第34話 底に沈む暖

「何だよー、勿体ぶってないで早く聞かせろよ!」


 ヴァイオリンが満面の笑みで叫んでいる。ピアノに向かってちょっかいを出しているところを見ると、ピアノに何かを話させようとしているらしい。


「どうせパンツのチラ見に成功した、とかそんなくだらない話だろー。あ」


「おっ」


 あっさり気づかれてしまった。チェロの言葉を聞いた残りの二人も、俺のほうを同時に向くと声を上げた。


 各々が癖のある挨拶をしてきて、俺は無理やり笑顔を作る。同じクラスの女子が傍を通り過ぎるのが見えた。パンツ、などという言葉をよくも平気で言えるものだ。


「ピアノ、またそんなくだらないことやったの?」


「おいー、据衣丈までひどすぎね? 俺だって年がら年中やってるわけじゃないぞ」


 俺は声音を高くしておどけたように言った。ピアノの大仰に笑って腰に手を当ると、駄々をこねる子供のようにまくし立てる。ヴァイオリンもチェロもピアノを小ばかにして笑った。


 こんな空虚な日常会話からは有益なものなんて生まれない。言ってしまえば無駄な時間だ。それなのに心地良さがある。ありのままの本心をぶつけられない自分の弱さを肯定しているせいだろう。


「やってるってことは否定しないのかよ」


「チャンスだと思ったときには、そりゃあ見るだろ」


 なぜか堂々としたドヤ顔が浮かんでいる。ピアノは男子高校生のかがみだ。ここまで本能に忠実だといっそ清々しく見えた。かなり脆い橋を渡っているはずなのだけれど。


「それより、さっきの話早く聞かせろよー」


 ヴァイオリンが唇を微かに尖らして呟いた。痺れを切らしたらしい。俺は下駄箱のほうへ向いて上履きを取り出し、地面に放った。パンっと虚しく音を立てる。それと同時に、ピアノが「しゃーねーなあ」と呟いた。声が軽く弾んでいて、たいそう楽しそうだ。


「いやさ、昨日の帰りに池袋で買い物してたんだよ。あ、買い物っていっても、彼女のプレゼント探しな」


「あーはいはい、リア充羨ましいっすね」


 ヴァイオリンが目を細めて呟いた。そんな情報は求めていない、とでも言いたげだ。彼女持ちは彼女持ちで大変なんだぞ? とはにかみながら口走るピアノを見て、俺は右足を上履きへ思いっきり押し込んだ。


「で、買い物してたら天井からパンツが降ってきたのか?」


 チェロが興味のなさそうな真顔で問いかけると、ピアノは笑い声を上げた。下駄箱のエリアは雑多な話声に包まれていて、ピアノの声も溶け込んでいる。ピアノは「それは超常現象すぎるだろ」と言って、一呼吸置置いた。


「話を戻すけど。結構長い間、ムーンライトシティーの中をうろうろしてたんだよ。カップルとか女子高生の二人組ばっかりだなと思ったんだけど、意外に母親と子供で買い物してるのも見かけてさ」


「結論をはよ」


 チェロがピアノを急かす。俺にもどういう話なのかさっぱり分からないし、付き合う義理もない。三重奏は教室を目指して歩き始めたため、自然に離脱するなら今だろう。そんなことを考えてみたものの、何とはなしに聞き耳を立てた。


「まあ、焦んなって。それで、はしゃぎまわる子供を見てると、迷子になるんじゃねえかな、大丈夫かなってちょっと思ったんだよ。で、帰り際! まさにその予感がちょうど当たってさ。不安げな顔で叫びながらさまよう子供を見かけたんだよ! すごくね?」


「迷子の幼女を見つけたのかよ!?」


「男の子だったけどな。一体いつから男児を幼女だと錯覚していた?」


 急激にテンションを跳ね上げたチェロに対して、ピアノは――優しそうな顔立ちで太陽のように温かな笑顔を浮かべ、眼鏡と弱めのパーマが似合う男を彷彿とさせる口調で――チェロをたしなめた。


「しばらくその子の様子を眺めてたんだけど、通りかかった女子高生がその男の子に話しかけたんだよな。その女子高生っていうのが」


 ピアノはたっぷりと一呼吸置く。じっとヴァイオリンの顔を見つめるさまは、大金の懸かったクイズで正誤を回答者に伝えようとする出題者のようだ。


「椎奈さんだった」


「え、あのマスクの?」


 ヴァイオリンはきょとんとしたまぬけ顔を浮かべた。俺もチェロも同時に「え?」と呟く。

椎奈さんは迷子になってしまった男の子の親を一緒に探したのだろう。椎奈さんがそんな行動をとるということは容易に想像できる。


「何だよ、反応が薄すぎんだろ! あんな怪しげな格好をした女子高生が子供の手を引いて歩いてんだぞ、想像したら面白くね?」


 一瞬、俺はピアノの顔を睨んですぐに視線を落とす。話しながら笑うピアノの顔はけがれているような気がした。


 笑みを浮かべられるほど愉快にはなれなかった。ピアノの言葉が冗談なのか本気なのかは関係ない。ただただいら立ちが募っていく。感情のままに表情が変わってしまうのは人間の性なのだろうか。


「ああ、確かに想像すると面白いかもな。親切な人っていうより……誘拐犯?」


 ヴァイオリンはそう言うと、ひときわ声を大きくして笑った。つられるようにしてチェロもへへへっとこもった笑い声を上げる。


「俺もあんな格好をすれば合法的にロリと手を繋げるのか……」


「より不審者に近づいてどうするんだよ!」


 ピアノがチェロに向かって吐き捨てた。相変わらず口角だけを上げた嫌な笑みが浮かんでいる。


 胃がキリキリと痛んだ。廊下は喧噪にまみれていて騒々しい。そんな空間の中でも三重奏の話し声は俺の耳にねっとりとまとわりついて離れない。落ち着きを求めるように、視線があちこちへ行ったり来たりした。


 ヴァイオリンの頬が吊り上がる。細くなった目でピアノのほうを見た。


「あんな格好できないよな。椎奈さん専用のポジションだろ、ネタ枠、ネタ枠。恥ずかしくて無理だわ」


「ふっははは、だなー! てか、据衣丈なんか静かじゃね?」


 下衆が。ふとそう思った瞬間、俺の中で何かが千切れるのを感じた。糸が荷重に耐えかねてプツンと切れるように。平静を保つためのストッパーが外れた。

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