第28話 迷い込む恋
途端に部屋が冷え込んだような気がした。この部屋というかこの家には俺と椎奈さんしかいない。椎奈さんと二人っきりになることは今まで何度もあった。けれど、この場の気まずさは他のどの場面でも味わったことがない。場所が我が家のリビングという非日常感も要因として含まれているだろう。
「きょ、据衣丈くん!」
盛大に音程が外れている。椎奈さんの緊張感みたいなものが俺にも伝わってきた。やめてほしい。変に意識してしまう。
「ん、何?」
「お菓子を食べましょう」
お、おう。何故、敬語なのだろう。俺は相槌を打ち、開けられているスナック菓子をつまんで口に運んだ。
塩味とパリパリな触感が口内に広がる。忘れていた空腹感が一気に押し寄せてきた。まとめて三枚、ポテチを口に運んだ。飲みこむのも待たずに左手で掴めるだけ掴む。
「本当にお腹空いてたんだね。むさぼり方がお腹を空かした犬みたいだよ」
「流石に犬に見られるのは嫌だな。四足歩行できないし」
椎奈さんはえへへ、確かに、と囁く。
この場に張りつめられていた気まずさは次第に消えていっているように感じた。椎奈さんが話題を絶え間なく提供してくれるおかげだ。
今日の学校で起きた出来事はどれも新鮮なものだった。同じクラスの男子がある女子に告白して振られたらしい。クラスの中ではちょっとした噂になっているようだ。知らないところで広まってしまうのだから、学校という閉ざされたコミュニティーは末恐ろしい。
そんな悪意の塊みたいな空間の中でも椎奈さんの気持ちは清かった。あからさまに落ち込んでいた彼を何とか励ましたかったようだけれど、熟考した結果、話しかけずにそっとしておくことにしたのだという。たまたま彼は日直だったため、帰り際に少しだけ手伝ったらしい。椎奈さんの飾らない優しさが少しだけ残酷なように思えた。
「そういえば、津田っちは模試の過去問を見せてあげろとかなんとか言ってたけど……」
「ああ。あいつ、やけにそのことを気にしてたな。明日は登校できるだろうし、学校でやれば済むことだと思ったんだけど」
「だ、だよね! 津田っち、何考えてるんだろう、ほんと」
椎奈さんは、あははと笑い声を上げた。表情が見えないのだから、笑っていると捉えるほかない。けれど声のトーンに微かな違和感があった。
「椎奈さん、なにか隠してる?」
「え!?」
椎奈さんは声を荒げて体を後ろへ逸らした。動作が激しすぎたせいで、スカートが太ももの真ん中あたりまで
ふわりと舞ったスカートからは布が見えた。この世で最も価値のある布だ。水色なんて素晴らしいではないか。晴れた日の天空にも負けず劣らない澄んだ青色の成分は、見る者すべての心を天国へ誘うに違いない。数秒直視したのは言うまでもないだろう。
「い、いや、別に隠し事なんて……」
椎奈さんはそう言って、びくんと肩に力をこめた。スカートを握って、太ももの内側らへんを俊敏に押さえる。
「今、見えた?」
「……視界に入ってきた。勝手に」
「それって見えてたんじゃん!」
椎奈さんは拳を握って、カーペットをポンポンっと叩いた。椎奈さんは動作が大袈裟なところがある。特に鬱陶しいなどとは思わない。表情を見られないのだから、むしろ有難いぐらいだ。
結局隠し事はないのだろうか。うまく煙に巻かれてしまった。わざわざぶり返すような話でもない。不意に椎奈さんの通学用鞄が視界に入って、話題の転換を試みる。
「丁度いいし模試の過去問見てみようかな」
「あ、うん。今日もらったのは国数英なんだけど」
椎奈さんはそう言って自分の鞄を漁り始めた。下を向いて鞄の中を覗いている。その様子をじっと眺めていると、アイマスクにかかる前髪がふと気になった。髪が伸びたのか、それともアイマスクの位置がいつもより上なのか、どうでもいいことだと思いつつも確かめたくなった。
「髪伸びた?」
椎奈さんは、え? と呟くと、動きを止めた。まるで石膏像のようだ。顔を隠しているせいで、余計に芸術作品の一種に見える。
「そうそう、そろそろ切ろうと思ってたんだけど。わ、分かるんだ……」
椎奈さんはボソッと呟いて再び下を向くと、鞄の中から模試の過去問を探し始めた。本当に伸びてきていたらしい。なんだか気持ちがスカッと晴れた。日常に潜んでいる小さな謎を解明した時の気分に似ている。
「はい、これ。国数英の過去問三年分」
椎奈さんは慌てたように早口で言った。手にはタブレット端末ほどの厚みを帯びた紙切れの束が握られている。ありがとう、と礼を言って受け取った。
パラパラと紙をめくり、全体の傾向を把握していく。会話は一切ない。俺は特段話題がなく黙っているけれど、椎奈さんは俺が集中しているのだと考えて気を使っているのだろうか。それは単なる思い上がりなのかもしれないと思って、気にするのはやめた。
無音の空間は着々と時を刻んでいる。一通り目を通し終え、気になった部分を細かく確認していくことにした。
椎奈さんはテーブルに突っ伏してぐったりとしている。授業になると必ずクラスの中で一人以上が陥ってしまうあの状態だ。マスクは腕に阻まれてよく見えない。アイマスクは本来の使い方を果たしているように見えて、しっくりきている。
網戸を吹き抜けてくる秋風が心地良い。これらの冷気は、木の葉や草、土、コンクリートなどのありとあらゆるものとぶつかってここまで運ばれてきたのだろう。秋特有の物寂しい匂いがする。
微かに上下する椎奈さんの肩には黒髪が垂れていて、風が吹き込むたびにひらりと舞った。
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