第32話 喜と軌の紙
「しゃー、待ってたよ! あら、君は確か……」
羽衣さんは津田の顔を見るや否や目をクワッと見開いて声を跳ね上げた。雑誌を閉じて手元に置く。俺の顔を見ると一変して目を細め、小首を傾げた。
「しゃーの彼氏?」
「あり得ないでしょ! 嫌ですよ、こんな彼女」
思わず食い気味に突っ込んでしまった。羽衣さんの考えていることをなんとなく汲み取れる。おそらく見覚えはあるけれど中途半端に覚えていてつまらないから、敢えて呆けてきたのだろう。
横から「はあ」とため息の漏れる音が聞こえてきた。
「姉貴の呆けは突飛すぎて意味不明だし、据衣丈もそれに速攻で順応するとかそういう余計な労力は使わなくていいから」
「あーそうだそうだ。据衣丈くん! 思い出した」
「お久しぶりです。
「オカラ? へ?」
羽衣さんは頬に手を当てて、再び首を傾げた。オカラ専門店があるのであれば是非とも入店してみたいものだ。一度だけでいいけれど。
「それより羽衣さん、足は大丈夫なんですか?」
「ああ、平気平気! 年末には退院できるし体力も有り余ってるんだから」
「入院初日はかなりへこんでたけどな」
津田がそう言うと、羽衣さんは唇を尖らして眉間にしわを寄せた。唇が鮮やかな桃色で艶めいている。
「労災だからって長ったらしくグチグチ文句言われたし、クリスマスは病院で過ごさないといけないし、最悪なんだもん!」
「自分が原因でこけたのに、何言ってんだよ」
うぅと唸る羽衣さんには妙に愛嬌があった。
「躓いて階段から落ちたんですか?」
「いやー、スマホの画面に夢中になってて踏み外しちゃったんだよね。新作のチークとアイライナーに魅了されちゃってさ」
どうやら全面的に羽衣さんが悪いらしい。へへっと笑うその顔には化粧がされている。羽衣さんにとっては病室も外であるという認識なのだろう。女性は大変だなと微かに思った。
津田は鞄の中を探っている。しばらくして二つの小箱を取り出した。一見、何が入っているのか分からない。黒とピンクでデザインされた触り心地のよさそうな貼箱からは高級感が溢れている。
羽衣さんが、おおっと声を上げた。待ってました、と言わんばかりの反応だ。
「はい、お望みのものだぞ」
「うっはー、ありがとう! 楽しみにしてたんだよね、これ! しゃーもたまには役に立つなー」
羽衣さんはここが病室だということを忘れたのだろうか。それほどのはしゃぎようだ。
津田は羽衣さんの小馬鹿にした口調をさらっと受け流して、姉貴、と呟いた。
「水族館のプレオープン招待チケット」
何やら二人の間で契約が交わされていたらしい。津田は水族館に行きたいのだろうか。そんな話を聞いたことはなく、少し
「ああ、そうだったね」
羽衣さんはそう言って、近くに置いてあったベージュ色の小柄なバッグを胸のほうへ引き寄せた。濃い赤色の長財布を取り出すと、細長い紙切れを引っ張り上げる。
鍵を差し込むときのように軽く握られた色白な手は、津田ではなく俺の体の前に差し出された。
「はい、据衣丈くん。どうぞ」
「え? 俺に?」
紙切れが俺の目の前で力なくひらひらと揺れている。
意味不明だ。なぜ俺に与えられようとしているのか理解できない。ちらっと津田のほうを見遣ると、不本意ながら目が合ってしまった。
「元々俺がもらう予定だったんだけど、据衣丈に譲るよ」
「いや俺は水族館に興味ないし、津田がもらう予定だったんな――」
「きょいじょーくん! 早く受け取ってよ、腕がしんどいー!」
羽衣さんは俺の言葉など聞く耳も持たないという様子で喚いた。うるさい、うるさい、ここ病室、と思ってとにかくチケットを受け取る。
羽衣さんがニヤリと口角を上げた。涙袋がくいっと持ち上がっていて、恐ろしいほどに可愛らしい笑顔だ。
「よっし、据衣丈くんには何をしてもらおっかなー」
「は!? 受け取ったらダメなやつだったんじゃん、これ! 返す返す」
俺は津田の手元へチケットを押し付けた。羽衣さんの素性のしれない怖さは椎奈さんのそれとは段違いだ。この人に借りを作ってはいけないのだと直感でわかる。
「真に受けんなよ。冗談だぞ、その顔は」
「え、まじで?」
ちらっと羽衣さんの顔を見遣ると、顎に手を当ててクスリと笑った。
「可愛いなあ、男子高校生」
「ただ、貴重なチケットなのは間違いないし、やっぱり返すって」
「それをもらったのは据衣丈だろ。俺はいらねえよ」
津田にチケットを押し付け続けるも、受け取る気配がない。貰い物をたらいまわしにするのも気が引けるため、俺は手を戻して羽衣さんのほうへ向いた。
「本当にもらっても構わないんですか?」
「いいんだって! クリスマスには退院できないんだから誰かにあげないと勿体ないし、しゃーは据衣丈くんにあげるって言ってるんだから、素直に受け取りなさい!」
俺はしぶしぶ相槌を打ち、ありがとうございます、と礼を言った。
手元に視線を移す。チケットは横に細長く、コンサートやライブのチケットと同じようなものだ。描かれているイラストが目に飛び込んできたとき、既視感に襲われた。
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