第31話 途の中の事

 羽衣さんはいまもなお入院しているらしい。


 三日前のことだ。放課後になり、津田がいつになく深刻そうな顔で歩いているのを見た。


 声を掛けると、羽衣さんが救急車で運ばれたのだという。赤の他人ではあるけれど心配にはなった。一度会ったことのある人というだけで、無関係な人ではない気がしたのだ。後日話を聞くと、会社の階段から転落して足の骨を折ったらしい。


「予定がないんだったら一緒に行こうぜ」


「いや、予定はないけど姉弟でいるところを邪魔しちゃ悪いだろ」


「その言い方だと俺と姉貴がカップルみたいじゃねえか! むしろ姉弟が一つの部屋に二人っきりでいるほうが息が詰まるんだって」


 たしかに、と納得してしまった。津田は「行こうぜ」と呟き、俺の肩に手を回して半ば強引に歩みを進ませた。


 校舎から出ると、思わず肩から首筋にかけて力が入った。冷たい風が頬を撫でる。


「最近、花穂と話してる?」


 しばらく歩いていると津田が唐突に口走った。黒く澄んだ瞳から見えない圧力のようなものを感じて、居心地が悪い。俺は視線を伏せて「まあ」と曖昧に返事をした。


 俺と津田の影は真っすぐに伸びている。顔を上げると、陽が傾きつつあることに気づいた。空には青と橙のグラデーションが出来上がっている。


「あの日以来、話してるところを見てない気がするけどな。というか、お互いがお互いを避けてるように見える」


「そんなの……気のせいだろ。津田からはそう見えてるだけで」


 津田と目が合って思わず視線を地面へ落とした。気づかれただろうか。俺の言葉が嘘にまみれていることに。


 そうかもな、と呟く。津田の息が白くなるのを横目で見た。


「俺がそう見えたんだから、少なくとも違和感はある」


「違和感があったらダメなのかよ」


 思っていたことを口に出してしまった。すなわち椎奈さんのことを避けている、と自覚しているのを大っぴらにしたのも同然だ。津田がどんな表情をしているのかは分からない。見えているものはアスファルト上に出上がる灰色の影だけだった。


「いいのかダメなのかを決めるのは俺じゃない。所詮、部外者だからな」


「だったら……」


 放っておいてくれよ、とは言えなかった。津田は悪意でもってこんな話題を持ち出したのではないことを微かに感じるからだ。


 しばらく無言の時間が続く。靴と地面の擦れる音が虚しく響いていた。


「据衣丈は花穂のことが嫌いなの?」


「は!? いきなり何だよ」


 慌てて津田の顔をみやると、そこには笑みなど一切なかった。口は力むことなく閉ざされていて自然だ。夕陽の光が反射して瞳が輝いている。まるで深黒のビー玉みたいだと思った。


 喋りだす気配が全くない。津田の真顔には得体のしれない迫力がある。爽やかに笑っている時間が多いからだろう。


 一瞬、誤魔化しきれないと思った。そもそも、誤魔化すことに意味を見出せなかった俺は、再び視線を落として影を見た。自分のものなのか津田のものなのかも分からない影である。


「別に嫌いじゃない」


 だから好きだ、ということになってしまうのだろうか。椎奈さんの内面的な部分に惹かれつつあるのは間違いない。周りに流されずに自分の芯を持っているのは羨ましいと思ってしまう。周囲の悪意に触れても明るさを曲げず、相手のことを考えた優しさには穢れがないのだ。惹かれる要素は十分揃っていた。


「そか。それなら良かった」


「何でいきなりそんなこと聞くんだよ」


「据衣丈の気持ち次第では、もう何も言わないほうがいいのかもと思って」


 津田はようやく笑顔を見せた。その背後に大木が立っている。春には綺麗な緑色の葉に覆われる樹も、今は丸裸になっていた。こずえが寂しげに揺れている。


 しばらく沈黙が続き、黙々と歩くだけの時間が過ぎていく。駅が見えてくると、次第に喧噪も増した。とはいってもこの場所はまだ静かなほうだろう。津田の大きく一呼吸置いた音が隣から聞こえてきた。


「花穂はさ……据衣丈のことが気になってると思うぞ」


 気になってる? 誰が誰を? 俺は一瞬、言葉の意味を理解できなかった。


 突風が吹いて道端に茂っている草がざわざわと音を立てる。


「は?」


 心の底からの疑問は白い吐息に形を変えて、寒空の下に霧散した。動揺しているのか自分でもよく分からないけれど、なぜか心が妙に弾んでいる。


「ただの勘だけど」


 そう言って、津田は駅の入り口のほうへ歩いていく。その背中をぼんやりと眺めながら俺も後を追うしかなかった。


 羽衣さん――津田のお姉さん――が入院している病院は学校の最寄り駅からバスに乗ってニ十分ほどの場所にある。病院前まで来た頃にはすでに陽が完全に沈んでいて、辺りは仄暗ほのぐらくなっていた。


 病室のドアを開けると、白色と桃色が目に飛び込んできた。


 見たところいたって普通の病室だ。四人部屋になっている。全員女性だ。だからと言って室内が若い女性の部屋のような甘い香りに包まれているわけでは無い。高齢者だっているし、病院特有の薬品の匂いも漂っている。


 羽衣さんの陣取る場所は窓際の一角だった。五階ということもあり、周辺の街並みを一望できる。この部屋は確か東向きだったはずだ。夕方には部屋が寂れたように暗くなりそうだけれど、夕陽に照らされるビル群は綺麗なのかもしれない、とふと思った。


 羽衣さんはベッドでくつろぎながら雑誌を読んでいた。久しぶり、以外の感想が特に思い浮かばない。下半身にはブランケットがかけられている。


 羽衣さんは人が近づいてきたことに気づいたらしく、雑誌持ったまま顔を上げて「あ」と声を漏らした。

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