第33話 綻ぶ厚い糸
幻想的な青だ。ラッセンの描くイルカに似ている。俺は以前にもこんな感想を抱かなかっただろうか。
「一枚で二人まで入場できるから、ちゃんと誘えよ」
「おお、いいねえ、アオハルだあ。誘う女の子いるの? 写真ないの? 見せてよー」
羽衣さんの言葉は聞かなかったことにしよう。津田の声が耳に入ったとき、椎奈さんの二重マスク姿が脳内を過った。それと同時に、俺は思わず「あっ」と声を漏らしてしまった。
ポスターだ。この紙切れに印刷されているイラストは百貨店に飾られていたポスターの一部分――水しぶきと一緒に映っていたイルカの部分――そのものではないか。
椎奈さんを尾行した日の記憶が蘇ってくる。あの時に椎奈さんはこのポスターを見上げて、じっと立っていたのだ。表情など当然見えなかったし、静止していた時間は数秒に過ぎなかっただろう。それでも、椎奈さんのピクリとも動かない様子から、そのポスターに魅了されているような気がしたのを覚えている。
「据衣丈? 流石に無視はひどくね?」
津田のゆったりとした声音が聞こえて、横へ振り向いた。
妙に物事がトントン拍子で進んでいる。いや、進まされている。もしかすると津田はいろいろと企んでいるのかもしれない。それでもなぜか、踊らされているとは思わなかった。
「津田。ありがとう」
おそらく俺の今の表情は真顔だったのだろう。津田はぎょっとしたように顔をひきつらせる。ジトっとした目をしていて、戸惑っているのが感じ取れた。
「な、なんだよ、改まって。感謝の言葉なんて、あんまり似合わねえな」
「うるせえ」
ちらっと羽衣さんのほうへ視線を移した。歯を見せずにニヤニヤしている。いやに居心地が悪い。津田も似たような気持ちでいたのか、じゃあそろそろ、と言って置いていた鞄を手に持った。
すると、それを見ていた羽衣さんがすかさず津田に向かって「あ、ちょっと待って」と呟いた。
「昨日さ。変な女子高生がお見舞いに来た気がするんだけど。しゃー、誰かに私が入院してること言ったの?」
「変な女子高生? 来た気がする? なんか、すごい他人事だな。花穂には言ったけど」
羽衣さんの発言は全く要領を得なかった。津田も口を開いて呆然としている。変な女子高生? 俺には一人しか心当たりがない。
「花穂? 知らないけど、その子が病室に入ってきたことも会話したことも思い出せなくて、小走りで立ち去っていく姿しか覚えてないんだよね、私」
「は?」
津田は眉間に皺を寄せて、羽衣さんの顔を凝視している。こいつは一体何を言ってるんだ、とでも言いたげだ。
「しかも、去り際にちらっと見えた顔がちょっと恐ろしすぎて」
まさか、とも思わなかった。間違いなくその女子高生は――。
「マスクとアイマスクを一緒に身に付けてたんだよ。目も鼻も口も頬も何も見えなかった。怖すぎない?」
「あ、姉貴……、何言ってんだよ」
津田の声は沈んでいた。俺よりも明らかに動揺しているようだ。
「花穂だろ? 椎奈花穂。何度も会ってるし二人とも仲いいじゃん。呆けてんのか?」
「椎奈花穂? 誰それ?」
羽衣さんの顔には一切の笑みがない。何かが落ちて地面に接触する音が横から聞こえてきた。
不意に見やると、津田の鞄が倒れている。視線は上にスライドしていくと、この世の終わりにでも直面したかのような覇気のない表情が浮かんでいた。
「何が……起きてんだ?」
ふと窓ガラスのほうへ視線を向けた。透明な厚いガラスに映っていたのは街の景観ではなく、津田の呆然と立ち尽くす姿だ。
「ん? 何がなんだかわかんないけど」
羽衣さんは眉をひそめて首を傾げる。そのまま、斜め上を見やった。
「あの子、なんだか泣いてたような気がするんだよね」
* * *
昨日に引き続き、空はどんよりと曇っている。今にも灰の塊が降ってきそうな、そんなどす黒さがあった。
遂にこの日がやって来てしまったのだ。
正面切って椎奈さんと対話する。修羅場。そんな状況を想像しただけで胃の調子がおかしくなりそうだ。
正門をくぐる。登校ラッシュに差し掛かっていた。耳を塞ぎたくなるような喧噪だ。いつもと何ら変わらない騒々しさの中で、俺だけが浮足立っているに違いない。
不安で仕方ない。出来ることなら何の行動もとることなく自然と関係が修復して欲しかった。どうしても俺の性根は腐っているらしい。嫌悪感がとめどなく押し寄せてくる。どうして逃げようとするのか。状況を打破しようとしないのか。地から這い出た魔物が俺の足首を掴んで前に進まないようにしているのだろうか。妄想が作り出した魔物にすべて擦り付けたくなった。
ふと、津田が昨日言った言葉を思い出した。羽衣さんと椎奈さんは仲がいい。実の弟が言うのだから本当なのだろう。
それなのに羽衣さんは椎奈さんのことをまるで赤の他人であるかのように話したのだ。俺は思った――階段から落ちたときに頭脳に衝撃が加わったのだろう、と。きっとそうだ、間違いない。それ以外に考えられない。
俺は自分を納得させるかの如く決めつけた。偽り。そんな言葉が頭の中をすっと過っても、俺は無視した。
下駄箱の前で楽しそうに話し込む三重奏の姿が見える。出来ることなら今日はあまり近づきたくない。椎奈さんと話すことばかりが気になってしまって上の空になる、なんてことは火を見るよりも明らかだ。
そうは言っても上履きを履かないわけにはいかない。やむなく三重奏の立つ場所に近づいた。
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