第29話 崩れ去る道

 数学から一問ずつ見ていった。この三科目の中では最もとっつきやすさがある。数学の解法は学んできたことを活用していくだけのため、実際に解いていけば対策になるだろう。


 問題は国語と英語だ。文章を読んでいるだけで眠気が襲ってくる。今日一日のほとんどの時間を睡眠に費やしたにもかかわらずだ。


 一パラグラフごとに視界が狭まっていく。何とか紛らわそうと、椎奈さんのほうをみやった。上半身をテーブルに伏せたまま動かない。


 眠りについたのだろうか。ふとそんなことを思った、ちょうどその時、閃きが生まれた。


 これまで幾度となく潰されてきた願いを叶えるときがやってきたのかもしれない。マスクを外すのは難しそうだけれど、アイマスクであれば可能ではないか。


「椎奈さん」


 寝ている彼女の近くまで移動して小声で囁いた。ピクリともしない。近づいてはじめて気が付いたけれど、スース―と空気の抜ける音がする。正真正銘、寝息だった。


 これはもしかすると大勝利を収められるのでは? と思った瞬間、胸が急速に波打ち始めた。


 腕を伸ばせば届く距離に椎奈さんの顔面がある。アイマスクもマスクもただの布切れに過ぎない。つまんで捲るだけの動作なんて簡単だ。シミュレーションだってできている。


 けれど、体は動かなかった。本当に本能の赴くままに進んでいいのだろうか。


 ハイリスク・ハイリターンな賭けではある。ばれてしまった場合、椎奈さんとの関係は崩壊するに違いない。


 一瞬、戸惑ったけれど、すぐに思い直した。行き詰っていたところに転がってきた、大きなチャンスなのだ。この機を逃せば、再び頭を抱えなければならなくなる。


 固唾を飲みこんだ。


 物音どころか空気を切る音さえも出さないように、ゆっくりと腕を伸ばす。むき出しの高圧電線で作られた輪の中に腕を通すような緊張感があった。


 人差し指一本分ほどの距離まで詰めたとき、俺はぴたりと動きを止めた。ちょっとしたことが気になってしまう。


 静電気は発生しないだろうか。肌寒い季節なのだから無視出来ない。風邪の影響で体内にはプラスの電荷が溜まっている可能性もある。俺は念のため、カーペットに右手を押し付けた。手汗も同時に拭えただろう。


 俺は椎奈さんのアイマスクめがけて再び腕を伸ばした。近づけば近づくほど、鼓動が速くなる。いやに息苦しい。


 アイマスクに人差し指の先が触れた。滑らかな絹の触感がする。アイマスクの下側に親指を添えた。心拍数が跳ね上がる。


 ここ一週間で繰り広げていた椎奈さんとの攻防戦も今日で終わりだ。煮込まれた大根を箸で挟むように、真っ黒なアイマスクを優しくつまんだ。ほんの僅かに自分のほうへ引っ張る。椎奈さんの皮膚とアイマスクの間に小さな隙間ができた。このまま上にずらせば椎奈さんの目を拝むことができる。


 上方向に力を掛けた。


 ちょうどその時だ。右の手首に衝撃が走った。


「はっ!?」


 声にもならない吐息が漏れ出た。驚いているはずなのに言葉が出ない。さっと血の気が引いていくのを感じた。


 色白で細長い指が俺の黄褐色の肌にめり込んでいる。


 それは幽霊でも貞子さだこでも骸骨がいこつでもなく、椎奈さんの手だった。血液が手先まで巡ろうとしているのに、椎奈さんの握力がそれをせき止めている。


「それ以上は許さない」


 テーブルに伏せたままの椎奈さんの顔面から声が聞こえてきた。井戸から這い出た着物姿の女に手首を掴まれたような、どうしようもない恐ろしさがある。


 椎奈さんはむくりと顔を上げた。


「ち、違うんだ」


「もういいよ」


 咄嗟に出た俺の言葉はひどいものだった。無意識のうちに心が逃げてしまっている。俺の思考なんて見透かされているかのように、椎奈さんは食い気味で返答した。


 椎奈さんは俺の手首をつかむのを止めた。マスクもアイマスクもいつも通りのポジションを保っている。見た目は変わらない。その裏に隠された表情が怒りの形相なのか、それとも真顔なのか、はたまた笑顔なのか、真相は分からない。


「私、そろそろ帰るね。過去問は明日返してくれたらいいから」


 椎奈さんは喋りながら鞄を手に持ち、立ち上がった。言葉には抑揚がなく、声音がいやに冷たい。


「ちょ、ちょっと待って。わざと見ようとしたんじゃなくて」


「言い訳なんて聞きたくないんだけど」


 言うや否や椎奈さんはドアのほうへ歩いて行った。本気で帰ろうとしている。このままじっとしていては大切な何かが壊れてしまうような、そんな予感がした。


「待てって」


 立ち上がって椎奈さんを追いかけた。そうしてすぐさま手首を掴む。細くて脆そうで、力をこめ過ぎると簡単に折れてしまいそうだ。


 椎奈さんは立ち止まったけれど振り向かない。強い意志を感じる。


「とにかく、ごめん。悪かった。どうしても……見たくて」


 据衣丈くん、と椎奈さんは呟いた。肩が微かに震えている。至近距離に立っているからこそ分かることなのかもしれない。俺は咄嗟に掴んでいた手を離した。


「見損なったよ」


 椎奈さんの声音は恐ろしく落ち着いている。俺は何も言葉を発せず、ドアから出ていく椎奈さんの後ろ姿を呆然と眺めていることしかできなかった。

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