第37話 先へ渡す鍵
「え? なになに?」
俺はポケットに右手を突っ込んだ。つるつるとした触感を指先に感じながら引き抜く。椎奈さんのほうへ差し出した。
「え? なにこれ。イルカ……え!?」
「水族館のプレオープンチケットなんだけど」
「うわっ、ほんとに!? え、すごい! これ、結構レアなやつじゃん!」
椎奈さんは声を跳ね上げて、俺の手元にグイっと顔を近づけた。
「津田のお姉さんに譲ってもらって。知り合いなんだよね?」
「え? ああ、まあ」
椎奈さんは言葉を濁す。俺も追求しないようにした。今の話の本筋に羽衣さんは関わってこない。話を脱線させたくはなかった。
「このチケットさ、マジで凄くて」
「うん。いや、分かってるよ」
「いやいや、椎奈さんはまだちょっと舐めてると思う」
そんなことないよ! と大声で喚く椎奈さんが妙に可愛らしい。知らない人が家にやって来たときの子犬の吠えるさまに似ている。
「そこまでいうなら、凄さを教えてよ」
「なんと……一枚で二人入場できます」
「据衣丈くん……それは多分そのチケットの中で数少ないごく普通の部分です」
「た、たしかに」
そう言って椎奈さんは純白のマスクに触れた。呆れられただろうか。それとも笑ってくれただろうか。俺は椎奈さんの顔面から目を逸らした。表情が見えないもどかしさを紛らわしたかったのだと思う。
「椎奈さんと気まずくなってしまったけど、こうやってもう一度ちゃんと話せてるのが凄く嬉しくて。もっと椎奈さんのことを知りたいと思った。だから」
「……え、なに。どうしたの?」
勢いに乗せて言ってしまいたかった。現実はいつでも思うようにいかなくてもどかしい。
椎奈さんの素顔は今でも気になっている。けれど、それ以上に椎奈さんの多彩な一面を知りたいと思ってしまった。
息を大きく吐き出すと、白い塊がふわりと浮いた。霧散して消えるのと同時に、拳を握った。
「一緒に水族館に行きませんか?」
「ええ!? え……」
椎奈さんは自分で自分を抱くように、胸の辺りで腕を組んだ。そうかと思えば、腕をほどいて制服を
「ちょ、ちょっと待って、クリスマスイブだよね。李衣菜は……李衣菜を誘わなくていいの?」
ひょっとすると椎奈さんは勘違いをしているのではないか、と思った。人の思考を正確かつ完璧に読むことはできないのだから、真意は分からない。
早とちりは禁物だ。慎重にならなければ。
「鳴無さんじゃなくて椎奈さんと一緒に行きたい」
「なんだか、目が真っすぐで直視できない。けど、ありがとう」
目元を隠している人間が何を言ってるんだ、と思うと可笑しくなった。思わず頬が緩んでしまう。顔を引き締めようと力を入れた。
「えっと、据衣丈君は李衣菜のことが……なんていうんだろう……その……」
椎奈さんの声がたどたどしい。蚊の鳴くような寂し気な声音だ。俺はただじっと黙して立っていた。
「気になってるんじゃないかなって思ってたんだけど」
「俺が鳴無さんのことを?」
俺は言い終わって、赤黒く染まった液面の画を思い出した。度辛――度が過ぎるほどの辛さを表現する造語――のラーメンだ。頬に雫を垂らしながら表情一つ変えないで麺を啜る鳴無さんは、見惚れるほどに綺麗だった。
綺麗、ただそれだけだ。興味のない女優をテレビ画面で見たときの感覚に似ている。
「うん。李衣菜を誘った理由がどうであれ、二人で出歩くのはそういうことなのかなって思った。李衣菜は楽しそうに話してたよ、あの日のこと」
「鳴無さんが楽しそうに……あんまり想像できないな」
「ほんとに笑わないし、ムスっともしないもんね。李衣菜が自分で言ってたけど、楽しかったり嬉しかったりすると出てしまう癖みたいなのがあるんだよ」
前髪を触る癖。やはりあの仕草は鳴無さんの癖だったのか。そんなことをぼんやりと考えていると、椎奈さんが指先で前髪を軽くササッと払った。「これこれ、超可愛いんだよ」と呟く椎奈さんはひたすら無邪気だ。
「鳴無さんが楽しいって思っててくれたなら嬉しい。でも、俺は鳴無さんのことは全く気になってない。申し訳ないけど、誘ったのも邪な背景があってのことで、気があるわけじゃない」
「そっか」
それだけ呟いて、椎奈さんは静かに頷いた。
伝えたいことは伝わっただろうか。椎奈さんと話していると、ときどき心配になる。表情が見えないことが少なからず関係しているに違いない。
より言葉を重ねたい衝動を必死に抑えた。
「私でよければ、水族館行きたい」
瞬間、頭に衝撃を感じた。鈍器で殴られるような強いものではない。指先で軽く突かれたような小さな衝撃だ。反射的に空を見上げると、雲はより黒さを増していた。雨粒が降ってきたらしい。
「よかった。楽しみにしてる」
「うん」
屋内へ戻ると突然、雨脚が強くなった。
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