第36話 青く澄む声



    *     *     *



 見上げると、圧迫感のある灰色の雲が空に蓋をしていた。今にも雨粒が降ってきそうな、重苦しい雲だ。


 屋上の屋外テラスは昼休みにもかかわらず人が少ない。賑わいでいるのは三組ほどの男女の集団だけだ。雨模様を危惧して教室に引きこもっている人が多いのだろう。


 俺にとっては好都合だ。伝えたいことが伝わるかどうかは分からないけれど、外界から邪魔される心配はないだろう。


 真正面に立つ椎奈さんはいつもと何ら変わりない。寒気に抗いながら俺は椎奈さんのマスクとアイマスクを真っすぐ見つめた。


「なんか、久しぶりな感じがする」


「うん」


 椎奈さんはゆっくりと頷いた。綺麗な高音が心地いい。授業中に何でも耳にする声音だけれど、今はどこか特別なもののように感じる。


「もう十二月も半ばだし、だいぶ寒くなったよな」


「うん」


「髪伸びた? 前は肩にかかってなかった気がする」


「うん」


「……漫画家になるための条件は、うぬぼれと努力と?」


「……運」


 俺も椎奈さんも黙り込んだ。遠ざかった距離を埋められない。そもそも、椎奈さんの心へは近づいていなかったのかもしれない。嫌な空気に呑まれてしまいそうだ。


「話って、何?」


 ゾッとした。唐突なパスに驚きを隠せない。俺の目は不自然に泳いでいるだろうか。椎奈さんの表情が見えなくて、不安がとめどなく押し寄せてくる。


 この際、誤魔化しなんて必要ない。


「今まで椎奈さんにしてきたことすべて、最低なことだった。ごめんなさい」


「謝られるようなことは、別にされてないよ? 謝られても……困る」


 椎奈さんは手を後ろで組んで言った。なぜだろう。言葉を交わせば交わすほど突き放されていくような気がする。


「そうだよな。結局、謝罪なんて自己満足に過ぎない。でも」


 心臓が激しく脈動し、呼吸が荒くなっているのを感じた。一度視線を落として呼吸を整える。再び椎奈さんの顔をみやった。


「本当に椎奈さんの気持ちを考えてなかった。申し訳なく思ってるし、二度とマスクとアイマスクには追求しない。だから俺と」


「違う!」


 また普通に会話してほしい、という言葉は椎奈さんの叫び声で押し戻された。遠くのほうから聞こえていたはしゃぎ声が一瞬鳴りやんだ。


「据衣丈くんは勘違いしてる」


「え……いや、勘違いもなにも、俺がそう思ってて」


「据衣丈くんがしてきたことなんて、私はほとんど気にしてないんだよ」


 椎奈さんは俯いた。話していることと過去の記憶が上手く結びつかない。俺が風邪を引いた日のあの禍々まがまがしい空気は何だったのだ。


「いや、あの日……俺の見舞いに来てくれた日の帰り際に、見損なったって」


「あの時は本当に動揺してて、気持ちもちょっとごちゃごちゃになってたし……あんなこと言っちゃってごめん、後悔してる」


 椎奈さんの声は次第に沈んでいった。


 話の流れがおかしい。椎奈さんが謝る側になってしまっている。


「いや、椎奈さんこそ謝る必要ない」


「そうかな。そんなことないよ」


「そんなことなくない」


「そんなことなくなくなく……ない。あれ、あってる?」


「一つ多かった」


 二人して同時にふふっと声が漏れた。深刻な雰囲気が微かに和らいだような気がする。


 冷たい風が頬に当たって少し痛い。椎奈さんは左へ靡く黒髪を押さえた。


「ここ最近、ずっと据衣丈くんのことを考えてた」


 全身の皮膚が粟立った。寒さのせいだろうか。おそらく違う。きっと感情的な部分がそうさせているのだと思う。


「俺のこと……」


「うん。あの日から話しかけづらくなって、それで悩んでた。だから、話があるって声かけられて、こうやってちゃんと話せてるのが」


 言葉が止まった。息が詰まりそうだ。椎奈さんが俯くとサラサラな髪が風鈴のごとく揺れる。そこから出てきたのは綺麗な音色ではなく甘い香りだった。


「すごく嬉しい」


 椎奈さんの顔を見たい。突然、そんな衝動にかられた。


「椎奈さんは怒ってるんだと勝手に思ってた。一カ月間ずっと、近づけなかった。いや……避けてたんだと思う」


「うん」


 椎奈さんは無理に否定するような素振りを見せない。俺は張っていた心持ちがふっと軽くなるのを感じた。


「ぎくしゃくした空気が嫌だった。やっぱり怒ってたよな」


「少し怒ってた。びっくりしたしね。据衣丈くんの手首を折りかけた」


「病院送りにされるところだったのか」


「意外と細いよね、腕」


「椎奈さんほどではないと思うけど」


「なにそれ、褒めてる?」


 椎奈さんは無邪気に笑った。ひと月ぶりに椎奈さんの明るさを近くで垣間見た気がする。俺も自然と笑みがこぼれた。軽く相槌を打つ。


「もう怒ってないよ。あの日の晩にはすでに収まってた」


「そうなると、椎奈さんのことを避けてたのが滑稽だよな」


 俺は小さくため息を吐いた。椎奈さんは再び言葉にはならないような笑い声を上げる。


「変な距離感になって、ぎくしゃくして。私もずっと嫌だった。そう思ってても、どう話しかけていいのか分からなくて」


 椎奈さんはいつも気丈に振舞っているように見える。それは素顔が見えないせいかもしれない。明るさの裏に、心配性な一面もあるのだろうか。


 俺は椎奈さんのことを知らなさすぎる。どういう心持ちで過ごしていて、好き嫌いはあるのか、何に対して興味を持つのか、そんなことを知ろうともせずに、顔を隠す理由だけを探っていた。愚かだ。


「椎奈さんに渡したいものがあって」

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