡る音をしていた。
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