第35話 息の詰る緊
「そんなに面白いかよ」
俺はピアノとヴァイオリンの顔を交互にみやった。顔が強張っているのを自分でも感じる。目の焦点が一瞬ずれて、視界が歪んだ。
ヴァイロリンは目を丸くして、ポカンとしている。気づけば俺も三重奏も廊下の真ん中で立ち止まっていた。
「え?」
「迷子の子と歩いてる様子が誘拐犯みたいで面白い? ネタ枠? そんなこと椎奈さんの前で直接言えるのか?」
「お、おいおい、急にマジな雰囲気になってどうしたんだよ」
ピアノが引き攣った笑顔で一歩近づいてきた。ヴァイオリンもチェロも言葉を発しない。口角を上げようとしても上がらないらしく、口の開きが中途半端だ。
「言えるわけがないだろ。だからこうやって仲間内で盛り上がってんじゃん」
な? と同意を求めるように、ピアノはヴァイオリンとチェロの顔を見遣った。
「本人がいないから何を言ってもいい、椎奈さんがどんな気持ちであんな格好をしているのかなんてどうでもいい、こんな陰口を椎奈さんが耳にしてどう思うのかも知るか、関係ない、そういうことかよ」
俺は一方的にまくし立てた。言葉は詰まることなくすらすらと口から出ていく。
それと同時に俺の気分はどん底まで落ちていった。慣れない怒りの感情に身を任せているせいではないのだと思う。勿論、
それとは比較できないほどに自分の愚かさがちらついて、嫌になった。三重奏に対して吐き出した言葉が、自分のほうへ返ってきている。矢印の先端が槍の切っ先のように、俺の喉元を突き刺しているのだ。
「今日の据衣丈、マジで変だぞ」
ヴァイオリンが口を開いた。ピアノの援護射撃に回ったつもりなのだろう。三者三葉の目をしている。それらすべてが攻撃的という点で共通していた。
「顔を隠す理由を教えてもらえないんだから気持ちを考えるもクソもないだろ。いじり倒すしかねえじゃねえか」
「据衣丈も半年間、傍観決め込んでたじゃん。今さら何言いだすんだよ」
ピアノの言葉に被せるようにしてチェロが言った。尋常じゃない思考回路を持っているチェロが普通のことを言い始めているのだから、きっとこの状況は異常なのだろう。
これまでしつこく椎奈さんに接触していた。夜道で偶然遭遇した日からもう二か月ほど経つのだ。それだけ経ても椎奈さんの抱えているものが何なのか分かっていない。
それどころか、椎奈さんとの関係を壊した。貴重な高校生活の時間も無駄にした。唯一得られたのは、素顔を隠す理由が椎奈さんにとっては全くただ事じゃない、という確信だけだ。
そんな事情を憚らず、陰口に浸るなんて俺は御免だ――そして俺は静かに拳を握りしめた。
「椎奈さんが何を考えててどんな理由であの格好になってるのかなんて、俺も知らない。だけど」
俺は軽く息を吸い込んだ。震えている。空気が揺れているのか口がぴくついているのかは分からない。
再び視界が歪むのに耐えながら、俺はピアノの顔を睨んだ。
「陰でバカにするのもいじるのも、なんか……違うだろ」
三重奏の眉間にそれぞれ皺が寄った。細められた目はゴキブリでも見ているかのような侮蔑の念が溢れている。無言の時間が息苦しい。心臓を思いっきり握り潰されているかのようだ。
「何なんだよ。マジで意味わかんねえ」
「もう教室行こうぜ」
ピアノとヴァイオリンはそう言って歩き始めた。少し遅れてチェロも後を追う。
まるで台風だ、とふと思った。台風の目は置き去りにされ、勢力を弱めて低気圧に変わったのだ。
状況は思いの外悲惨だった。周囲の視線が痛々しい。登校ラッシュさなかに廊下の中央で立ち往生していれば当然注目の的になるだろう。
下を向いて歩き始めた。三重奏に追いつかないようにゆっくりと。
恥ずかしさはあっても後悔はしていない。心がフワフワとしていて清々しい。乗っかっていた
椎奈さんとの距離感を狂わせて、三重奏との縁も切り、立て続けに黒歴史を残している。無様だ。行動を起こせば起こすほど、目に見えない暴力となって何かを壊す。それを恐れて過去の俺は他人と距離を取るようにしていた。
いつだって傍観者に徹し、本心を隔離して、安穏な領域に居続けた。楽だったのだ。ストレスを軽減できる、賢い生き方だと思っていた。けれど、そんな領域には決して拭い去れない虚しさもある。自分の身体から色が消えて透明になるような、そんな
椎奈さんが警察官に足止めされていたあの夜。あのとき俺は、無意識のうちに安穏な領域から脱却しようと試みたのだろう。今のところ片足を放り出して中途半端に止まっている。まだ完了していないのだ。
このまま壊したままにしておきたくない。椎奈さんとの関係はなおさらだ。
頭の中で静かに意気込んで、俺は顔を上げた。刹那、おそらく椎奈さんと思われる女子高生の後ろ姿が視界に飛び込んできた。
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